ASTRARE

飛竜使いのルザロ


 

 空気は静かに流れていた。軽くふわりと。けれど、どこか剣呑な雰囲気を湛え、時折、震えていた。人の聞こえぬような大地のうめき。日々、ジワリと悲痛の色を濃くするそれに気付く者もいる。それは何かを呼んでいた。
「――メロットの娘がこの街に来ているんだって? マイア」
『ああ、クレンティアの気配を感じるんだ。奴が一人きりで行動することはあり得ない。パートナーがいるかぎりはね。つまりはルザロも一緒ということさ』
 それは街一番高い時計塔の屋根にとまり、街全体を見渡していた。夕暮れの差し迫る橙色の街並みはひどく儚げ。記憶の彼方に埋もれてゆく思い出のようで、郷愁を残して去りゆく旅人だった。
「彼女たちも気が付いた、飛竜の恋人、バリテューンの血筋――ね」
『そうだろう。……今にアーシャもラコニアから来る。そうしたら、始まる。終わりかもしれないけれどね』
「でも、少なくとも昔の事にはケリがつく。私たちがいる間にあんな思いをしなくても済むよ」
 地平線の向こうに夕陽が消えた。

 アストレア。正義の女神の名を冠するその都は古くから魔法都市と呼ばれていた。この大きなアルファルド大陸の中でも珍しく、現在学問の中で科学が隆盛を極めようとするのを横目に魔法で発展して来た街だ。自然を略奪する科学を嫌い、自然の助けを借りる魔法を愛した。それは無論、科学を廃するということではなく、行き過ぎた科学万能の思想を疎んだ結果なのだが……。
「最近はやけに暑いな。アストレアの夏じゃないようだ。変な感じだよ」
 女はフードを外して空を見上げた。透き通るような水晶の瞳は雲一つなく快晴の空を見詰める。御日様は無情なほどに辺りをさんさんと照らしていた。けれども、空気は湿気っているようで、蒸し暑い。元来、この地方は乾燥しているから、蒸し暑い夏とは無縁なのだが。今年は様相を異にしているようだ。
「そりゃね、お姉さん。そんな厚着をしてれば寒くはないさ」女の声を聞きつけて誰かが言う。
「余計なお世話だよ。フード付きマントは正規の魔術師の証、もぐりじゃないよ」
 一瞬、煌めく水晶のような瞳が覘き、黒い長髪が誰もの心を魅了する。
「若い割には固いよな。今どき、それを着て歩いてる奴なんかいないよ。一応、国家資格なんだから免状くらい貰ってるだろう。そんな古着みたいのなんておまけだろ? 旧態然としたお役所のやることだ、魔術師といえば黒マントの固定観念が抜けきらないのさ。お姉さんもかい?」
「こら! 今度そんなこと言ったら、燃やしちゃうぞ!」
「ハハ、すまん、悪気はないんだ」
 女は立ち上がり、その誰かは女の表情と仕草を見て笑いながら逃げようとした。すると、男は背中から何かにぶつかった。振り返ると、そこには長身細身の男が立っていた。背中に長剣を負い、戦士風ではあるが、戦場を渡り歩いた傭兵、トレジャーハンターや冒険者にはとても見えないような華奢な雰囲気を漂わせている。
「あ、これはどうも、失礼いたしました」気がつけば左手が頭を掻いている。
「いや、別に構わないんだ。それより、聞きたいことがあるんだけど、答えてくれるか?」
 アストレアの繁華街に場慣れしていない様子で、おかしな口調で男は話していた。砕けたような雰囲気でいるものの、何故だか女を執拗に見詰めていた。
「いいよ。そこに座りな。椅子は――あれ?」左右を少し見回した。「そこに転がってるから起こして座ってくれ。用件は手短に分かり易くね。オーケー?」
 男はちょっとだけ困惑気味の表情を見せていた。ここら辺に足を運んだことはない。女はこの突然現れた男に対してそのような判断を下した。しかも、日中にふらりと訪れたのだから、ここの商店街で働いているということはなさそうだ。
「いや、占いじゃなくて、人捜しなんだが……」先を続けてとでも言うかのように女は右手をさっと差し出した。「この辺りで、ルザロ・バリテューンという男が占いをやっていると聞いた」
「“男”はいないよ」女はニヤニヤとして、両手を顎の下に組んだ。
 この男は確信を持っている。ルザロが男ではないと分かっていながらそう問っている。奇妙に自信を持った眼をちらりと見て女は思った。
「では、“女”ならいるのかい?」急におかしさが込み上げてきたように男は言う。
「いるよ」
「どこに?」
「あなたの目の前」ルザロはくすくすと微笑みを浮かべていた。
「じゃあ、君が……。いや、どうも、人違いのようだ。他を当たってみるよ」
 ひどくがっかりした様子だった。来たときと同じようにさっと立ち上がるとそのまま、ルザロに目もくれずに去ろうとした。あまり、のんびりとしている時間はなさそうな様子で何とは無しに落ち着きがなく、慌て焦っているようでもあった。
「女だったら、信用出来ないとでもいうのかい?」幾分憤慨したようにルザロは言った。
「いや、オレはルザロは男だと聞いているんだ。もう暫く捜すよ」
「ガセだよ、それ。最近、変な優男があたしを捜してるって言うんでね。“ルザロ・バリテューンは男”と言う逆情報を流してみたの。ちなみに……あたしがこの街、アストレアに来ているって知ってる奴なんて一人も居ないはずなんだけどねぇ」悪戯な瞳を男に向ける。
「と、とにかくオレは……」
「ルザロって男を捜している? いないって言ってるのに。石頭!」それから、ルザロは何事かを閃いたようだった。目を閉じると十数秒ほど独り言のような文句を呟いた。
『また、お前は余計なことをオレにやらせようとする。一昨日からの強行軍で疲れているんだ。少しは休ませてくれないと、……ぐれるぞ』その声は男には届かない。
(別にいいだろう。ちょっとしたお遊びだよ。クレンティアの大好きなね)
「これで信用してくれるかな? お兄さん」甲斐甲斐しく微笑んで見せる。「世界広しと言えども、これが使えるのは北の賢者様とあたしくらいだと思うけど? どこが見える?」
「海……?」
「うんにゃ、近くの民家の金魚鉢の水面」
 冗談めかしてルザロは言う。男は訝しげな表情を浮かべてルザロを見ようとして振り返ったが、彼の視界に広がったのは海の反対側、デルトトンの港町だった。
「ふふっ! これであたしがルザロ・バリテューンだと信じてくれるかな。ま、最初から免状でも見せてたら簡単だったけど、それじゃあ、詰まらないし。ガセネタまいた意味も……ね」
『ひょっとして、それだけのためにそんなバカネタを街中にばらまいたのか?』
(そうだよ! それ以外に深い意味なんてありはしないさ。楽しいほうがいいでしょ?)
「それでオレはどこにいるんだ? 君の声はしても姿は見えないし、デルトトンの街が見える」
「身体はアストレア。目だけ、デルトトンよ。透視と遠話をくっつけた悪戯ね。どっちもアストレア領内の街だけど遠いから難しいんだよね。それで、何の用事だい? アストレア領主の息子様」
 鋭い視線を向けルザロは言う。予想していなかったルザロの言葉に男は一瞬当惑した。しかし、すぐに最初の調子を取り戻すと喋り始めた。
「……流石と言うべきか。一級魔術師、ルザロ・バリテューン」
「どうせ、あたしを試したんだろう? そこまで知っていてあたしの性別を知らないはずもないし、この街に来たのを分かってるのなら、魔術師連盟か何かと繋がりがあるって事だ。となるとお役所か、領主様くらいになるだろうさ。伊達に魔法使いはやっていないよ」
「伊達ではないか。だいたい聞いた通りの性格のようだね。そう、ばれているなら自己紹介をしておこう。オレはアストレア領主の長男、ラシェン・フューリアズ。ルザロ、君に折り入って頼みがある」真剣さの増した口調になった。
「お偉いさんが“頼む”なんて言うと大抵はロクなことじゃないんだけどね」
「オレはお偉いさんでも何でもないよ。ただの息子だ。それより、魔法を教えて欲しい」
 ルザロの突っ込みにもめげず単刀直入にラシェンは言った。
「何故?」暫く、間の悪い沈黙が二人の間を流れた。
「何と言ったらいいか――妹が魔性に憑かれた……。魅入られたんだ。だから、強力な悪魔祓が欲しい。君なら知ってるだろう? 魔性を祓う魔法。それをオレに……」
「魔法は……教えるわけにはいかないんだ」ルザロはラシェンの発言を遮った。「大きな魔力のいる魔法は素人が使うには危なすぎるんだ。一人じゃ使えない魔法だし、それに教えてる時間もないよ。ちっちゃな火を作る魔法くらいだったら今すぐにでも教えてあげられるだろうけど……ね」
 不本意そうだった。本当はルザロとて教えたいが科学と違い魔法を使うにはある程度の素養を求められる。無論、低級の魔法ならそんなものはなくても使えるが、高等な法力では魔法自体コントロールする為に強靱な精神力と鍛練が要求されるのだ。
「なら、オレと一緒に来て欲しい。魔法は教えられなくても、祓ってくれるだろう? 報酬は君が望むだけ出してもいい」切実のようだった。ラシェンの心の痛みがルザロにも響いてくる。
『ルザロ、余計なことに首を突っ込むなよ。ここに来たのは……ラシェンがどんな奴か確認するためだけだ。やめておけ、親しくなると辛くなる。心を痛めるのはお前だ』
 ルザロにだけ聞こえる声はそう言った。これから先のことを考えるのならその通りなのだが、困っている人を放っておけないのがルザロの気性だった。
「報酬は……この暑さをしのげる場所に連れてってくれるなら、それでオーケーだ」
「本当にそれだけでいいのかい? もっと要求しても……」
「いいよ。この狂ったような蒸し暑さが何とかなれば」ルザロはまた空を見上げた。やはり、雲は一つもなく太陽が陽炎の昇り始めた地面を痛めつけるかのように照りつけていた。「このままいったら、今年は干ばつ……小麦も何も獲れないねきっと、大凶作かな」
 独り言のようだった。最後の言葉はラシェンには聞き取れなかったようだった。
「すまない。こんなことを頼んでしまって」
「伊達に魔術師はやってないってっきも言ったよ。こう言うのがお仕事。気にしない。気にしない。変に遠慮されるとやりにくいんだよね。うまくいくとも限らないし……」
 ラシェンに気がつかれないようにルザロは呟いていた。

 ルザロは宿に帰っていた。
 そこは先程の繁華街からそれほど離れていない場所であり、高台にあるフューリアズの屋敷も確認できる位置。そして、また、奇異なほどの沈黙のあるところ。昼間、夕刻まではまだ間があるというのに子供たちのはしゃぐ声、歓声、人の気配すらも感じられないようだった。
(妙なことになったな。魔性祓か……。あたしに出来るのかな?)
 ラシェンとの約束の刻限までもう時間も少ない。なのに何故か気が進まなくなっていた。魔性を祓えない。それも確かに一つの懸案だったが、それ以外に何か良くないことに首を突っ込むようなことをしているような気がしていた。
(でも、約束しちゃったしな……。今更、いやとも言えないし。ラシェン・フューリアズ。大地の御子……。――しまったかなぁ〜)
「――クレンティア、今、どこにいるの?」ルザロは不意に思い出したかのように虚空に問い掛けた。聞こえているはずだ。彼に物理的距離はほとんど関係ないのだ。
『お前の頭の上だ』引き締まった渋い声がルザロの頭に響いた。『また、どこかに行くのか?』
「いたんだ、クレンティア」
『いちゃ悪いのか、ルザロ?』一瞬、ルザロの脳裏をクレンティアのニンと笑う顔がよぎった。
「ううん、何でもない。ただちょっと、淋しくなったから呼んでみただけ」
『昔を思い出していたのか?』そっと静かにクレンティアは言った。『オレとお前がラコニアで初めて会ったとき、お前はまだ駆け出しの魔術師、ガキだったな、ルザロ?』
 姿の見えないクレンティアはルザロに好き放題を言っている。別段、悪気はないらしいが一度話し始めると止まらない性質のようで、時々始末が悪い。
「ま、ね。この話はまた今度にしよう。あたしは約束があるんだ。やっぱりそろそろ行くよ」
『オレの翼で行くかい』悪戯っぽく聞こえる。
「それは目立ちすぎるだろ、クレンティア」
『ハハハッ、そりゃそうだ。だが、今更手遅れだと思うぞ。オレが宿屋の屋根に巣くってるのがよほど珍しいと見えてな。そこら辺は黒山の人だかりだ。ま、アストレアにオレの仲間はいないからそんなものなのかもしれないがね』
 クレンティアの言葉に驚いて、ルザロは手短の窓に近付いて地面を見下ろした。すると、巨大な鳥の影が見え、さらにその下に確かに人だかりが出来上がっていた。同時にあまりに静まり返っていた理由が分かったような気持ちがした。
 そして、窓枠から身を乗り出してルザロはクレンティアに怒鳴った。
「こら! あれだけ騒ぎは起こすなって言ったじゃない! 言うこと聞かないと氷漬けだよ」
『ホラ、しおれたルザロが元気になったよ』吼えるように笑い、クレンティアは言う。『じゃあ、オレは例のところへ先に行っている。あそこなら目立たないだろう? ルザロ』
 離陸ざま、クレンティアは瑠璃のように輝く大きな瞳をルザロに向けた。それは見たものの心を魅了する魔力を秘めた優しい瞳。無邪気で知的な眼。でも、それは同時に悪魔的な一面ももち、恐ろしいほど打算的に振る舞うこともする。ルザロもそれに魅入られた一人だった。
「……飛竜ってあんなにひょうきんだったかな――?」
 楽しげな疑問を抱きながらルザロは身支度を始める。
 クレンティアがいたら、どんな辛く哀しいときも乗り越えられるような気がするのだ。ルザロとクレンティアが出会ったのはもう、十何年も前のこと。季節は冬。大雪の降るラコニアでのことだった。それは今でも忘れられず、時折ルザロの脳裏に鮮明に浮かび上がる。

(ルザロ・バリテューン……。メロットの娘。まさか、こう言う形で面倒を見ることになるとはな。お前の娘は凄腕の飛竜使い……飛竜の恋人になれるのかな――? お前のように)
 一昨日からの雪は一向に止む気配を見せなかった。それどころか、激しさは増すばかりだった。希代の大雪とも言われ、降雪量も積雪量も昨年を上回っても、雪はしんしんと降り続けた。灰色の空と止めどなく溢れ出す白い雪、短い視界。踏みしめられるときゅきゅと音のする新雪。
 そんなラコニアの街にルザロはいた。繁華街の外れで、身体に降り積もる雪も構わずに街道筋をゆく、人を見定めていた。
『……こんなところで一人、何をしている』突然、ルザロの頭上から声がした。
「あなたには関係ない。放って置いて」ルザロは確認するでもなく邪険に言った。
『――お前はパートナーを捜しているのか?』それはルザロを見るのではなく、ルザロと同じ方向を見詰めている。真摯な瞳で、降りしきる雪の中で動く人影を見ていた。
「……」
『魔術師、なんだろうお前。今より、強い力をもつには大地の力を共鳴させる器……パートナーがいる。――それなら、こんなところにいるより連盟ででも捜したほうが早い……』
「人待ちだよ。手紙で約束したんだ。今日、ここに来るって」
 ルザロは頭に降り積もった雪を振り払った。防寒着を着込んでいるのに、寒さが身にしみるようになる。じわじわと締めつけるような寒さ。足先はじんじんとして、顔や耳は寒すぎて痛い。
『人は来ない』
「え?」ルザロはミトンをはめた手を無意識に擦りながら、振り向いた。が、声の主は見えない。
『人は来ない。奴はヒトではないからだ』
 それは遠い目をして遥か向こうの時計塔を眺めていた。夕暮れが近付いている。冷え込みは厳しさを増し、雪質はさらさらになる。明日の朝には膝下まで降雪があるかもしれない。
「ヒトじゃないの?」ルザロは眉間に皺を寄せ、見えない相手に問った。「でも、彼はクレンティアと名乗ってきたよ。人の名でしょ? 今日、ラコニアのこの辺で待っていたら必ず来るって……」
『時間は?』
「確か、八点鐘過ぎって……」
 ルザロはハッとした。時計塔を探して見る。粉雪に霞んでよく見えないが、間もなく八点鐘という時刻だということは間違いなかった。
「まさか、あなたがクレンティアなの? どこ? どこなの?」
『自分で捜してみろ。それがお前のパートナーになる条件だ』
 声だけがルザロの頭にやけに響いた。粛然と降り積もる雪と、路上に立ちすくむルザロには目もくれずに流れ去る旅人だけが見えていた。そこは何故か淋しげで、儚げ。虚空を見詰めているような錯覚にも捕らわれる。クレンティアの姿は未だ見えない。
『……ルザロ、上を見ろ』諭すような静かな口調。
「上?」ルザロはザッと上を見た。降りしきる雪が視界を遮る。「どこ?」
『よく見ろ、オレはお前の近くにいる……』
 屋根の上。薄桃色に染まろうとする空の中に黒っぽい影があった。それは人ではない。鳥のように見えるが、鳥でもない。シルエットから判断するに竜のようだった。しかし、それはルザロのよく知るような竜ではなく、翼があった。竜よりも小柄だったが、人の背丈の三倍、四倍は平気でありそうな体長だった。
「ま、さか、飛竜なの。クレンティア」ひょっとしたら、頓狂な声色だったかもしれない。
 クレンティアは悪戯な表情でニンと笑った。
『そうだ、ルザロ。今日からオレがお前のパートナーだ』
 そして、雪煙を巻き上げながらクレンティアはルザロ、新しいパートナーの前に舞い降りた。

 と、気がつけば、ルザロはアストレア領主・フューリアズの屋敷に辿り着いていた。大きくて立派な屋敷。自分が一生かかっても手に届きそうもないくらい豪勢に見えた。
「……ルザロ・バリテューン」門番に名を告げる。慣れないだけにちょっとだけまごつく。
「お待ちしておりました、ルザロ様。ラシェン様が先程からお待ちです」
 奇妙に浮世離れした感覚をルザロは味わっていた。色々な土地を旅してきたが、こんな感触を感じたのは初めてだった。不穏といえば不穏のようで、奇っ怪と言えばそんなような気もするのだ。そんな中で確かに感じるのは、自分が何者かに拒絶されていることだった。
(……好きじゃないな、この感じ。あからさまじゃないけど、悪意を感じるよ。いるんだ)
 ルザロは屋敷へと続く石畳を歩いていた。庭師により手入れが隅々まで行き届いた庭。どこかに小川が設えてあるようで水がサラサラと流れていく音が聞こえる。その全てがそろった空間に足りないものがあったとしたなら、それは血の通った人のいる雰囲気。ルザロが思うに、何故か、フューリアズの屋敷は無機的だった。
「変だな」
「ルザロ、来てくれたか」ルザロの背後から声がした。
「ラシェンか……。ここは変なところだよ。悪意を感じるよ。魔性だけじゃなくて、もっと他の人の悪意もね。あたし、こう見えてもこう言う勘だけはよく当たるんだ」
 ルザロは広い庭園を見渡した。どこかに何かが潜んでいるというわけではない。ただ、ルザロを嫌う視線みたいなものを時折、ちらちらと感じていた。
「悪意か。心当たりがないわけではないが、エレミアとは関係のないことだろう?」
「分からないよ。そいつと魔性が契約したのかもしれない……。オヤジさんの失脚を狙ってとか」
「そんな奴らは腐るほどいるさ」今更珍しくもないような言い方だった。
「そう?」
「ああ、そんなものだ。……オレについて来てくれ」
 ラシェンはくるりと背を向けるとルザロを屋敷へと案内を始めた。だだぴっろい庭を縦断して屋敷の扉をくぐる。と、石造りのせいか外側の熱気は遮断されているかのように、急に涼しくなった。そう思うと何だか場違いなところにいるような気分になる。
「本当はエレミアを連れて逃げ出したかった。もう、ずっと前から。ここにはいつだって変な人が来る。親父が親父だからね。君が知ることもないだろうけれど、親父の名は裏の世界でもかなり知れ渡っているようだ。悪徳領主として」
 ルザロもアストレア領主の悪名もよく知っていた。しかし、その一方で“魔法都市”の名を世界に轟かせたのも彼の功績だった。それまではいくらアストレアが魔法都市として知られていたとしてもせいぜい国内が限度だったのだ。
「でも、そのおかげでアストレアは科学万能に傾きつつある文明の中で生き残った」
「何もそこまでは否定しないよ」
 笑いながらラシェンは言った。
 屋敷の二階に上がると、片側がバルコニーになった回廊を進んだ。庭園を挟んでアストレアの街並みが見える。青い屋根と白い壁。それらは完全に統一されていて混じり気は一切ないと言ってもいいくらいだった。この街並みは初めて見たものの心は魅了するが、街の住人にはいささか厄介な代物だった。
(これが、アストレア領の都か。潔癖すぎるのも住みにくいよね……)
 僅かな間、ルザロは歩みを進めながらボーッとアストレアの街を眺めていた。ここから、青い屋根の上に一際高く目立って見えるのが街の時計塔だ。アストレアが小さな宿場町として産声を上げた頃に、何者かが建てたという話だ。今となってはその経緯を知るものは誰もいない。少なくともその時計塔は街一番古い建物で補修問題が時として浮上し論議になるらしい。それくらいはアストレアの都が初めてのルザロでも知るところだ。
「ここが、エレミアの部屋だ。……頼むよ、ルザロ・バリテューン」
「え? え、ああ」ちょっとだけどぎまぎとしてラシェンの顔を思わず見つめ返した。
 ラシェンは訝しげにルザロを見据えると、気を取り直してエレミアの部屋の扉を開けた。すると、反対側の窓からふわっと風が吹き抜けていく。ルザロはラシェンに促されて部屋には入った。少し不思議な感じがする。それは自分の過ごした少女時代とあまりにかけ離れているせいかもしれなかった。
「誰? お兄さん? お父さん?」
「彼女がエレミアだ……」ラシェンは窓際の置かれた椅子に座る少女を指した。「エレミアは生まれ付き視力が弱いんだ。全く見えないわけじゃないらしいけど、窓際からここは見えない……。霞の向こうのようだってエレミアは言うよ……」
(ラシェンの妹、エレミア)儚げなエレミアの姿を見るとますます浮世離れした感覚に襲われる。
「お兄さんなの?」優しく澄んだ声色。
「ああ、そうだよ。今日は前から言っていた魔法使いさんを連れてきたんだ」
 毛足の長いふかふかの絨毯に足を沈ませながらエレミアに歩み寄った。彼女の顔を見ていると薄幸の美女というのはまさに彼女のためにあるような言葉だった。それは全てが不遇なわけではないけれど、そう言った第一印象を持たせる雰囲気なのだ。
「ルザロ・バリテューンです……」何だかギクシャクしてしまっていつもの調子が出ない。冷汗が背中から流れ落ちるし、恥ずかしさに顔が火照って赤くなってしまう。
「もしかして、飛竜使いのルザロ?」エレミアがいち早く反応した。
「そう呼ばれることもたまにあるよ」
 ちょっとだけ誇らしげにルザロは言った。飛竜をパートナーに出来る魔道師は少なかったし、さらに飛竜の能力を最大限に利用できる魔道師というのはほとんどいなかった。そんな中でクレンティアを使う、使われているのかもしれないけど、ルザロはかなり優秀だったのだ。
「飛竜使いのルザロ?」ひっくり返った声を出す。
「お兄さん、知らなかったの? 飛竜使いのルザロって言ったら魔法の使い手として有名なのよ」
 エレミアは両手を胸の前で合わせて満面の笑みを浮かべる。声は弾んでいた。
「ルザロって呼んでもいい?」ルザロは静かに頷いた。「お願い! 飛竜さんに会わせて。一度でいいから、本物と会ってお話がしてみたいの!」
 ルザロは少々面食らった。大人しそうな少女から勢いのある言葉が聞けるとも思っていなかったし、いきなり飛竜に会わせてなどと言われるとは予想さえもしていなかった。けれども、ルザロはすぐに心を落ち着かせた。
「――だってさ、どうする、クレンティア?」
『その娘は可愛いのか?』
 窓の外からルザロにとっては馴染みのフューリアズ兄妹には初めて聞く渋い声が聞こえてきた。
「勿論、可愛いよ。クレンティア好みのかわいこちゃんさ!」茶目っ気を混ぜてルザロは言う。
『なら、今、そこに降りていくからちょっと待ってな』
 目をキラリと輝かせて、きっと悪戯めいた微笑みを浮かべているのに違いない。ルザロは思う。
 開け放たれた窓から風が入る。鳥の羽ばたくような音。けれども、それは鳥のよりも力強く風を切り、繊細さを感じさせる何かをもっていた。今まで感受したことのない何かが来る。エレミアの心はそう反応していた。
 それから、エレミアの窓からクレンティアの瞳が覗く。
『――初めまして、エレミア。オレがクレンティアだ』煌めく瞳をエレミアに向ける。
「ホント? ホントに飛竜さんなの?」
『飛竜じゃなかったら、オレは何なんだ?』クレンティアは目を閉じ、吼えるように笑った。
 エレミアの見たクレンティアの瞳。それはやはり無邪気さを秘めて煌めいていた。
「よく見えないけど、こんなに澄んでいるなんて……綺麗――」
 クレンティアとエレミアが初対面の挨拶を交わしている一方で、ルザロとラシェンは今後、どういった方法でエレミアに憑いた魔性を祓うか思案を始めていた。クレンティアはその二人の様子に気づいたようで、エレミアの興味を自分に引きつけようとしていた。
「ラシェン。エレミアの前に魔性が姿を現すようになったのはいつからだい?」
「それは分からない……。エレミアは話したがらないんだ。だから、オレが気がついたのもほとんど偶然さ。ホンの何日か前なんだ。たまたま、見た。虚空に消えていく魔性を! そいつはオレを見てほくそ笑んだよ。もう、手遅れだと言いたげに!」
「……だから、あたしを捜したんだろう? 少しは落ち着きなよ」
「ああ、そうだ。だから君を捜したんだ」頭を抱えてラシェンは言った。
「ねぇ。クレンティアはどこから来たの?」
『遠い過去からさ』大きな瞳を輝かせながらクレンティアはエレミアに微笑みを向ける。『エレミアの生まれる遥か昔からオレはこの世界にいた。エレミアも、ルザロも。今生きている人たちの知らない時代をオレは見てきた。……それは、いずれ、時間があるときにでもゆっくりと話そう』
 クレンティアのつぶらな瞳がルザロを見る。そろそろ、話を切り上げたほうがいいと言いたげに語りかけるような視線だった。ルザロには無論、クレンティアの意志が分かる。
「あたしたちはちょっと失礼するよ。ラシェンとも話があるんだ」
「分かったよ……」伏せ目がちにエレミアは言った。
『なあに、そんなに残念がることはない。話が終わればまた来るさ』
 ニヤリと笑うクレンティアの表情はやはり楽しげ、その大きな頭の中で何が巡っているかは誰にも分からない。クレンティアは暖かみのある微笑みを残してエレミアの窓からいなくなった。
「また、後で来るから。それまで休んでいろよ」
 そう言うと、ラシェンはルザロを促し、エレミアの部屋を出た。先程の回廊を更に奥に向かっているようだった。その頃、辺りは既に夕闇に呑まれようとしている。涼しく、儚げな風が回廊を吹き抜けた。魑魅魍魎の徘徊する漆黒の闇が始まろうとする。
「ルザロ……。エレミアに憑いた魔性のこと、何か分かったかい?」
「何とも言えないよ。それにあたしよりもきっとクレンティアの方が……知ってる」
 色々と入り交じった複雑な表情をしてルザロは呟いた。
 そして、ラシェンの部屋。壁際の本棚にはルザロの見たこともないような本がたくさん並べられていた。そこから余った本は床やテーブル応接セットの上に平積み、でなければ散らばっていた。ルザロはその中の一冊を何の気なしに手にしていた。
「飛竜の生態?」
「あ? ああ」一瞬、声がひっくり返った。「それは結構古い本だ。飛竜とヒトがもっと近かったころに……このアストレアに飛竜たちが住んでいたときに書かれたものらしいよ。もう、三百年も四百年も昔の話さ」残念そうにラシェンは言う。
『ふ〜ん? ラシェンもまた珍しい本を持っているな』
 突然、前触れもなしにクレンティアの顔が窓から覗いた。ルザロはそんなことには慣れっこになっていて驚きすらしなかったが、ラシェンはそうはいかない。顔面を蒼白にして早い息をしていた。一歩間違えば、卒倒ものだったに違いない。
「驚かさないでくれ、クレンティア。寿命が縮んでしまう」
『悪いな』クレンティアはニヤリとした。
「クレンティア、エレミアと話してどう感じたの?」ラシェンを無視して、クレンティアに問う。
『率直に言っていいのか?』にわかに真顔になった。ルザロは唇をクッと結んで頷いた。クレンティアは瞬間、ラシェンの顔を窺うも話を続けた。『一見元気そうで精気に溢れているように感じられるが、……エレミアからは生きる意志がいまいち感じられない。あれは魔性の格好の餌食……。時間の問題だな』
「それで、エレミアは自分に魔性が取りついていることを理解していると思うかい?」
 それが“悪魔祓い”で重要なことだ。外からの力があっても本人の強力な意志がないと成功率は極端に減るのだ。ルザロのような“飛竜使い”が出せるかぎりの力を出したとしても、エレミアの心がそう望まなければ無力に等しい。
『ちょろっと聞いた感じ、エレミアは魔性のことを誰か、夢の中の人だと思っている節がある。ルザロが悪魔祓に来たとは思っていないようだぞ』
「じゃあ、遊びに来たんだ!」茶々を入れる。と、ラシェンの視線が突き刺さる。「……本気にするなよ、ラシェン。こう見えてもあたしは考えてるんだから――。クレンティアもあたしも堅苦しいのは嫌いなんだ」水晶の瞳が綺麗で、ラシェンの心を密かに捕らえる。
「オレだってそうだ。けれど、妹のことだと思えば誰だってそうなると思う……」
「否定はしないよ。否定はしないけれど、そうしないとあたしがやっていられない」
 ルザロの過去を見ているのかもしれない。瞬間、ラシェンは思った。時々、垂れた髪の間から覗く涙に潤んだ瞳がそれを物語っているよう。ラシェンの知らないルザロの時間。どこでどんな風に過ごしてきたのか気になり始める。
「それでどうするんだ。一級魔術師、飛竜使いのルザロさんは」
「取り敢えず、今晩、エレミアの部屋で魔性と会ってみる。そうでないと分からないから」
 意味深な言葉を放ちながら、ルザロの真剣な眼差しはラシェンでも、クレンティアでもなく、虚空。間もなく、一番星が輝きだそうとするアストレアの夕暮れを見詰めていた。
「飛竜使いのルザロでも分からないことがあるんだね」
「それは……あるよ。あたしは神様じゃないんだ。知らないことの方がきっと多い……。だから、あたしは色々なところをあてもなく彷徨うのさ」
 昼間の陽気なルザロの姿はそこにはなかった。物憂げで、過去に忘れてきた大切なものを探し求めている。それは決して手に入らぬもののようで、同時に切なげだった。
「……確かに、連盟で聞いたときは所在不明の代名詞みたいな奴だと言われたよ」
「ショザイフメイ……。淋しくて、哀しくて、嫌な言葉だ――」ポツリポツリと細切れの言葉を繋ぎあわせる。すると、心配そうなラシェンの眼がルザロを覗く。「あ! いや、何でもない! 気にしないで。今のは忘れちゃってください。お願いします!」
 それは滅多に見られない不思議なルザロの姿だった。付き合いの長いクレンティアでさえも取り乱したルザロなど二回か三回見たか見ないかと言うあたりだから、かなり珍しい。でも、クレンティアは冷静で、フォローを入れそうな気配も見せない。それどころかこう言うのだ。
『オレはここの屋敷の屋根の上に泊まらせてもらう。またな、ルザロ、ラシェン』
 そして、一陣の風を巻き起こしてクレンティアは屋敷の屋根の上に消えてしまった。
「ちょっ、それはあんまりなんでないの、クレンティア! 少しは構ってくれてもいいじゃない」
 窓枠から身を乗り出して、クレンティアの姿を追う。
『ホラ、いつものルザロに戻ったよ』クレンティアの吼えるような笑いが聞こえる。
 クレンティアはすっかり、ルザロの操縦法を心得ているようだった。
 夜の帳は落ちて、十一回、鐘の鳴る時刻。エレミアは自室のベッドで眠りについていた。ラシェンの言うにはそろそろ魔性の現れる時刻なのだそうだ。だから、取り敢えずルザロはエレミアの部屋で番をすることにした。相手がどんな魔性なのかをまず見極める必要があるのだ。
(魔性か……。また、厄介なものを……)
 ルザロはベッドの前から離れると窓辺に寄った。クレンティアは屋根にとまっているようで姿は確認できない。でも、ルザロにはクレンティアの発する静かな波動が感じられた。いつも、分かるわけではないけれど、穏やかな夜にはクレンティアの透き通るような雰囲気が見え隠れする。
(クレンティア、あなたと出会わなかったらあたしどうなっていたんだろうね……。あなたは何も言わないけれど、母さんの死んだ日、あなたは――)
 と、空気が騒めきたった。静かに微風に揺られていた木々が、何者かにざっと撫でられたかのようにざわざわとする。不安に感化されてしまったように落ち着きがなくなる。
『来た』クレンティアの閉じていた目が開かれた。
「来たな」ルザロは窓辺に揺らめく蜃気楼のような影を見る。
 それは次第に実体を現し、人の形態をとろうとしていた。魔性が人の形をしているのではない。魔性に独自の形はないのだ。近くにいるものの“精神”の力を使って仮の姿を形作る。だから、それは多分、エレミアの心を貪ってその形になろうとしているのだ。
(誰の姿だ? あれは)ルザロは眉間に皺を寄せて、それが何であるのか見極めようとする。
 暗がりの中にうすらぼんやりとしているそれが何なのか、ルザロのにはまだ分からない。迂闊に手を出せないので、ルザロは暫く静観の構えをとっていた。
「お母さん……」
(お母さん?)
 魔性がエレミアの深層意識に反応して、ちらほらと姿を変えたり揺らいだりする。
「今日も来てくれたんだね。お母さん。もう、どこにも行かないで……」
 寝言。エレミアの声が途切れた後には必ず魔性が振るえている。ルザロの見るところ、明らかにエレミアの言葉とリンクして反応している。エレミアと魔性は会話している。
「一人じゃ、淋しいの……。お兄さんは優しいけれど――。……」
 会話の断片をつなげて、全体を推理する。直情的なルザロには苦手なことだが、仕方がない。こればかりは魔法ではどうにもならないので頭で考えるのだ。魔性の横で楽しい夢を見ているだろうエレミアの寝顔を見ながらの憶測は何だか虚しくなってくる。
「どうして、お母さんは死んじゃったの……? 私はフューリアズの娘なの?」
(楽しい夢って訳でもないのか……)ルザロは同情の目線をエレミアに向けた。
「――今のお母さん、私に優しくないんだもの……。私、どうしてこのお屋敷にいるの?」
 ルザロはエレミアと魔性の不可思議な会話をジーッと聞いていた。すると、魔性がエレミアに取り憑いた理由。エレミアに魔性の付け入る隙が出来たわけがゆっくりと見えてくる。
(クレンティア〜。聞こえる?)
『お前の声はどこにいても聞ける』答えるクレンティアの瞳は遠く時計塔を見詰めていた。
 そろそろ、一点鐘の鳴ろうかという時刻だった。昼の蒸し暑さは幾分解消されたが、それでも眠るのにはまだ暑すぎる気温だ。数日連続の熱帯夜だった。
『それで何だ』クレンティアの瞳は時計塔を離れ、それとは反対側の山岳地帯を向いた。三千、四千メートル級の山々が連なる、アルファルド大陸の屋根、ラコニア連山だ。
(フューリアズの家系についてちょこっと調べて欲しいんだけど……)遠慮がちに言う。
『分かった。遅くても明日の昼までには調べを付けておく』
(頼むよ……)
 クレンティアは何故かラコニア連山の方角を気にかけていた。鋭い視線を向けたまま思いを馳せているようだ。時々、尾っぽをゆらゆらさせて、何やら苛立たしげでもある。
『メロット――ヒトはこの世にいないほうがいいのかもしれない』
 意味深な囁きを残して、クレンティアは屋敷の屋根から飛び立った。
 翌朝。ルザロはラシェンと同じテーブルについていた。朝食の時間だった。エレミアは出たくないと言うので自室で食事をしている。だから、ここには二人きりだ。エレミアの事もあるのでいい雰囲気とはいかずに、朝から空気が重苦しい。
 ラシェンは昨晩の様子を聞くタイミングを取りそこね、ルザロは推理した内容が内容だけにどうしようかと悩んでいた。クレンティアが情報を仕入れてきてくれれば何の問題もないのだが。あんまり悠長にパンなどを口に運んでいたら、やきもきしているラシェンに悪い気がする。
「……エレミアの母親はラシェンの母親じゃない……、そうでしょう?」
 唐突にルザロは切り出した。ラシェンは面食らって暫く、口も利けずにルザロを見詰める。
「どうして……そんなことが分かった?」手に持った珈琲カップをトンとテーブルに置いた。
「エレミアと魔性の会話というのかな、あれは? 聞いていたんだ」
『エレミアは妾腹だろう。ラシェン』また、クレンティアが不意に窓に姿を現した。
「ま! またクレンティアはそうやって、前振りもなしにズケズケと言っちゃって。少しは」
『だが、時間はないんだろう?』ルザロを遮り、クレンティアは言う。
「気にしなくてもいい、ルザロ、クレンティア」
『オレは気にしてないよ』悪気のない瞳を見たらそれ以上は言えない。
「何だか、やりにくいな。こう、邪気がなくて、打算的でもなくて。そう言う人たちにオレはあまり縁がなかったから」ラシェンは数秒、二人から視線をそらしてテーブルを見詰めていた。「君たちには隠し事をしても意味ないだろ。――エレミアとオレは異母兄妹だ。そして、エレミアは」
『政略上はいてはならない子というわけだ』遠慮なく流れるようにクレンティアは言う。
「だが、オレには妹だということには変わりないよ。あいつがいないと困る」
「フューリアズ領主は“あいつ”にいられると困るようだけどね」遠回しにルザロは切り出した。
 そこに、一瞬間戸惑う、ラシェンの姿があった。
「親父が仕組んだのか?」
『九割方間違いない。連盟にそう言ったアプローチをしてきた奴がいた。呪い、呪詛の類で証拠の残りにくいものは何かとね。どれもこれも魔術師や呪術師がいるから、証拠は残ってしまう。が』
 クレンティアは目玉をギョロリとルザロに向けた。
「唯一、証拠を残さない方法があるとしたら、魔性を引き寄せ取り殺させること」
『と、言うわけだ。信じる信じないは別にして結構簡単にできる。それに――、一度取り憑かれると、引きはがすのは素人では出来ない。弱いのなら話は違うが』
 ラシェンは言葉を失っていた。アストレアの覇権を狙って事だったほうがまだ納得できたかもしれない。自分の娘に手をかけようとする父親。間接的にとは言え、ラシェンには信じがたいことだった。昔から、家族よりは政治という人柄だったが、ここまでとは考えたこともない。
『……中央政界に打って出るにはエレミアはスキャンダルの種になるようだぞ? ついでに言っておけば、まあ、当然非公式だが、魔法を非科学的とかいって放逐したいらしい。アストレアを“科学都市”にでもリストアしたいのじゃないのか?』
「でも、アストレアを魔法都市と売り込んだのはフューリアズのおっさんだろ?」
 ルザロは問う。すると、クレンティアの瑠璃の瞳がルザロを見、まだまだガキだなとでも言いたげに眼をくるくると煌めかせる。
『――ルザロは知らんのかもしれんが、中央は科学万能主義だからな。奴らに言わせれば魔法は低俗で野蛮なのだそうだ。オレはあれらの科学の方が慈しみの心を失った低級なものだと思うがね』
「人は何よりも利己的だから」ラシェンがボソッと口を挟む。
『ま、どちらにしてもそんなことをして手に入れた力など束の間の妄想のようなもの。移ろい行くものに意味はない』そう言うときのクレンティアの瞳は切なげな色を湛えていた。
「力は妄想か。的を射ているような気もするが。その妄想が浮世を支配する」
 父親の考えてることがラシェンには分からない。いつから、どこから狂い始めていたのだろう。今となっては闇の中で、前から優しいとはいえない父だったが、ここまで己が利益のために動く人間だとは思っていなかった。でも、アストレアを“魔法都市”と知らしめたときもそんなようなものだったので、あながち外れとも言えないのだった。
『まあな』クレンティアは暫く沈黙した後おもむろに答えた。
 それから、ラシェンの思いはエレミアに回帰する。自分たちの過ごしてきた時の思い。屋敷の白い壁に刻み込まれた過去。白亜の街に広がってゆくはずだったエレミアの未来。
「……エレミアは元々身体が弱いんだ。――小さいころから病気ばかりしていて」
 重い現実の中、ラシェンの口から漏れるのはエレミアとの思い出だった。
「何でかなぁ……」ため息をつく。
「今更そんなことを言っても遅い」ルザロは強い口調だった。「もう、祓うしかない」
『……魔性はエレミアの心の隙にがっぷりと食いついている。無理に引きはがすとエレミアの心を道連れに壊れてしまうかもしれない。ついでに、あれは魔性のうちでも強い部類だ。弱いやつなら一日か二日、悪夢にうなされるくらいで済むからな』
「そ、クレンティアの言うようにこの魔性は強い。その上にエレミアが自分の殻に閉じこもろうとしているから。もしかしたら、――かもしれないけど」
 本当に自分にエレミアに取り憑いた魔性を祓えるのだろうか。未だクレンティアの力を引き出せない自分に勝ち目があるんだろうか。不安に思う。ルザロは飲みかけの珈琲を口に運ぶ。
「魔性は窓から入ってくる。だから、あたしは今晩からエレミアの部屋の窓の下に泊まるよ。それが一番いいはずなんだ。何とも言えないんだけどね……。だから、ラシェン……、エレミアの部屋の見えるところはどこだい?」控えめにルザロは聞いた。
 二日目の夜。ルザロはエレミアの窓の見える裏庭にいた。窓から少し離れたところに大きな広葉樹があり、ルザロはその下に陣取ることにした。ふさふさとした芝生が心地よかったが、その余韻にひたっているほどの心の余裕はなかった。と、そこへラシェンがトレイをもって現れた。
「晩飯もってきたよ。今日はここで一緒に食おう」
「もう、そんな時間なんだ?」木の幹に寄りかかって座っていたルザロはラシェンを見上げた。
「ああ、そんな時間さ」そう言ってラシェンはルザロの横に腰掛けた。
 別段、話があるわけでもないのにラシェンはいた。聞いてみたいことはある。しかし、出会って間もないルザロには聞いていけないようなことばかりだった。そのラシェンの微少に移ろう表情を見て、ルザロが逆にラシェンに問い掛けていた。
「ラシェン、何かあたしに聞きたいことでもあるの?」
「え、う?」虚を突かれて、一瞬しどろもどろになる。「いや、何、大したことじゃないけど」
「聞くの? 聞かないの?」
 手で足を抱えて、膝の上に頬を乗せる。静かな微笑みを浮かべて、そっとラシェンの横顔を見る。ラシェンは思ってもいなかった展開にドキドキしているようだった。クレンティアはその様子を屋根の上から楽しげに眺めていたし、ルザロのそんな悪戯めいた性格が好きだった。
「き、聞くよ」優しく脅迫されているような変な気持ちだ。「ルザロはどこの生まれだい?」
 在り来たりな問いではあるけれど、舞い上がったラシェンにはそれくらいしか思いつかない。
「ラコニアだよ。……閉ざされた街」
「遠いな。ここからはずーっと北の彼方だ」
「遠いよ。何もかも、全てが思いでの彼方にある。でも、クレンティアと初めて会ったのもあの街だった。フフ、そおいや、変な奴だったよ、あの時から」ルザロはくすくすと笑っていた。「……色んな思い出を話してくれるんだ。色々だよ! 四百年、五百年生きてきた思い出話。いつも、何だか切なげでね。茶目っ気ばかりのクレンティアも苦労してるんだと思ったよ。そして、あたしと過ごしてる時が一番楽しいって、最後に言ってくれる。優しいんだ、あいつ……」
「クレンティアか……」ラシェンはルザロにこんなにまで慕われるクレンティアに少しだけ嫉妬を感じていた。「確かに不思議な飛竜さんだとは思うよ……。元来、飛竜はヒトに懐かない」
「そう……なんだよね。ホントは。だから、不思議なんだ。あいつが、何であたしなんかに付いてきてくれるのかさ。付き合いも長いんだけど、それだけは聞いても喋ってくれない。いっつも、笑い飛ばされちゃう。ちょっと悔しいんだよね、それ!」楽しげな声色に変わる。
「クレンティア……。どこかで聞いたことのある名前なんだけど」
「東の方の国に行ったら、歴史の教科書にも載ってるって、自慢げに言ってたことがあるよ」
「多分、違うよ」ラシェンは静かに否定する。「ま、いいか、そんなのは」
「彼が味方にあるかぎりはね! でも、あたしも知らないんだ。あたしと出会う前、何をしてたのかも。ま、クレンティアにも秘密にしておきたいことはあるだろうから、根掘り葉掘りは聞かないようにしてるつもりなんだけど。やっぱり、お前はうるさいとか言われるんだ」
「ハハ、クレンティアがうんざりするくらい質問攻めにするのかい。結構見物かな?」
 ラシェンはあの顔が困るところを見てみたいような気がしていた。
「でも、クレンティアはいい奴だよ。それだけであたしには十分なんだ。本当はね」
 話がクレンティアのことで盛り上がりを見せるころ、辺りは紺碧に沈み込もうとしていた。この時間になると狂ったような暑さもホンの少しだけ和らいだ。それでも、十分な睡眠をとるにはまだまだ気温が高く、寝苦しい夜が続く。
「そろそろ、戻るよ。オレに出る幕はないから」ラシェンは切り出す。
「分からないよ。普通の魔法とは違って、悪魔祓いは最後に“愛するもの”の引き止めが重要になるんだ。エレミアの心は現実を見ていないから、ひょっとしたらね」
「出来れば、そうはならないことを望むよ。その方が理想なんだろう?」
「ラシェンを危険に巻き込まないという意味ではね。でも、ま、どっちに転ぶかはまだ分からないよ。少なくとも、簡単に済むことはないでしょうね。何があってもいいような準備はしておいて欲しいけど……」
「分かったよ」それだけを言って、ラシェンはルザロの元を後にした。
 話したいことはまだ、たくさんあるのだけど、長話をしていてはルザロの邪魔になってしまう。
 ラシェンが屋敷に戻るのを見届けるとクレンティアが屋根の上から突風を巻き起こしながら、降りてきた。そして、ルザロの横に落ち着くなり、こう言った。
『あの魔性はお前の手に負えない。やめておけ』
「いきなりそう来た?」
『ああ、今更、お前に遠慮することはないだろう? それにお前も分かっているだろう。魔性自体もかなり厄介そうだが、それ以前にな、エレミアと魔性があれだけシンクロしてしまっていては、はっきり言おう、お前の力じゃ足りない。あれをエレミアを無傷で引きはがすのはベテランでも出来ないことだぞ。無謀な挑戦はやめておいたほうが得策だ。それとラシェンとは親しくなるな』
「かもしれないよ。でも、あたしも遠慮しないで言わせてもらうよ――」すっと瞳を閉じて、見開く。「いやだ。あんな思いもう誰にもさせたくない、したくない。これに関してはクレンティアの指図は受けない!」
 ルザロはキッとクレンティアを睨んだ。瞳には僅かに涙がにじんでいた。
「それに、ラシェンをがっかりさせたくない。ここまで来てしまったんだ、やめられない」
『……なら、勝手にするがいいさ。その時、傷つくのはお前なんだよ』
 そう言い残すと、クレンティアはルザロの前から姿を消した。クレンティアの大きな瞳から滲み出ていた淋しさがルザロの心に突き刺さった。クレンティアの気持ちも勿論わかっていたけれど、今更、退くわけには行かない。
「ごめんね、クレンティア」
 ルザロは裏庭に張ったテントの横で、星空を見上げながらそっと呟いた。
 その夜、クレンティアはフューリアズの屋敷の屋根でルザロを見守っていた。
『まだまだ、ガキだな、ルザロ。一つ一つを大切にするのは結構だが、いちいち熱くなっていたのでは……幾つ命があっても足りなくなる。――もっと、大人になれ……』
 ルザロのいるテントを大きな瞳が見つめていた。
 そして、深夜。昨夜と同時刻にありつつあるころ、周囲の雰囲気が変わってきた。草木が騒めき、身を縮み込ませようとしているのが分かる。風が不穏な空気を運び、幾枚かの枯れ葉が舞う。仄かな光を放つ月が雲に隠される。殺意が来た。人のそれとは違うが、明らかに殺意。
 クレンティアは翼に埋めていた頭をすっと上に伸ばす。目を細く開いて、それのいる方を探る。
『来たか。……奴にも多少は焦りがあるらしいな。今日は――奴も本気か』
 クレンティアの瞳はいつになく険しく輝いていた。茶目っ気にキラキラと煌めくのではなく、鋭い。全てを射貫き凍りつかせてしまうような冷たさがそこにはあった。クレンティアのそんな姿を見ることはまずなかった。そして、ルザロは夢の中。
『起きろ、起きるんだ、ルザロ! 奴が来たぞ。急げ。早くエレミアのところに行くんだ。オレはここで大地の気を練る。――???』
 ルザロの気配が感じられない。クレンティアは慌てて地面に降り、ルザロのテントを引っぺがした。すると、案の定と言うべきか、深い眠りに落ちたらしいルザロが転がり出てきた。
『先にこっちをやったか。奴め、なかなか頭が切れる。厄介さが増したな』
 舌打ちをすると再びルザロを見やる。
『頼りにならん、パートナーだな』ため息をつく。ともすれば頭を掻きだしそうな雰囲気だ。『ホラ、ルザロ。さっさと起きろ!』と、クレンティアはルザロの耳元で吼えた。
「うわっ! 何だ。何をするんだ、クレンティア!」
『何だじゃない。魔性が来た。急げ!』
 それしか言わない。けれど、ルザロはやるべきことを心得ている。
「クレンティア、背中を貸して!」
 ルザロはクレンティアの尾っぽから背中と首を伝って、エレミアの窓に飛び込んだ。鍵は開いている。実際、実体のない魔性を相手に鍵など無駄なのだ。それにもう、正規のルートをのんびりと踏んでエレミアの部屋まで行く時間などあるはずもなかった。
 窓から入るとそれはいた。魔性などと言った可愛いものではない、殺意そのものだ。ルザロは一瞬たじろいだ。違いすぎる。祓う祓わない以前の問題で、魔術師が扱う範囲外の事かもしれない。
(あれは魔性なんかじゃない。――殺意の塊。いや……殺意そのものかも)
 けれども、ルザロは退かない。冷汗を背中に感じながらも、立ち向かうしかない。ラシェンとの約束、契約不履行は魔術師の恥。それよりも何よりもルザロのプライドが許さない。
「力をあたしに、クレンティア」
『ああ』ルザロにだけクレンティアの声が届く。
 彼の眼は真っ赤に燃えていた。静かそうに見える地面、星の息吹を一身に集める。それが魔法の原動力だった。人一人が出せる法力などたかが知れている。だから、飛竜の力を借りるのだ。人間が人間以上の力を出すからにはそれなりの反動が返ってくるが止むを得ない。
 ルザロはクレンティアから送られる見えない力の集積を肌で感じていた。
 短い呪文らしき言葉を口ずさむと、手を合わせ、印を結び、力の流れを悪魔祓いの法力に変換する。あまり経験のない魔法だから、上手くいくかどうかはルザロにも確証はもてなかった。クレンティアから貰った“大地の息吹”を無駄なく変換し、コントロールしなければならないのだ。それにはクレンティアは関与できない。ルザロの力量に全てがかかる。
「お願い、消えて」
 手のひらに集中した力を魔性に向けて放つ。すると、魔性はルザロを見てニヤリとした。少なくともルザロにはそう思われ、背筋に悪寒を感じていた。法力が魔性に吸い込まれ、逆にルザロに返ってきた。そんな経験は今までに一度もない。
「嘘……」ルザロは唖然として言葉も出ず、動けなかった。
 返ってきた力をまともに受けて、ルザロは窓を突き破って飛ばされる。窓の外にはクレンティアが陣取っていて、ルザロはその頭に激突した。驚いたのはクレンティア、九死に一生を得たのはルザロだった。クレンティアは瞬間の出来事に戸惑いを見せたものの、地面に落下する前にルザロを口でくわえたのだ。そして、そっと地面に降ろした。
「ハッ! 流石に正攻法は利かないか。殺意だけあって手強いよ。もっかいだ、クレンティア」
 不服そうな顔を見せるも、クレンティアは何も言わない。再び集中し、準備を整える。その間にルザロはクレンティアの背中を駆け上がり、壊れた窓からエレミアの部屋に侵入した。
「お母さん、どうしたの?」エレミアのか細い声がルザロの耳を捕らえた。
「どこかいいところに連れていってくれるの? 行くよ、私。お母さんの行くところなら……」
「行かないで! エレミア!」思わずルザロは怒鳴っていた。「クレンティア、早く!」
『急くな』落ち着いた声がする。『いいか、ルザロ。もう一回が限度だぞ、しくじるな』
 今度は慎重だ。強大な魔法はそうそう連発が利かないのだ。そして、ルザロの身体のことを思ってクレンティアは言う。
(奴は揺らぎすらしなかった。普通なら少しは……)
 その瞬間、嫌な予感がする。考えたくもない事柄だ。ルザロはその思いを振り払う。
「クレンティア! もっと、力を貸して! こんなんじゃ、祓えない!」
『ルザロ! 大地の力が弱まっている! これ以上の魔法を使うのは無理だ。やめろ、ルザロ! 剥きになるな。時間はないかもしれないが、急くとロクなことにならない! パワーのない悪魔祓など、エレミアの体力を消耗するだけで無駄だ』
「うるさい! やってみないと分からないでしょ! クレンティアはグチャグチャ言わないで限界まで力を集めて! どっちにしろ今日ケリをつけないとエレミアは死ぬ」ルザロは譲らない。
『――お前は、メロットの二の舞いを見たいのか!』
「見たくない。見たくないから、エレミアを助けるんだ。今しかないよ。今しかないんだ」
 それは自分に言い聞かせているかのようだった。そうしていないと手のひらから大切な何かが零れ落ちてしまいそうなのだ。それが何なのかルザロ自身分かりはしない。プライドとかそんな上っ張りの事ではなくて人としての根幹に関わりそうなことだ。
「あたしたちが来たから、エレミアの時間が縮んでしまうんだ。そんなのいい訳ない」
『いいはずはないけれどな……』クレンティアは呟いた。
 その間にもルザロは集中力を高めていた。生半可なことをしていてはダメだ。クレンティアから貰い受けた全てを上手に使ったとしても足りないかもしれないのだ。エレミアが現実のルザロを見てくれない限り。
「エレミア、生きて。お願い、生きて! 幻なんかに呑まれないで!」
 ルザロはあらんかぎりの思いを込めて魔性を祓おうとする。大地の息吹とルザロとクレンティアの思いを魔性に向ける。けれど、魔性はルザロをせせら笑うかのように揺らいだだけだった。事実、ルザロの放った力は低級、中級の魔性など痕跡すら残さず消し飛ばすくらいのものなのだ。高等の魔性ですら、ただでは済まないはずだった。
「どうしたらいい? クレンティア!」窓枠だけになった窓からクレンティアに問いかける。「生きる意志が感じられない。死に急ぐものから魔性なんて祓えない! 魔性がエレミアに憑いてるんじゃなくて、エレミアが、無意識に魔性を掴んでる。ダメ! エレミア、魔性を放しなさい」
 必死の形相でルザロはエレミアに話しかけた。しかし、エレミアは魔性とともに深い夢の中。決してこの世界で叶うことのない夢を追い求めて広い心の海を彷徨っている。それは虚空を見詰める瞳のようで、遠い昔のルザロ自身のようだった。
「あなたが掴まなくちゃならないのももっと他にある!」
『エレミア、オレと話をするんじゃなかったのか。何も話す前にお前は死ぬのか! 魔性を放せ』
 クレンティアとルザロの声が狭い部屋にこだまする。魔性はその奇妙な余韻に僅かに身を震わせたが、それだけだった。エレミアの負の思いが魔性の力を増長させている。祓えないのは魔性自体が強いだけではなく、エレミアの心が魔法の効力を打ち消しているせいもあった。
「お前、あの女の娘か何かなのか? ならば、禁呪を使うのか?」誰かが言う。
 すると、メロットを見ていた幾百もの瞳が娘の方を向いた。いや、少なくとも娘にはそのように感じられた。敵意に満ちた瞳。例えようのない不安感。怖い。娘は後ずさりをした。命の危険を感じるのだ。一部の人たちは娘を問い詰めようとし、また、あるものは娘を捕らえようとし始めた。こうなってはもう群衆を止めるのは不可能に限りなく近い。
「あ、あああ……」
(逃げなきゃ……、ころ、殺される。おかしい……皆、変になっちゃったの)
「お前、ひょっとして、メロットの娘なのか?」
「その娘……ルザロよ。メロットの娘の。だから、消しておしまいなさいよ。きっとこの娘だってメロットとおんなじよ。生かしておくには危険すぎるの。このままだったらメロットの後を引き継いで悪魔を呼ぶわ」
 逃げ……なくちゃ。そう思ってもすくんだ足は動いてはくれない。逃げないと殺される。そんな考えが頭をよぎる。ルザロを囲む村人たちから手が伸びてきた。まるで、死霊のようで精気はなく、死霊使いにでも操られているかの如く。それが更なる恐怖を煽る。
「いや……。私によらないで……」か細い声でルザロは言った。だが、周囲の雰囲気に呑まれた人々には届かない。ルザロ一人より街全体の安全の方が重要なのだ。
「この娘も消すべきだ。家族、血縁、メロットの親戚は全員消すべきだ」
「メロットのところは母娘二人きりさ……。ルザロが死ねば誰もいなくなる。いいことだ」
「いい……ことだ……」その言葉は一握りの意志から多数の意志になる。
「ひっ――」叫びにならぬ叫び声がルザロの口から漏れる。
(私の足! 動いて、お願い動いて! あぅぅぅ……)
 けれど、震える足はほんの僅かしか動かない。目は狂気に支配されたような村人から離せない。それにもし、囚われた体が自由に動かせたとしてもどこに救いを求めたらいいのだろう? ルザロの味方になってくれるものはこの村にはいないのだ。
「誰か! 助けて!」
 その時、北の森からクレンティアが飛んできていた。彼にとってはメロットに魔法をかけられるなど一生の不覚だろう。彼にしては珍しく、大粒の汗を後方にぶっ飛ばしながらの飛行だった。しかし、正午の六点鐘を過ぎた今、手遅れだということは重々に承知していた。
 と、眼前の広場から、助けを求める声が聞こえた。
『……呼んでる? 誰が? ――メロット、ではないな……』
 十字架に架けられたままのぐったり頭をたらしたままの女を見てクレンティアは思った。見知った彼女の死に、多少の動揺は隠せない。けれども、涙は見せない。メロットのいる前ではクールに決めると、心に誓っていた。
『メロット……。お前とはまだまだ話したいことがたくさんあったのに。何故、いつもそんな無茶をしてきた。今だって、わざわざ戻って来て“生贄”にだなんてなる必要はなかった。オレの翼さえあれば、どこへだって行けた……』
 クレンティアは一回、広場を越えて旋回して戻ってくると、その蒼い瞳を地上に向けた。見れば身を凍らせた一人の少女を群衆が取り囲んでいた。逃げ場はない。クレンティアは一瞬、どうすべきなのか悩んだ。メロットの死んだ今、クレンティアが人間に肩入れしなければならないような、理由はなくなっていた。
『お前は曲がったことが大嫌いなアストレアだ。そんな必要はどこにもなかった。――廃れた神話みたいなことしやがって。ルザロをオレだけでどうしろというんだ?』
 クレンティアはその上空を暫く旋回し続けた。そして、心は決まったようだ。色々な思いと様々な迷いの色が交錯した瞳が淡い煌めきを取り戻す。少女を逃がそうと思った。困っているものを見付けたら放って置けない。自分でも呆れた性格だと思うのだが、それは生まれ持った性癖と言うべきやつで、自分の意志だけではどうにもならないらしい。
『……オレも――馬鹿だね。メロットを見殺しにしておいて、また、誰かを助けようだなんて』
 一人(?)呟くとクレンティアは急降下を開始した。広場の真上から一気に。
 上空から巨大な物体が舞い降りてくる。いち早く気がついたのはルザロだった。他の村人たちはルザロをどうかすることに夢中でクレンティアの気配を感じられなかったらしい。無論、クレンティアも悟られまいとしているわけだが、普通、巨大な飛竜が近付いてきて判らぬ人はいない。
 ぐんぐん近付いて来る。狙いを定める。
『そこの娘、一歩たりともそこから動くな!』
 そんなこと言われなくても恐怖に取り囲まれたルザロは動けるはずもない。訳も判らない。飛竜族の巨大な姿を見たのも初めてのことだった。それが何故、急に自分に動くなと言ったのかは理解不能だった。飛竜の姿がルザロの視界一杯になった。
 その次の瞬間、ルザロの体は宙に浮いていた。クレンティアはルザロの服の襟をくわえ、自分の背中へと放り上げたのだ。ルザロの目の前は狂った群衆たちから抜けるような青空に変わっていた。ルザロはしばし宙を舞った後クレンティアの背中にドスンと落ちた。
『しっかりオレに捕まっていろよ。落ちても知らん』
 ルザロはなにがなんだが全く理解できなかったが、無言で頷いた。
 そして、クレンティアは垂直上昇を始める。急下降からの急上昇は体力を必要とする。大きな翼を羽ばたかせて飛び上がる。地面すれすれから、一気に数百メートルの上空まで。その時、クレンティアの翼から繰り出された突風は相当なものだった。雪煙を巻き上げ、ルザロの程近くにいた群衆を薙ぎ倒した。それはクレンティアの意にそぐわないことだったけれど、物理的にどうにもならなかった。
 その怒涛のような一瞬が過ぎ去った後、獲物を失った広場は水を打ったように静まり返った。全てのものがあっという間に消え去ろうとするクレンティアの姿を呆気にとられたように見詰めていた。飛びすさったあれが何なのか判っていないかのようだ。
 実際、飛竜が人里に姿を表したのは何十年か振りのことなのだ。
「え、えらいことだ。ひ、飛竜がルザロを連れていってしまった。こ、こんな近くで見たのも久しいというのに、二度も現れたうえにあんなおかしな娘など連れていってしまった……、ああ、何ということ……」老人は震える声で呟いた。
 飛竜族は神格化されていたところもあるので老人の発言も頷ける。それは飛竜族と人間との関係が希薄になってしまったことも上げられる。だから、今から数百年ほど昔はまだ、人間と飛竜はお友達のような関係にあった。それももう夢物語になってしまったわけだが。
 さて、再び上空。クレンティアはルザロを背中に乗せたまま水平飛行に移っていた。
『――どうして、君はあんな連中に取り囲まれていたんだ?』長く思い沈黙を最初に破ったのはクレンティアだった。それに対してルザロは身を震わせた。『驚かせたんだったら済まんね。だが、君をあの場から連れ出したオレにも知る権利があるのさ。ま、無理にとは言わんが』
「……そうかもしれませんね。飛竜さん……。でも、何故、急に私のことなんか……」
 ルザロは考え込むかのように静かにしおらしくしていた。
『そう……、何故だろうね。オレにもよく判らんよ。ただ、そう。あの時、君に呼ばれたような気がしてね。放って置けなくなったのさ。ま、町外れまで送ってやるよ。メロットの一人娘……』
 最後の一言はルザロに聞こえないくらいの囁きだった。

『それがオレとルザロの最初の出会いだった。ま、何というか重苦しい話だな。昔話はこれでお終いだよ』いつもの愛らしい瞳に戻って、朗らかにクレンティアは言った。「ルザロの過去……?」ラシェンは息を飲んだ。
『ラシェンの未来かもしれない』ボソッと呟く。
「あ?」驚いた顔をクレンティアに向けた。
『いや、何でもないさ。少なくとも、このことをオレの口からルザロに直接言うことは絶対にない。いずれ時が来たら、お前から話してやれ。もしかしたら、ホントは知っているのかもしれないがね。あれで、メロットは用意周到な奴だった。ルザロに宛てて何かを残していたかもしれない』
 上の空のようにクレンティアは視線を空に漂わせていた。
『オレ、ちょっと、空の散歩に行ってくるわ。ルザロのこと、暫く頼むな』そして、また、瞳だけをラシェンに向けてニンと悪戯な笑みを浮かべて付け加えた。『好きなんだろ、ルザロのこと?』
「い、いや、そ、そんなわけは」
『ハハ! 慌てるところがまた怪しいな』それから、クレンティアは吼えながら飛び去った。『そして、そうであればあるほどルザロは辛くなる……』
 クレンティアを見送るとラシェンは戸口に向かった。ずっとさっきからヒトの気配を感じていたのだ。メイドたちは部屋に近付かないようにと言い渡してあるから、一人しか考えられない。扉を開いて、左右を見渡す。それから、視線を下に落とすとラシェンから見て右側の壁際にルザロが膝を抱えてうずくまっていた。
「やっぱり、そこにいたのか、ルザロ」
 ルザロは無言で頷いた。まるで精気もなく人形のように。
「全部、聞いていたのか?」
「うん……」
「そうか、クレンティアも途中から気がついていたようだ。けど、話をやめなかった。ホントは彼もルザロに聞いて欲しかったんじゃないのかな。しかし、面と向かって話すのには耐えられなかったんだよ、彼自身。あんな事情があったのなら、オレでも多分話せないよ」
 ラシェンはクレンティアをフォローする発言をしている自分に気がついていた。何だか、ばつが悪いような気もするがクレンティアの微妙な立場が分からないでもないのだ。
 ルザロは立ち上がった。
「……。知ってたよ。クレンティアがお母さんのパートナーをしていたことくらい。と、言うか。教えてもらった。さっきもクレンティアの話に出てきたティーアって人に。彼女も飛竜使いなんだよね……。きっと、お母さんもクレンティアも何も言っていないだろうからって。そして、これからも絶対に話してくれないだろうからって。ホントはクレンティアの口から聞きたかったけど」
 そう言いつつ、ルザロはラシェンの部屋に入ってきた。
「あいつ、ぶっきらぼうだけど、結構、繊細なんだよね。いつも、平気そうな顔してるけど、あいつもショックだったと思う。色々と……ね。お母さんの事も、エレミアの事も」
 戸口の壁際につと寄ると手を腰の裏に当てて寄り掛かる。少しだけ虚ろな目が天井を見上げていた。無論、ルザロ自身もエレミアの魔性を祓えなかったことへの落胆はあった。
「エレミアのことは……それ以上、言わなくてもいい。ルザロやクレンティアにだけ責任があるわけじゃない。オレにもあるさ」そう言うラシェンの目は遠くを見ていた。
「祓えなかったのはあたしのせい。やっぱり、クレンティアの言うこと聞いとけば良かったかな」
 弱気になってルザロは言った。
「いや、もう、いいんだ。ルザロはよくやってくれたよ。それに過ぎたことをとやかく言っても意味のないことだ。ただね……、エレミアはあんな人生で幸せだったのかと思うと」
 しまったと思うも、言葉の矢はルザロの向かって飛んでいってしまった後だった。
「それは……」ルザロは口ごもる。
『それは他人がとやかく言うことではない。――本人が決めることだ。周りがヒトの人生の評価をしてはいけない。自分が幸せだと思えば幸せ、不幸だと思えばそうなんだ。……それに不幸だったとして、死んだエレミアにお前が何をしてやれるんだ?』
「まだ、いたのか、クレンティア」
『まだいたよ。ラシェン。慌てて出掛ける散歩なんてものはないだろう? のんびりするものさ』
「聞いてたの? クレンティア? 人が悪い!」
『ヒトじゃないよ』屁理屈が聞こえてきた。やはり、悪戯めいた笑みを浮かべているのだろうか。
「どっちでもおんなじ!」ニヤリとルザロが笑う。「屁理屈を言えば、飛竜もヒトも同じさ」
『ま、な』そうすると、クレンティアも負けじと笑うのだ。『そう、それから、マイアとティーアがこの街……アストレアに来ている。――どういうことか分かるな? ルザロ』
 先程までの笑みは消え、完全に真顔になっていた。凛々しく猛々しい飛竜の横顔だ。
「アーシャ様が来る……」
『そう……、あれからもう、十四年。たった、十四年なのかな。まるで、昨日のことのようだ』
 クレンティアはジーッと遠くを眺め、再び遥かな過去に思いを馳せた。
「いいかい? クレンティア。飛竜のあんたは勿論知っているだろうけど、星には命が宿っているんだ。科学はそれを削る。何も科学は否定しないんだけどさ、あり方に問題がある」
 メロットはクレンティアと並んで同じ方角を眺めていた。ラコニア連山。そこには大地の“暖かさ”を感じさせる何かが地下を走っているのだ。魔術師たちの故郷でもあり、始まりの地。
『……今も昔も、人のやることに大差はないな』
「科学は進歩するほどに自然を略取する。それは魔法と相対する在るが故の定めかもしれない」
『人が逝くか、星が逝くかの賭けだな』
「……先に星の環境が死ぬよ。そして、人もいなくなる。けれど、星はまた蘇る。人は消える。飛竜は知らないよ! でも……、ただで済む生き物なんてこの星の上にはいない」
『ないな。しかし、それが粛清……。生命の純化だというのなら逆にいいのかもしれない。オレたちが姿を消すころ……新しい生物種が台頭してくる。それはオレたちみたいな有機生命体じゃないかもしれないよ?』クレンティアの眼がキラリとした。
「ユウキセイメイタイって何だい?」
『ずぅ〜っと昔。オレやメロットが生まれるそれよりももっと以前のこと。言っても分からない』
「クレンティアは博識というか、ロマンチストというか、あれだね」
『いつも遠くを見てる……』そう言うクレンティアはやはり遠い未来を見ていたのかもしれない。

『あれから、だいぶん、淋しくなったよ』静かに淋しげな色を瞳に湛えてクレンティアは呟いた。『オレの大好きなヒトは皆死んでしまったよ』
 その小さな囁きはルザロにもラシェンにも決して届くことはなかった。
 それから、クレンティアの回想を打ち破ってルザロが言う。
「黙っててもアーシャ様の方から来るだろうな。早かった……ね。母さんが命を懸けてまで守ろうとしたのは何だったのか。分からない」
『ん? それはお前に決まっている、ルザロ』物思いから帰ってきたクレンティアが喋った。
「あたし――?」
『そうだ、いつだってメロットはお前のことを気にかけていた。仕事で会うたびにメロットはルザロのことを楽しそうに話していたよ。だから、オレはお前をホントはな、子供の頃からよく知っている。そして、あいつは雪の降るラコニアが好きだった』
「雪の降る……?」
 クレンティアはそっと瞳を閉じると、無言で頷いた。
『純白の雪は全てを覆い尽くす。不浄なるもの、邪心。全てに。言うまでもないかもしれないが雪は清純の象徴。――関係ないが、オレとお前が会った時は二度とも大雪だった。ちなみに、ラシェンと初めて会った日はうだるような暑さだったな。“氷と炎”だ』
 口元だけでニヤリと笑った。その笑いは楽しげではなく、渇いていた。クレンティアの瞳はまた、未来を見ていた。この道はいつか来た道。誰も知るはずのない彼らの未来、それはメロットとクレンティアの歩んだ過去と重なってゆくのかもしれない。
『ラシェン、これだけは心得ておけ。アーシャ・レジームがここを訪れたとき、お前の行くべき道は変わる。その訳を今は聞くな。慌てなくてもすぐに分かることだからだ。だがね、最後に自分の行くべき道筋を決めるのはラシェン、お前だということを忘れるな』
 ルザロもラシェンもそれから、一言も発しなかった。ルザロは無論、クレンティアの言いたかったことを理解していたし、ラシェンは普段、茶目っ気だらけでひょうきんもののクレンティアの不審に落ち着いた雰囲気にただならぬものを感じていたのだ。
(この狂った夏ももうすぐ終わる……。でも、まだ……始まったばかり。あたしにナイフを握る勇気はあるのかな。もし、持てなかったら――)
『北の賢者様が来るのには幾許か時間はある。それまで、ルザロもラシェンも身体を休めたらいい。今から緊張していたのでは身が持たないぞ……』
 その言葉は何故だか、心の向こう側に吹き抜けていった。

 前日の夜中。クレンティアはフューリアズの屋敷の屋根の上に陣取っていた。鋭い視線を街一番高い時計塔に向け、耳を澄ませていた。街は一面の暗闇で何も見えず、聞こえない。耳が痛くなるほどの静寂と漆黒。その中にクレンティアはあるものの気配を探していた。彼の勘では探し物はそろそろ向こう側から現れてくれるはずだった。
 と、光源もないのに煌めくものが視界に入った。羽音もクレンティアの鋭敏な耳には届いたらしく、ニヤリとする。それは時計塔の尖塔の上で翼を休ませたようだった。クレンティアはまだ距離のあるそれに喋りかけた。
『――マイアか。当然、ティーアの奴もいるんだろう?』
『当たり前だ。ボクとティーアはパートナーだからね。キミのような薄情者じゃないから』
『……性格悪いぞ、マイア。そのうちお前の首を捻ってやるからな』
『そんな物騒なことを言うなよ。それに捻るだの捻らないだのそんな話をしたいんじゃないだろ』
『まあな。アーシャも、もう来たんだろう?』
「来ましたよ。クレンティア」
『老けたな』ティーアを見るなり開口一番そう言った。『最後に会ったときはまだピチピチだっただろ? ヒトにとって時というのは無情だな、ティーア』
「うら若きレディーに向かってそんなことを言うの? クレンティア。だから、あなたは無粋だって言うの! 分かってる?」
『オレにはルザロがいるよ。他は要らない』素っ気無く言う。
 ティーアは真顔で答えるクレンティアを見て、首を左右に大きく振った。
「ま、いいわ。そんなことよりも、クレンティア。勿論、分かっているんでしょうね?」
『……聞くまでもない、ラシェンだ。ラシェン・フューリアズ』
 その名は、生暖かい夜風に呑み込まれるかのように消えた。クレンティアの瞳は儚げな色を湛え、複雑な移ろいを見せていた。ラシェン。その名は大地の響き……。