Aqua + illusion

ルザロの騎士


 

【承前・正義の鐘】
 アストレアに闇が訪れていた。シンとした深い静寂が街を包み込み、有りとあらゆるものが眠りについていた。路地裏で仄かに灯る瓦斯灯もひどく儚げで、微かに揺らめく炎だけが時の経過を示している。深夜。そのまま時が凍てついてしまえばとルザロは思う。そうしたら……、色々なことに頭を悩ませなくても済むのに――。
 その夜、ルザロは屋敷の屋根の上から星空を眺めていた。朝にはラコニアに旅立たねばならないというのに、寝つけないのだ。ラコニアにはたくさんの思いが残っていて帰り辛い。それもある。だから、クレンティアと出会ってしばらくしてラコニアを奔走し、アストレア領内を始め国中の町々を渡り歩いたのだった。けれども、そんなことはもういい加減にやめなければならない。過去から逃げてばかりいたら、結局は何も解決しないまま時だけが過ぎ、迷いは膨らんでゆくばかり。
 ルザロは眠っているはずのクレンティアの隣に腰を下ろした。そして、見詰める。彼だけはどんな時もルザロを見る目は変わらなかった。いつもクールでルザロが窮地に陥ったときも的確で素早い判断を下し、アドバイスをくれた。
(――結局……、最初から最後まで味方でいてくれたのはクレンティアだけなんだ……)
 フと思う。ずっとそうだった。メロットの死んだ日も、アーシャと意見の食い違いからやり合ったときもクレンティアはあの悪戯な憎めない表情を真摯な真顔に変えて助けてくれていた。ルザロはクスリと笑うと、身体を後ろに投げ出し空を見上げた。澄んでいてとても綺麗だ。
(このまま……、このままクレンティアと一緒にいたい……)
 しかし、それも叶わぬ夢と言いたげにルザロは儚げで切なくなるような笑みを浮かべていた。と、聞こえてきた。夜の闇と深閑を切り裂いて鐘の音が届く。深夜の鐘。いつの頃からは正確な記録はないが、時計塔はアストレアに真夜中を告げる。
『……鳴っているな』
 クレンティアは翼の下に埋めた頭を持ち上げ、物憂げな表情で片目だけを開け闇を見詰めた。
「何だ、起きてたんだ」ルザロは首だけを捻ってクレンティアの横顔を覗く。
『寝ていても、あんなバカでかい鐘の音を聞かされれば誰でも目が覚める――。……ルザロは眠らなくてもいいのか? 明日……、今日は早いぞ』
「うん、分かってるよ。でも、寝つけないんだ。――もう少し、起きてる」
『変な奴だ』両目を開けて、ルザロの方を向いた。
「クレンティアに、言われたくな〜い!」プ〜っと膨れる。
『……まあ、いい。どちらにしても、少しは眠っておけ。ばてるぞ』
 鐘の音が夜の闇に呑まれて消える。再びの静寂。時計塔の時針は深夜をまわり、新しい一日の領域へと動き始める。夜空に仄かな瓦斯灯で照らされた文字盤だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
「聞き納めだね。――これが済めばもう二度とアストレアに来ることはないんだ」しおれたようにルザロは言った。「……科学と魔法か。あたしたちが守ろうとしてるのは何なんだろうね」
『少なくともそれはヒトでもなく、オレたち飛竜族でもない。……気障であれだが、アーシャの言葉を借りるなら、“未来”科学も魔法も、ヒトも飛竜も滅んだっていい。そんなものに大した価値なんてないさ。いなくなれば代わりが生まれるからな。だが……』
「無限の可能性」喋り続けようとするクレンティアの言葉を横取りしてルザロが言った。「かい?」
『そう。でなければ、北の賢者とまで言われるアーシャがわざわざしゃしゃり出てきたりはしないさ。……そして、賢者と言われても奴は飛竜使いではないんだ』
「禁呪は飛竜の恋人しか使えない。そして、それは――母さん……」
 ルザロの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
『この世界に、最初から何も生まれなければこんな思いはしなくても済んだのにな。何も生まれなければ――、星はオレたちの夢を見ているだけだったら……。――眠ったのか、ルザロ……』
 クレンティアはルザロに温かな眼差しを送っていた。
『アーシャの孫娘……メロットの娘……バリテューンの末裔……レジームの最後の一人』ため息をついた。『アーシャ、オレが知らないとでも思っているのか。そこにいるんだろう? 姿を見せろ』
 虚空に向かってクレンティアは呼びかけた。しばらく間がある。それから、夜の闇が揺らぎ、人の形を取り始めた。それが現れたのはクレンティアの瞳の正面、大きな広葉樹の枝の上だった。
「やはり、気が付いていたか……クレンティア。そんなことだろうとは思っていたが」
 その姿、その声はクレンティア、ルザロにとって馴染みの深いものだった。
『当たり前だ。禁呪を使えるのはレジームの血筋。バリテューンは父系の苗字。――ルザロが死ねば、昼間アーシャが言ったように“飛竜の恋人”は生まれない。偶然によるものだが、オレたち飛竜の精神とあれだけシンクロできるのも血筋の影響だ。バリテューンの……レジームの血を引かないティーアが“飛竜使い”にはなれても“恋人”になれないのはそのせい』
 ルザロを起こさないように、クレンティアの声はひどく物静かだった。或いはその落ち着いた口調の影には自身のほとばしり出るような熱い心を隠しているのかもしれない。
「そう……。クレンティアの言うように始まりは偶然。メロットとクレンティア、お前がたまたま出会ったときに始まる。それまで、このアストレアに“飛竜使い”などいなかった」
 アーシャは静かな憂いを含んだ視線でクレンティアの瞳を見つめていた。
『それもよく知っている。オレはあの時、メロットと出会わなければ良かったのかもな』
 遠く淋しげな視線を星空に向けていた。
「いや……。あの時会わなくとも、いずれ会ったさ。微妙な揺らぎはあったとしてもそれは遥かな昔、時がこの世に生を受けたときから決まったこと。人はそれを運命と呼ぶ……」
 感情のこもらない暖かみに欠けた目線だった。恣意的にそのことから思考を逸らそうとしているようにも思われた。暗がりでよく見えない。けれど、それは遠い日に娘を亡くした父親の淋しげな姿には変わりなかった。クレンティアはそのアーシャの意外な様子を黙って穏やかな眼差しを向け、しばらく、何やら考えていたようだった。
『仮に――メロットの死が避けられないものだったとして、お前はまた、同じものを見たいのか?』
 いつしか、クレンティアの瞳には鋭い煌めきが宿り、アーシャの眼を突き刺していた。
「それが天命だというのなら仕方あるまい。わしも“北の賢者”などとは呼ばれているが、所詮は運命の手駒に過ぎないのだよ。……自ずと限界はある」
『詰まらん生き方だな、じじい』クレンティアはくるりと瞳を閃かせた。
「なぁにを言っておるか。お前の方がわしより遥かにじじいの癖をして」
『まあな。だが、世界を敵に回してもルザロは殺させない。それがアーシャの言う天命だとしても。オレはもう二度とあんな別れ方をしたくないんだ。刺客が追い掛けてくるならルザロを連れてどこまでも逃げてやるさ――』
「そうか……。お前の好きなようにしたらいい」
 アーシャは呟くような囁きを残して枝の上から掻き消すように姿を消していた。
『クレンティア、だからお前は甘ちゃんだというんだ』去り際、マイアの声がクレンティアの脳裏にこだました。『そう言って、亡くしたメロットを忘れたわけではあるまい……?』
「――でも、クレンティアなら、同じ轍は踏まないでしょう。メロット自慢のクレンティアなら」
『ボクたちはラコニアで待っているよ』それらはまるで全てそよ風のひそひそ話のようだった。

 クレンティアは鋭く澄んだ視線を遠くへ向けていた。ある気配を感じたのだ。ルザロもラシェンも気付くことのない僅かな気色を感じ取った。それは確実にフューリアズの屋敷に確実に接近しつつある。クレンティアは知っていた。その独特の空気、風貌。現世においてもっとも年老い、賢いと言われるヒト。
『来たか、じじい』涼しい目をしてクレンティアは言った。まだ遠いが彼の声は距離を超える。
「じじいとはずいぶんな言い草だな、クレンティア」
 姿は未だ見えない。けれど、意地の悪い微笑みを浮かべているのだろう。
『ああ。オレはあんたをルザロに会わせたくないのさ。どうせ……そうなんだろう?』
「隠す理由はない」
『近々来るだろうとは思っていたがね。気を利かせて来ないでもらいたかったよ』
「無茶を言うな。あれを出来るのは飛竜を連れた魔術師だけだ」
 その頃になるとヒトはフューリアズ邸の間近にいた。魔法を使って、門番たちを眠らせるとおもむろに何者にも臆することなく敷地内に侵入してきた。そして、屋根の上から冷たい視線を放ち続けるクレンティアを少し濁りかけた瞳で見上げた。
『飛竜を連れているのは他にもいるだろう? 何人か。例えば、マイアとティーアとか』
「そう言う問題ではない」ジロリと睨め付ける。「あれが出来るのは飛竜の恋人。ティーアとマイアには残念だが無理なのだ」
『ハ! 分かってるさ。言ってみただけだ、アーシャ』
 それから、暫くクレンティアは黙り、アーシャと呼ばれたヒトは大胆に屋敷に進んだ。
『……ルザロは――、壊れた窓の近く、木の下にいる』
「そうか――」
 一言だけを残して、アーシャはエレミアの窓の下へと歩を進めた。無表情に、後ろ手を組んでいた。言うべき言葉は決まっている。メロットのいない今となっては、ルザロしかいないのだ。北の賢者と言われ冷徹、石人とよばれるアーシャとて、人の心を持ちあわせていないわけではない。
 ルザロの姿が見えた。木にもたれ掛かって、壊れたままのエレミアの窓を見上げていた。
 切ない。良家のお嬢様の“死”だというのに葬儀の参列者はほとんどいなかった。そもそも葬儀さえも酷く質素で身内だけのために行われた色合いが濃かった。それなのに領主は姿を見せなかった。自分の娘が死んだというのに他人事だった。
 それが奇妙に悔しかったけれど、一魔法使いのルザロにはどうにも出来ないことだった。
「ルザロ・バリテューン」渋味のある声で静かに呟いた。
「アーシャ様」
 ルザロは視線を下におろしアーシャに向けた。
「ルザロ……。時は来た。……大地の息吹はこれ以上はもたない。大地は新しい精気を必要としている。大地が生くるためには、大地により選ばれたものの精気がいる。彼の人は、大地とともにあり続ける。――今更言うまでもないな、ルザロ。お前は分かっていたはずだ。だから、私に何も言わず、このアストレアに来たのだろう」
 真夏の陽射しがじりじりと二人を照りつけていた。ルザロとラシェンが初めて会った日と同じだった。草の匂いと風にさざめく音だけが違った。
「はい……、アーシャ様。ですが、ラシェンは連れていけません! あ、あたしではダメなのですか? あたしじゃ、ラシェンの代わりは勤まりませんか?」懇願するようにルザロは言う。
「――北へ向かえ。アストレア発祥の全ての根源の地へ……」無視してアーシャは続けた。「……それではメロットの時と変わらない。術の途中に術者が死ねば魔法の効力はない。無理にやっても場繋ぎにしかならぬ。それはもう、意味をなさない」
「それでもいい。ラシェンが生きていられるなら」上ずった声になる。
「――仮にも魔法使いの言葉とは思えないな。それに……飛竜の恋人はもう生まれない」そこから先、アーシャの声はルザロには聞き取れなかった。「この先、大地が傷つけば人は消える。有りとあらゆる生き物たちのこの星にある権利は剥奪される。言うなれば粛清。存在を許されるのはヒトではない何か……」
 半ば上の空のようにアーシャは言葉を紡いでいた。
「わしのしようとすることは無意味なのかもしれない。ヒトが人であるかぎりは。ルザロ、お前は大地の思い人を連れて北へ向かえ。わしは彼の地で待っている」
 優しげな口調の中には有無を言わさぬ響きを含んでいた。ルザロはそれをシュンとした様子で聞いている。避けられないこととは分かっていたけれど辛い。それとも、ラシェンと会わなければ……? 今更の後悔は無意味。ルザロの脳裏にはレイピアを帯びたラシェンの騎士姿が思い浮かんでいた。
(似合わなかったな、あの格好……)
 ぷっと吹き出してリアルに引き戻される。
「ラシェンを連れて、北、ラコニアへ行く。……行くよ」
 何て言ってラシェンを説得したらいいのだろう。そして、その後のことは。ラコニアに行って何をするかなどはとてもルザロの口から言えるようなことではなかった。憂い、と言うよりはむしろ苦悩。自分のたった一言がラシェンの行く末を変えてしまう。そんなことが自分に許されるのだろうか。ルザロは思う。
「あたしが命運を握っているなんて。怖いよ。飛竜使いだなんて、飛竜の恋人だなんてもてはやされても、結局あたしは……ただの人。クレンティアがいたからあたしは……」
 途方に暮れそうだった。
 そのルザロの姿を見てもアーシャは敢えて何も言わず、そのまま踵を返した。
『もう、帰るのか? アーシャ』冷静な響きをもつクレンティアの声が聞こえる。屋根の上から語る言葉もなくずっと眺めていたのだ。ルザロの答えは知っていたから。
「用事は済んだ。それにお前たちがラコニアまで来る前に用意しなければならないことが幾つかある。知ってるはずだぞ、クレンティア」ジロリと睨む。
『フン、オレはそう言ったもったいぶった言い方が嫌いだね。“賢者”と名乗るも、実際、卑怯者だな。自分では決して手を下さない』
「口が過ぎるぞ」
『承知の上だ。――オレはもう自分のパートナーを失いたくない。それだけのこと。今回はアーシャと言えど、譲れない。ルザロが行くというならオレも行くがね』
「どちらにしてもお前は来るさ」首を横に振りながらアーシャは言った。「来るなと言ってもお前は来る。マイアやティーアは薄情者だというが、わしは違うと思っている……。そう、お前は捻くれてわがままかもしれんが、シャイな奴だ。肝心なことになるといつも口を閉ざす……」
『何が言いたい?』氷のような冷たい視線でアーシャを見詰めた。
「素直にならねば損をする……」
『――余計なお世話だ』
「何とでも好きなように思っていればいい。そんなことまでわしは知らん。それにお前はラシェンとルザロでなければならないわけも知っている。それなのにそう言うのか……」
 物憂げな響きの言葉を置いてアーシャはクレンティアの前を去っていった。
『それでもそう言うのさ、アーシャ』
 クレンティアはアーシャの後ろ姿を冷たく見詰めてそう言った。そして、瞳をルザロに向ける。
『行くのか、ルザロ。ラシェンを連れて、ラコニアに行くのか?』ルザロは真剣な眼差しをクレンティアに向け、問いには無言で頷いて答える。『ラコニアに行けば、またお前は……辛い目にあう』
「でも、行く。仕方がないよ。いずれ回ってくることは分かっていたから。遅かれ早かれ、こうなるんだ。母さん……殺されたときからこうなるって知ってた。……あんな、責任のとらせ方ってないよ! 折角――生きて帰ってきたのに。街に災いをもたらした全部とケリを付けたのに!」
『メロット……か』
「メロットよ」
『だが、お前はラシェンを犠牲に出来るのか? メロットをあの状況に追いやったのはフューリアズだったとしても、あれは関係ない』
「分からない。ただ、最初思っていたのとは違う展開をしたということ。ラシェンがどんな奴か確かめにアストレアまで来たけれど、エレミアを介在して知り合いになるなんて予定外。こんなことなら来なけりゃ良かった! でも、くよくよしても始まらないし、ラシェンを連れて北へ行くのはあたしの役目さ。一応そう言うことになってる」
 ルザロは無理やりに自分自身を納得させようとしているようだった。
(どう説明したらいいんだろう?)
 ルザロはゴチャゴチャと思い浮かんでくるとりとめのない思いをどうまとめようかと必死だった。事情は複雑すぎてとても一言では説明できなかったし、支離滅裂な説明をしそうだった。それよりも何よりもラシェンがラコニアへ行くことを了解してくれるかどうかの方が気掛かりだった。
(けど、ラシェンはあたしの過去を知っている)
 それは唯一の楽観的な要因だった。ルザロはそれらの全てを抱えたままラシェンの居室に向かおうとしていた。狂った陽射しの中、暑さに精気を失った芝生を遠慮がちに踏みしめながら歩いていた。背中に流れ落ちる汗は暑さのためなのか、緊張のためなのかよく分からなくなっていた。
 初めて来たときと同じように少しギクシャクしていた。今度はラシェンの迎えはなく、一人で彼の部屋まで行かなければならない。そうすると、何故だか、既に見慣れた回廊の風景も違って見えた。切なく、哀しみを孕んでいた。
 トントン。部屋に辿り着いたルザロは無意識に扉をノックしていた。言葉は未だ決まっていない。けれど、とどまってはいられない焦りに似た気持ちがルザロの躊躇を押し切ったのかもしれなかった。
「ルザロ……だろ?」落ち着き払ったラシェンの声が奥から聞こえる。「北の賢者様がいらした」
 ノブを握ったルザロの手は硬直した。瞳は見開かれたまま足下に固定する。
「――どうした、入ってこないの?」
 ラシェンは自分の言いたいことを知っている。ルザロは動けなかった。どこまで知っているのか分からないけれど、それが余計にルザロを惑わせるのだ。暫く、ボウッと考えてルザロは思い切って扉を開けた。躊躇う理由はどこにもないはずだった。
 すると、ラシェンは窓際に寄せた椅子に座って、外の風景をじっと見詰めていた。
「ラシェン……、何も聞かないで、あたしに付いて来てくれる……? ずっと北まで」
 強気なルザロは影を潜めて、何故だか静かに臆病に尋ねていた。ラシェンが訳を聞き返してきたら答えられない。或いは答える必要などないのかもしれないが。
「ああ、いいよ――」ルザロの思いとは裏腹にラシェンは応諾してくれた。
「あ、でも、その、ホントに聞かなくてもいいの」予想外の事にルザロの方が困ってしまってしどろもどろだ。「だって、あの、ね〜」
「聞かない。拍子抜けしたのか?」
「ちょっぴりね。でも、安心したかもしれない。ラシェンに訳を言うまでの時間が出来た。ラコニアに着くまでの時間があれば、きっと、心も決まる」
「ラコニアに行くのか。遠いな……。アストレアの北の彼方だ。歩いていくのか。それとも馬?」
 幾分落ち着きを取り戻したルザロにそっと問った。
「クレンティアの背中に乗っていくんだ……。だから、遠いと言っても近いんだよ。ラシェンの思っているよりもずっとね。ホントは、遠いほうがいいさ――」ルザロは俯いた。「遥か彼方。人の手の届かないようなところにあればいい……」


【翼の下の雨宿り】
 広大な空を自分の庭のようにして、クレンティアは気持ちよさそうに飛んでいた。歩けば二月かかるラコニアへも三日とかからない。
「景色が後ろに流れ飛んでいく。こんなに速い旅は初めてだ」
 ラシェンは物珍しそうに辺りを眺めていた。領主の息子と言えど、飛竜の背に乗って上空から地面を見下ろす機会はそうそうない。実際、飛竜たちの故郷はアルファルド大陸ではなく、遥か数千キロは東方にあるファーティム大陸だった。昔、アストレアにいた飛竜たちも渡ってきたものたちだった。
「だろうさ。飛竜はこの大陸に数頭しかいないんだ。乗ったことのある人の方が珍しい」
 ルザロは言う。視線は空の彼方を見詰めている。髪は後ろに流れ、手と足はクレンティアの背をしっかりと押さえていた。普段のクレンティアなら油断をしていたら遥か後方に吹き飛ばされてしまうのだ。それぐらいの速度と威力をもって飛竜は飛行する。けど、今はラシェンがいるから手加減をしているのだ。
『……天気が悪くなってきたな』
 クレンティアは独り言のようにボソリと言った。後ろの二人を気に留める様子もほとんどなく、ただ前だけを見ている。それを聞きとめ、ルザロが続ける。
「雨、降りそうかい?」
『ああ、もう少し先に進めば確実に嵐に突っ込むだろう。気持ちいいぞ』ニンマリとする。
 ルザロはクレンティアの発言を無視するかのように喋った。
「一度降りよう。クレンティアは構わないかもしれないけれど、あたしたちは困る」
 眼前には嵐の来訪を告げる雨雲が展開しつつあった。景色は灰色に沈みつつあり、深い霧が周囲を閉ざす。何かが起こりそうな雰囲気なのだ。腕白な少年たちなら大喜びして、心がときめくのに違いない。冒険。そんな言葉がここには似合う。
『ここら辺りに雨宿りできるようなところはない。……街道筋は外したからな。シリアの森に近付くまで街道に戻るつもりはない。時間を稼ぐにはそこまでしかないからな』
「それはそう。だけどね、雨宿りする場所、あるよ。――クレンティアの翼の下」
 遠慮気味に言ってみる。
『分かった。降りよう』不承不承というわけでもないけれど、少しだけご機嫌が斜めになったようだ。気持ち良く飛んでいるのを邪魔されたのがいまいち気に入らない。
 クレンティアは上空で旋回すると、勢いよく下降してきて着地した。
「コラ! またそうやって意地悪する。あたしはいいけど、ラシェンはどうするんだ」
 憤慨してルザロがクレンティアに食いついた。でも、どこか楽しげであることは否めない。まるで何事もないいつもの旅のようにルザロは振る舞った。そう、そして、その旅に新しい仲間が増えただけのように。無論、ルザロはそれが自分の心を騙すための偽りに過ぎないことを心得ていた。つきまとう淋しさと迷いを惑わすためにある意味、演じているのだ。
『雨が降ってきたな……』クレンティアはルザロを無視して呟いた。
 空からは大粒の雨滴が降り注ぎ初めていた。くすんだ空から零れ落ちるそれはルザロたちの気を滅入らせるのに十分すぎる。
「どうかしたのかい? クレンティア。妙に淋しそうだけど……?」
『いや、なに、二百年ほど前か、ファーティムから全てを投げ出して、このアルファルドに来たことを思い出してね。あの頃、オレは騎士団にいた。そう、あそこを引き払ったのもこんな感じの天気で、あの時、大好きだった二人と別れたのもこんな感じの場所だったんでね』
「クレンティアの思い出なんだ?」
『思い出? そんな格好のいいものじゃないさ、あれは……』
 遠い目をしてクレンティアは言う。けれども、それ以上のことは喋ってくれそうにもなかった。いつもそう。肝心なことは何一つ教えてくれない。クレンティアのことをもっと知りたいとルザロとしてはそれが歯がゆい。時々、信用されていないのではと思うこともあるが、そうではないらしい。クレンティアはクレンティアなりに思いがあるようだった。
『まあ、雨降りは好きなんだけどね』が、淋しさの色はもう隠せない。それが生涯の中で彼らを見ていた最後の日だったから。『ホラ、ルザロ、そんな哀しそうな瞳でオレを見ないで、翼の下に入ってろ。……どうせ、ここには人も何も来ない。のんびりしていたらいいさ。時は過酷だから』
「そう……かもしれないけれど。あたしだって、少しはクレンティアの過去を知りたい」
『――いずれな。今はオレの過去よりも、自分の未来を心配しておけ』
 それから、クレンティアはしばらく口を利かなかった。ただ前だけを見て黙って雨に打たれているのだ。それにつられてか、ラシェンもルザロも神妙な面持ちでクレンティアの翼の下で雨宿りをしていた。
「――何だか、クレンティアが静かで淋しそうだと、おかしな気分だ」
 ラシェンはクレンティアの腹にもたれ掛かりながら言った。
「たまにね、こうなるんだ。……あたしたちなんて欠片もなかった時のこと。あいつは知ってる。……だから、あたしたちのいなくなった未来にもクレンティアはいるんだ。飛竜たちの寿命は人なんかに比べたら遥かに長いからね。その分、淋しさも哀しみも多いんだ。ホントかどうかは知らないけれど、よくそう言って笑っていたよ。でも……、死に別れは辛いって――」
 ルザロも膝を抱えて座り込み、どこか淋しげだった。いつか自分も時の思い出の中に身を置くことになることを思い浮かべていた。
(クレンティアは知っている。……ラコニアに着いたら、あたしたちが二人であの街を出られないことを。ずっと遥かな昔の夢と、あたしの未来を重ね合わせて。そんなものありはしないのにね)
 雨は激しさを増しながら降り続いていた。アストレアからラコニアへと向かう広大な草原への嵐の到来。澄んだ空気の晴れた日には遥かなラコニア連山も微かに見える。しかし、それも重く垂れ込めた霧と雨が遮っていた。彼らは三人、外界から隔絶されてそこにいた。
『ルザロ。この分だとラコニアは大荒れだぞ』
「そうだね。あたしたちが行こうとするといつもそう。まあ、あれだ。時期的にラコニアの夏はもう終わりなんだけどね。いい気はしないな。……あたしたちがわざわざ選んでるって話もあるけど」
『メロットとは違うことを言うんだな。奴は空の方が選んでると言っていた』
 ラシェンは二人のやり取りにただじっと耳を傾けていた。割って入れない。実際、ラシェンはルザロとクレンティアの間に何があったのかも知らなかった。それに二人の会話を邪魔したくなかった。聞いていると、それは何故だか優しい響きを持っていて、ラシェンの心を落ち着かせた。
 深く渋いクレンティアの声と、時折男言葉のまじるルザロの声。僅か半月も経たない短いときの流れの中で、その声が聞こえてくるのが当たり前になっていた。
「母さんとあたしは違う。あたしは――もっとスマートに決めて見せるよ」
 ルザロはトンと頭でクレンティアの腹を小突いた。
『ホー!』わざとらしい驚きの声がする。『いつだって、メロットの方がスマートだったぞ?』
「余計なお世話。あんたはいつも、そ〜やって一言多いんだ。それさえなけりゃいい奴なのにね」
『それこそ余計なお世話さ。オレはやりたいようにやるし、言いたいように言う』
「ま……それがクレンティアなんだけどさ」
『それが――オレさ』クレンティアは静かに応じた。
「クレンティア、ルザロ。オレは少し眠らせてもらうよ……」
 旅に疲れ、眠気の指してきたラシェンは二人にそう言った。何の脈絡もなく唐突な物言いだったけれど、ラシェンはそんな些細なことに気に留める様子もなく、ルザロとクレンティアの静かな声を子守歌代わりにラシェンは昼寝を始めた。
「可愛い寝顔だね。ラシェン……」ルザロはラシェンの穏やかな寝顔を見つめていた。
『ルザロ、お前は……その思いにどう決着を付けるつもりなんだ』
「やっぱり、気が付いていたんだ。フフ、どうしようね、クレンティア」
『オレはそんなに朴念仁じゃないつもりだけどね。ルザロにはどう映っていたのか知らないが』
 クレンティアはいつもの悪戯に煌めく瞳を見せることはなく真顔だった。
 アストレアに深夜の鐘の音が鳴り響いていた。澄み切った冷たい風がより遠くまでそれを運ぶ。明かりの消えた民家。ひっそりと輝く瓦斯灯。ラシェンは知らぬ間に深夜の静寂と独特の淋しさの中に佇んでいた。
〈……? ここは……?〉ラシェンは辺りをぐるりと見回した。見覚えのないことはない。けれど、ラシェンの知っているはずのアストレアとは僅かに趣を異にしていた。無機的。人の気配が全く感じられず、街は死んだように眠っていた。〈ア……?〉
《ここはお前のアストレアだ……》一瞬の疑念も感じずにラシェンは答えた。
〈オレの?〉そこには奇妙な静けさだけがあった。所々の瓦斯灯に淡く照らし出されたどこまでも続く白い街並みと灰色の石畳。歩けば小石のはじける音だけが聞こえる。〈この街は死んでる。少なくともあのアストレアは死んではいなかった!〉
《お前の取るべき道筋によってはいずれそうなる》ラシェンはずっとその聞き覚えのあるような声に耳を傾けていた。《いや……お前の胸中のアストレアはエレミアが死んだときにその使命を終えた。命の消えた冷たい灯火だけがお前のアストレアを照らし出せる……》
〈クレン……ティアなのか?〉ラシェンは訝しげな視線を向けつつ、それに問った。
《さあ?》至って明るい声色だ。《お前がそう思えばオレはクレンティアなのだろうし、そうでなければ他の誰かなのだろうさ。ここはそう言うところだ》
〈お兄……お兄さん……〉
〈誰?〉さっきとは違う女性の声を聞いてラシェンは飛び上がるほど驚いた。〈エレミア?〉
 問いに対する答えはなかった。ただ、それを代弁するかのような冷たく静かな風が吹いていった。
〈……ルザロ・バリテューン……。ルザロを離したらダメだよ、お兄さん〉
 姿は見せない。けれども、その声は確実にエレミアのものだった。
〈離したら、ダメ? それはどういう意味!〉
〈離したらダメだよ〉その声は繰り返した。〈お兄さんの“アストレア”に再び命を吹き込むにはルザロがいなくちゃダメ……。皆、知ってる。私もクレンティアも、そして、……ルザロも――〉
〈……ど〜にかならないのかな? クレンティア〉
「……かな? クレンティア」ラシェンの傍らにいたはずのルザロは相変わらず翼を休めるクレンティアの顔の正面に立っていた。二人で何やら熱心に論議していたようだ。語気にも力が入る。
『無理だろうな』それはひどく物憂げな視線だった。『恨むのなら、ラシェンがラシェンとして生まれたこと、お前がルザロとして生まれたことくらいだな。だが……救いもないことはない』
 意味あり気な目線をルザロに送った。冷徹、冷ややかだが心当たりはあるだろうと言いたげだ。
「エレミア、かい? すり替えようって言うのかい?」
 ルザロの言葉にクレンティアは静かに目を閉じてそっと頷いた。
「でも、血縁はあると言っても異母兄妹だよ。同母ならうまくいくかもしれないけれど」
『平たく言えば星を騙そうというんだ。それなりのリスクは伴う。ルザロが嫌だというならそれでも構わない……。だが、マイアの奴とティーアも来るというからな。千載一遇とも言うべき好機だと思うが……。いや、別にいいんだ。ただ、オレは――』
 やけに遠慮がちにクレンティアは喋っていた。いつもと違う。ルザロは思う。いつもならもっと開けっ広げで遠慮なくづかづかと喋ってくれる。だから、より一層、クレンティアが真剣なのだとルザロに思わせる。本当に二人の未来を考えていると感じられるのだ。
『ただ、オレはお前の哀しむ姿を見たくないだけだ』恥ずかしそうな物言いだった。
「やってみる価値はあるか」そう言ってルザロはクレンティアの鼻面をぴしゃりと叩いた。「分かった! その進言、受けるよ。あとは野となれ山となれ。失敗した時の責任は取ってくれるんだろ?」
 ルザロにいつもの笑顔が戻る。すると、自然とクレンティアの表情もほころぶのだ。
『まあな』クレンティアはニンと微笑む。
(ラシェン。クレンティアと皆がいたらきっと大丈夫だからね。あなたはきっとラコニアから生きて帰れる。そのはず……)
 ラシェンは眠ったふりをしたまま、二人の会話を聞いていた。今、起きだして二人に間に割って入ってしまったら、とても気まずい雰囲気を作り出してしまいそうなのだ。そして、何よりも二人があれこれと自分のことについて議論していることが気になっていた。クレンティアからメロットやルザロの昔話を聞いて、これから自分の身に降りかかろうとしていることにも大体の察しがついている。だから、あの時ルザロには何も問い掛けなかったのだ。
(でも、エレミアとすり替えるとはどういう意味だろう?)
 そこでラシェンはパッと目を開いた。すると、ラシェンの寝顔を覗き込んだルザロの瞳と出会う。
「……雨、上がったよ先を急ごう」ラシェンの瞳を見つめたままルザロは言った。
「あ? ああ」迂闊にも真っ赤になってラシェンは答えた。そして、ぎこちない動作で立ち上がる。
 やはり、クレンティアはその様子を面白そうに楽しげな瞳を向けていた。
『慌てなくてもラコニアは逃げたりはしない。オレたちを待ち侘びているんだからな。行くか? 気は進まないかもしれないが、アーシャのじじいが待ってるしな』
 クレンティアは再び翼を広げた。
 くすんだ空はどこかに消し飛び、七色の虹が綺麗に浮かんでいた。幻想的。広がる青い空が心に染みる。真下に続く草原とまだ遥か彼方のラコニア連山とシリアの森。綺麗だった。束の間の蜃気楼のようで、クレンティアの切る風がルザロとラシェンの髪をふわりふわりと靡かせていた。
「――寒いな、何だか……」ラシェンは自分の肩を抱いてそう言った。
「だんだん寒くなってくるよ。ラコニアへの道のりも半分過ぎたし……」ルザロは左右に流れてゆく風景にじっと視線を向けながら喋った。「この辺りから気候がおかしくなってくるんだ。気候帯を区分したら、ラコニアは冷帯。せいぜい晩夏から初秋って辺りのはずなんだけど、あそこら辺は局地的におかしいのよねぇ。アーシャ様の話だと、ここ四、五十年だって言うけど……」
 それから、どんなものかしらねとでも言いたげに肩を落としてため息をついた。
『ラシェンが言いたいのはそう言う寒さじゃないようだけどね……』
 クレンティアが口を挟む。クールな雰囲気を装いながらもラシェンを気にかけているようだった。
「いや……。別にそんな気にしなくてもいい。少しまたキミの上で休ませてもらえば……」
『オレの背中じゃあ、休めないだろ』素っ気無くクレンティアは答えた。
「ラシェン――風邪、引いたの?」
 しばらくして、漸く気が付いたかのようにルザロは呟いた。
「そうかもしれない。あの雨の中うたた寝をしてしまったからね。少し身体を冷やしたのかもしれない――」よく聞けば鼻声のようだった。

【ラシェンの雪】
「クレンティア! シリアの森に入る前の最後の宿場町に降りて。ラシェンの風邪のこともあるし、そこで最後に皆で話そう? ゆっくりと出来る時間なんてもう、絶対にないから」
 今にも泣き出しそうな淋しげな声だった。雨が上がって、抜けるようは青空が広がりつつあるこの場所に胸の痛くなるよな切なさがよぎっていく。皆、知っている。これから起こること、しなければならないこと。だから、ルザロの最後の一言には沈黙をもってしか答えられない。
『降りるか……? だが、淋しさは募るばかりだぞ。和らぎはしない』
「うん……。いいんだ。ただ、話したいことが一杯ある。それだけ」
『そうか』
 そうとだけ言って、クレンティアは街道筋に戻る進路をとり始めていた。ここまで僅か三日。短すぎる旅はルザロの迷いを打ち消すには足りないようだった。打ちひしがれている。微かなルザロの思いをクレンティアの大きな瞳は捕らえていた。時はルザロの思いとは全く関係を持たずに突き進み、決心をぐらつかせる。何が正しく、何が間違っているのか。ルザロには分からない。ただ、自分がこれからしようとしていることは人道から明らかに外れること。だったら、それは間違っているのだろうか? 何に対して?
(あたしは……ホントは何がしたい? 何のためにラシェンを連れていこうとしている?)
 ルザロはひょっとしたら当初の目的を見失いつつあるのかもしれなかった。ラシェンと知り合いになってしまったことから誤算の始まりだった。そして、エレミアと擦れ違い、魔性とやり合った。過ぎてしまえば儚い幻のような瞬間の出来事。でも、それは流れて消えた時間の潮流の中に確実に存在していた。それがルザロの計算違い。
 そして、そこに忘れ去られたような小さな宿場町が視界に入ってきた。森の外れのひなびた町。時に置いてきぼりを喰らったようなそこはルザロたちを無言で呼んでいた。降り立てば、きっと、何もかもが苦慮の向こうに消え失せるのに違いない。そんな絶望的な淋しさを持ち、これからの夢や野望を諦めてしまったかのような雰囲気をそこは醸し出していた。
『ヒトはここを“淵”と呼ぶ……』
 聞こえるような聞こえないような小さな声でクレンティアは言った。でも、それは独り言ではなく明らかに二人に聞こえるよう意識したものだった。クレンティアの静かな囁きは続く。
『森の“淵”絶望の“淵”とね。何故か分かるかい?』問い掛けつつ、クレンティアは答えを待たない。『ここは昔からそう言うところなんだ……』
 恐らく、クレンティアがそれ以上、何も言わなかったとしても、ルザロには分かっただろう。現世と幽冥との境界線とも言うべき場所なのだ。それはラコニアが“閉ざされた街”と言われる所以でもあり、暗澹な憂いの漂う雰囲気を作り出す。
「――生贄が最後の晩餐をするところ……」搾り出すような声色だった。
『その通り。残念だがね』そっと着陸態勢に入りながらクレンティアは喋った。
 翼を一杯に広げて滑空しながら高度を下げる。少しずつ少しずつ、その町は視界全体に広がり、目に映る全てになった。ここからラコニアへはすぐ北のシリアの森を抜ければ間もなくだった。
『ホラ、行っておいで。オレは町外れにいるから。ゆっくりしておいで。声はどこでも聞こえる』
 優しくクレンティアは言った。
「行こう、ラシェン」ルザロはラシェンの右手を取った。「さあ、行って、三人で話そう?」
 そこにはもう切なさしか存在しなかった。手を繋いで二人は町へと向かっていく。
『だから言ったのに、ルザロ。あまり……親しくなるなと。未来は分かっていたはずなのに』
(先は見えていたよ。でもね、それとこの思いとは別なんだ。クレンティアも分かってるはず)
 ルザロは町へと向かう二人の後ろ姿を追い掛けるクレンティアのひっそりとした瞳をちらりと見詰めた。こちらも憂いを含んだ淋しい視線。
『まあな』真摯な眼差しでクレンティアは語っていた。『例えそうだったとしても……。これ以上、何を言っても無意味か。そうなってしまったものは仕方がない。過去には還れない、過去は変わらない。だが……、未来はまだ変えられる――』
「少なくともあたしはそう思っているよ」
 ルザロとクレンティアの小さな会話。それはラシェンの耳には届いていなかった。仮に届いていたとしたら、胸を痛めたのに違いない。自分との出会いから始まる小さな狂い。それはやがて大きな歪みになってルザロを巻き込みつつある。この際、後悔は無意味だと知りつつも思ってしまう。あそこで擦れ違えば、ルザロに辛い思いはさせずに済んでいた。
「ルザロ、わざわざ、町に泊まることないよ。すぐに良くなる……」
 しかし、ルザロはラシェンの言い分など聞いていなかった。涙で潤みそうな瞳を従えて、ラシェンをぐいぐいと引っ張っていく。自分に今出来ることはそれしかないと思った。他には何も出来ない。いくら“魔法”が使えても、魔術師を気取っても所詮はルザロはルザロでしかない。それがいやというほど身に沁みてくるのだ。
「ダメ。そんな訳にはいかない。あたしにとってまだお客様よ。分かる?」
 その言葉はルザロの複雑な心中を反映していた。そう考えないとこれから先に踏み出せないような気もしていた。いっそのこと、クレンティアのように途轍もないくらいにクールになれたらと思う。ルザロはラシェンへの感情を押し殺そうと必死だった。だけど、それがどれだけ無意味な行為だったかと言うことを後に知ることになる。
 ルザロは手短なところに宿を取った。町外れ。そこはその“淵”と呼ばれる町の繁華街からはかなり外れた場所にあった。人の集まるところへはいたくない。そんな消極的な思いがあったことは否めなかった。
「ラ、ラシェン。話しておきたいことがあるんだ……」
 小さな、ささやかな宿に腰を落ち着けるとルザロはまるで幼気な少女のように切り出した。ラシェンのベッドの傍らに置いた椅子にルザロはやけに小さくなって収まっていた。少なくとも、それはラシェンの知るルザロではなかった。儚くて、触ったら壊れてしまいそうで切なく見えた。
「何だい、ルザロ」ラシェンはルザロが言い出そうとする事を半ば予期していた。
 けれど、それはラシェンにとっても同じ思い。胸に秘めた思いは熱かった。
「あ、あたし……ホントは……」泣き出しそうな表情だった。潤んだ瞳でラシェンを見つめて、拳は膝の上で握られていた。言ってしまっていいのだろうか? ルザロは俯く。手の甲に一滴の涙がこぼれ落ちた。そして、気が付けば本当に言いたいこととは違うことを口走っていた。
「――逃げよう、このまま逃げよう。国の果て、大地の彼方までも……」
「ダメだよ、ルザロ。オレをラコニアまで連れていくのがキミの役目なんだろう?」
 ラシェンの方がルザロよりも何故だか冷静だった。胸が締め付けられるからルザロを見ず、ラシェンは天井だけをじっと見詰めていた。
「でも、そんな……。そんなラシェンを連れていけない。だって、だって、手を……」嗚咽が漏れる。「手を下すのはあたしなんだよ?」
 ルザロは自分がどうしたらいいのか分からなくなっていた。行く先を見失ってしまったかのよう。遠い日、メロットがいなくなってしまったとき。自らの行き場を失った少女時代の気持ちだった。
「どうしたんだ、ルザロ。キミはもっと勝ち気で強気だったはずじゃあなかったのかい。オレは……男勝りで、その悪戯に……くるくる煌めく水晶の瞳が好きなんだ――」
「――そんなこと言わないで! ラシェンがそんなこと言ったら、あたしはあたしの行くべき道が分からなくなる。あたしは……母さんやクレンティアほど強くない」
 フと、ルザロは窓の外に目を向けた。ぼたん雪。地面に落ちればすぐに溶けてしまう。それは冬のラコニアに降る雪ほど素敵ではなかったが、それはルザロの心に降り積もった。
「ホラ、ラシェン。窓の外を見てご覧。雪が、舞い降りてきた。ここにはもうすぐ冬が訪れる」
「この間まで夏だと思っていたのに、もう、冬なのか?」意気消沈したかのように喋った。
「前にも言わなかったかい。ここら辺から気候がおかしいって」
「聞いたよ。……これが雪なんだね。初めてだよ。アストレアには雪は降らない」
「そうだったね。……でも、本当の雪は、こんなにベチャベチャじゃないんだ。さらさらしててね。手で掴もうとすると崩れ落ちてしまう。塊になんかなかなかならなくて、まるで、結晶の一つ一つが意志をもっているみたいなんだ」ルザロは窓際に歩み寄っていた。
「きっと、君の髪のようなんだろうね……」
「それはどうかな?」出来うる限りの茶目っ気を出してルザロは言った。「雪の方がサラサラかもしれないよ」声は上擦っていた。
 けれども、ラシェンは風邪と慣れない旅の疲れからかすやすやと寝息を立てていた。
(ダメ……。あたしには出来ない。ラシェンを殺すなんて……)寝顔を見ながらルザロは思った。
 外は雪。十四年前のことが思い起こされる。
(母さんはあの夜、家を出たまま帰ってこなかった……。やっぱり、あの日も雪が降ってたっけ)
 偶然の一致なのかは分からない。気候の特性なのか、ルザロが重大な局面に立ち向かおうとするときはいつでも小雪が舞い降りた。雪はルザロにとって哀しみの象徴にもなっていた。
《それはお前のアストレア。離してはならない……》瞬間、とても大きくて瑠璃色に悪戯に輝く瞳がラシェンの脳裏に思い浮かんだ。《彼女はお前の――》
〈アストレア……〉と、不意に気が付いた。〈彼女はオレの女神さま?〉
《さあ?》声色は悪戯めいていた。
「ラシェン、ラシェン……。眠っていたのかい? 気分は良くなった?」
 ラシェンはまた眠っていたようだった。
『ルザロ、陽も高くなってきた。そろそろ出かけよう。お前が嫌だというのならそれでも構わないが……、オレはお前に元には舞い降りない――』
 どこからともなく、クレンティアの声が宿の一室に響いた。いや、正確に書くのならルザロの脳裏にだろうか。いつもよりも、その渋い声は冷たくルザロにこだました。
「――行くさ。あたしも母さんの見たものを見てみたい」
『見ない方がいいと思うのはオレだけか?』ルザロにだけ届く声には悲痛な思いが籠もっていた。
「違うと……思うよ」ルザロは椅子から足を投げ出して、腕を頭の後ろで組んだ。「ホントは誰だって見たくないんだ。でもね」急にルザロは笑い出した。「分かるだろ? こんなのが綺麗事で終わるはずがないんだ。母さんの時も、エレミアの時もそうだ」
『それは……な。オレが言いたいのはそう言うことじゃなかったんだけどな』淋しげだった。
「だったら何さ」ルザロは両手を大きく広げて、見えないクレンティアに問いただした。
「あたしは何をどうしたら良かったの? 何もしない方が良かったって言いたいの?」
『違うよ。オレは……お前には自分の役割を演じないと言う選択肢があることを言いたかった』
「――ありがとう、クレンティア」そっと静かにルザロは言った。「でも、あたしは逃げないよ。飛竜の恋人・ルザロ・バリテューンの名に賭けて。行き着くとこまで行ってみるのさ。あとのことはそれから考えればいい」
 ルザロの顔にいつもの笑みが戻った。けれども、それは束の間の休息。目前に迫ったラコニア、シリアの森に辿り着いたらそんな心の余裕など失われてしまう。ルザロは自身でそのことを憂えていた。自分はある意味冷酷でありながら、心優しかったメロットになれるのだろうか?
『ホラ、ラシェンが目を覚ましたよ……』それからしばらくクレンティアの声は途絶えた。
「あ……やっと、起きたんだ、ラシェン。最近は何だか寝顔ばかり見ているような気がするよ」
「ルザロとクレンティアがいると思うととても安心できるんだ。アストレアの屋敷にいたら考えられないよ。こんな時なのに却って落ち着いているなんておかしな気分だよ」
 ラシェンの率直な感想はルザロにある確信を深めさせた。やはり、ラシェンは分かっている。いつから始まるのかその起源すらも分からなくなったことを。
「そうかい?」それでもルザロは不思議そうな顔をしてラシェンの顔を覗き込んだ。
「可愛いな」ラシェンは何の脈絡もなく唐突に言った。
「な、な……?」ルザロは瞬間真っ赤になった。「き、急に何を言うんだ」
「オレの本心だよ。ルザロがどう反応するのかなと思ってさ。ちょっとからかってみたんだ」
「な?」どちらにしても答えようがなかった。
『……ぐずぐずしていたら置いていくぞ』
 遠くからしびれを切らしたクレンティアの声が届いてきた。無論、クレンティアには宿屋の一室でどんなやりとりがあったのかは分かっている。あまりに朴念仁なことは避けたかったが、そうも言っていられなかった。旅の予定は当初よりも一日以上遅れていたから、のんびりとしていたらアーシャと約束した期限を過ぎてしまうのだった。行かない。と言うのなら話しは別だが、クレンティアも変なところで律儀だったりする。
『全く、実際、お前らは暢気だよ。二人とも理由を知っているのにこの有様だなんて』
 呆れ顔にクレンティアは言う。だけれども、それはとても楽しそうな顔の裏返しだった。クレンティアはご機嫌に空を飛ばしてシリアの森へと急いだ。そこへ辿り着いたらこの旅は終わったも同然だった。シリアの森にはアーシャの屋敷がある。
「それもいいさ!」ルザロは言う。
 長い髪をクレンティアの紬出す風に靡かせていた。ルザロは無意識に顔にかかる髪を掻き上げる。その仕草はラシェンの心を捕らえて離さず、あらぬ事を考えたりもする。
(ルザロになら殺されてもいいのかもしれない……)
 恐ろしい予感だったけれども、それは確実に身の上に起こりそうだった。と言うよりはむしろ、確信なのかもしれない。急によそよそしかったり、健気だったり、いつものようだったり。ふらつくルザロの態度を見ていたらそんな気持ちがしてくるのだ。
 風は全てを過去に吹き飛ばす。ずっとこのままクレンティアの背に乗って飛んでいられたら。叶わない夢のようなこととは知りつつも、ラシェンはルザロの横顔と後ろ姿を眺めて思った。
「シリアの森に入ったら、ラコニアが閉ざされた街と呼ばれる所以が分かるよ。そこを越えればラコニア。標高約二千。その寒さにあたしたちじゃ耐えられない。アストレアの比じゃないよ。あそこの寒さは」
 そう言いつつもルザロの心はある種の懐かしさで一杯になっていた。ラコニアへ帰る。母の死。クレンティアとの出会い。そして、言葉に表せないたくさんのことがあった。ルザロの事を知る者がいたとしたら快くは思われないかもしれない。
「……そんなに寒いのか?」かなりの間を置いて、ラシェンが静かに尋ねていた。
「あの夏の暑さを体験したばかりなら、尚更」
「オレ、寒いのは苦手なんだ。勘弁して欲しいな」
「無理だよ、あそこは……」ルザロは何かを言おうとして言葉を切った。「いや、行けば分かるよ」
「ク、クレンティアは教えてくれないのか?」ラシェンは何だか不安になってすがるようにクレンティアに聞いていた。けれど、彼もラシェンの期待には応えてくれない。
『行けば分かる。ラコニアはそう言うところだ……』
 クレンティアが素っ気なく答えた頃、シリアの森は束の間の旅人たちの眼下に迫っていた。

【運命の森・Forest Siria】
 降り立った森の街道は耳が痛くなるような森閑さに包まれていた。ここは針葉樹林帯。アストレアの都ではまず目にすることの出来ない樹種が大半を占めている。同じ大陸、同じ国とは言っても、相当雰囲気が異なるのだ。
「雪……ずっとやまなかったね、結局」ルザロは半ば独り言のように呟いた。「きっと、このまま二、三日降り止まないんだ」
「……」『……』ラシェンとクレンティアはルザロが喋るに任せていた。
「雪の日は嫌いなんだ。色々と思い出してね」
『今日はやけにセンチだな』つい、茶々を入れてしまう。
 ルザロは一瞬、頬を膨らませてムッとした表情を見せるも、朗らかに言った。
「うら若き乙女ですもの」でも、喋っていて恥ずかしくなったのか途中でもじもじとなる。
『ハハ! ラシェンが可愛いと言う理由が分かるような気がするよ。オレといるときはいつも男っぽい言葉しか使わないのにな? オレとは扱いが違うぞ?』クレンティアは吠えるように笑う。
「……こんな奴、放って置いて、行こ!」憤慨してルザロは言う。
 ルザロはちょっとだけ話題に置いて行かれたラシェンを引っ張って森の中へと歩みを進めた。シリアの森を抜けるとそこはもうラコニアなのだ。そして、ラコニアの街に抜ける直前には北の賢者と名高いアーシャ・レジームの質素な屋敷があった。
 アーシャの屋敷へとつながる道筋は一夜を過ごした宿場町からの街道と連なっていた。雪深く、除雪と言った気の利いたことはされていない。無論、森の中はそこに至るまでの平地よりは積雪が少なかったが、それでも雪慣れないラシェンには歩きにくいことこの上なかった。
「この旅は初めてのことだらけだな」感慨深げにラシェンは言った。「空も、この速さも、雪も皆初めてのことだ。喜んでもいいのかな?」
「多分……ね」ルザロは素直に喜べない。
 相変わらず雲に閉ざされたままの空はルザロの心をそのまま反映していた。出発したときはここに来るときまでには心は決まって落ち着いているはずだったのに。そんな甘い見通しはルザロの心は裏切られた形だった。
 と、程なくルザロは街道のわき道に逸れた。始めてきた道ではない。慣れた足取りがラシェンにそう告げていた。けれど、それはもう大した問題ではなくなっていた。
「ラシェン……」凍えたように震えたか細い声でルザロは言った。
 顔色は余りよくない。ラシェンの手を握った右手には知らず知らずのうちに力が入っていた。
「……もうすぐ、アーシャ様のお屋敷なんだね」優しく包み込むようだった。
 ルザロはただ頷く。答える術などどこにもなかったのかもしれない。先行きは不透明。針葉樹林の梢から覗く空は灰色で、時折思い出したかのように雪が舞い降りる。森は微かな木々のさざめきだけをルザロたちに届け、他は何もなく聞こえなかった。

「これがアーシャ・レジーム。北の賢者と呼ばれる年寄りの家か……」
 ルザロとラシェンの前には屋敷と呼ぶにはあまりに質素な建物がひっそりと建っていた。壁や屋根の彩色は純アストレア風のようで、ラコニア近辺ではちょっとした異色な雰囲気を持っていた。
「年寄りは余計だぞ、ラシェン・フューリアズ」
 いつからそこにいたのかアーシャは館の入口で腕を組んで佇んでいた。
「まあ、細かいことはあまり言わないようにしよう。取り敢えず、ようこそ、閉ざされた街・ラコニアの片隅へ。今夜は夕食を共にしよう。さあ中へ」
 ラシェンのアーシャに対する印象は最初に自身が予想したものとは異なっていた。もっと、人間離れしてある意味超然としたアーシャを心のどこかで望んでいた。しかし、実際に会ったアーシャはどちらかと言えば人間味あふれる好印象の男だった。どこか飄々とした感はあるが、それ以上でも以下でもなくてラシェンはちょっとだけ拍子抜けしていた。
「……アーシャ様」恐る恐る、ラシェンはアーシャに声をかけた。
「何だ? ラシェン」背中で答える。
「いえ、あの……特にその、何でもありません」ついには口の中でモゴモゴとなってしまう。
「ふ、ふ。わしが何の変哲もないただの年寄りでがっかりしたのか?0」
「あ、決してその様なことは――。ですが、あなた様のような方が何故、オレ……ボクを――」
「それは、食事をしながら話そうか」
 後ろ手を組んだままアーシャは客人を促した。アストレアのフューリアズ邸に比べたら、アーシャの屋敷は何分の一しかない。しかし、ラシェンにとって未知の領域。物理的に狭いはずのそこもやたらと広かった。
「そこにかけなさい」アーシャはダイニングの扉を開け、テーブルと椅子を指し示した。その上には湯気の昇る暖かい食事が用意されていた。ルザロとラシェンは互いに顔を見合わせて頷くと、促された席に着いた。その間、無言。今更、何を喋るというのか。しかし、気まずい雰囲気が漂ったことだけは否めない。
「さあ、遠慮なく食べなさい……」
 目上の者にそう言われて遠慮なく食が進むはずもない。ルザロとラシェンは何故だかじとーっとした雰囲気の中、言葉もなく俯いていた。これには流石のアーシャもほとほと呆れたようだった。滅入るその気持ちは分からないでもないが、アーシャとしては非常にやりにくい。
「仕方がない。……多分、ルザロから聞いておるとはおもうが、話すか……?」
 それから、アーシャの語りが始まった。その一部は既にルザロもラシェンも、そして、クレンティアも心得ることだった。けれど、その多くは今まで誰にも語られることのなかった真実。ヒトと飛竜。科学と魔法。バリテューンの血筋。大地の嘆きなど。
「このまま行けば、いつか、ヒトは滅び、星は死に絶える。それもいいのかもしれないが、黙って見ておるわけにもいくまい?」人知れずニヤリとする。
「そうかもしれません、賢者様……。でも少しだけ時間が欲しいんです。色々考えてみたい。何故、ボクなのか。どうして今なのか……」
 ラシェンは組んだ手をテーブルの上において、俯きがちに喋っていた。
「好きにしたらいい。はっきりとした期日などないのだから。……ラシェンとルザロ、――クレンティアが“そう”と感じたときに実行したらいい。今更一日、二日ずれたところで大して大して変わらない」言葉にはどこか諦めの雰囲気が感じられた。
「そう……ですか」何と答えたら分からない様子でラシェンはオズオズとしていた。
「そうですよ」アーシャは立ち上がりざまに繰り返す。「部屋は二階に用意させてある。分からないことがあったら、使用人に聞けばいい。わしは失礼するよ?」
 アーシャは比較的柔和な表情を浮かべてルザロに言った。
「ルザロ……、よく分かっているだろう? 自分のすべきことは……」
「はい……」
「――短剣はお前の部屋に用意してある」去り際、アーシャはルザロにだけ聞こえるように囁いた。
「はい……」声が震えた。下手をすると涙まで零れ落ちてしまいそう。それはまるで何も知らなかった少女のようで、先を憂える不安だった。それから、アーシャはダイニングをあとにした。
 そして、沈黙。ルザロは膝の上で拳を握ったまま俯き。ラシェンはそれこそ全く口を開こうとはしなかった。時計が針を進める音だけが二人の耳にはこだましていた。話すことは何もない? そんなはずはなかった。
「ラ、ラシェン。あ、あたし……」瞳が潤んでいた。「ううん。やっぱり、何でもない……」
 ルザロはすっと立ち上がり、左手の人差し指でそっと涙を拭っていた。足はダイニングの外へと向き、ルザロはラシェン一人を残して部屋の外へと出ていった。けれども、その切れ長の瞳はいつまでもラシェンの姿を捉えたままはなさなかった。未練。というよりはむしろ苦悩。あの顔がとわに見られなくなることへの恐怖だった。
「ルザロ……。気に病むことはない」
 口元を押さえてルザロは無言で頷いた。口を開けば嗚咽が漏れそうだった。ラシェンの言葉は嬉しくもあり、逆に辛くもある。ラシェンの命を奪うかもしれないのは自分。それなのにラシェンは穏やかだった。ただ静かな微笑みを湛えダイニングを出てゆこうとするルザロの姿を追っていた。
(ラシェン、好きだよ)
 ルザロは後ろ髪を引かれながら扉をパタンと閉じた。それから、ルザロは走った。行く当てもなく彷徨う子供のように。そのまま何もかも振り切って忘れられたのならとも時に思う。走り出したものの、結局ルザロは自分にあてがわれた部屋のベッドに腰を下ろしていた。サイドテーブルには例のものが大人しく座っていた。何の変哲もないどこにでもありそうな短剣。唯一、違うところがあったとしたら、それはメロットの生き血を吸っていること。
(これで……ラシェンを殺すんだ)ルザロはじっと見詰めたあと、短剣を手に取った。
 なぁに簡単さ。ヒトなんて脆いものさ。ちょっと胸を突いてやればすぐに死んでしまうんだ。ずっと以前、誰かがルザロの耳元で囁いていた。奇妙なほど鮮明に覚えているが、声の主は定かではない。ただ、ひどく身近な何者かだった。
(ラシェン……あたしはどうしたらいいの……)ルザロはまだ深い闇にいた。
(……オレは何もしてやれない)
 二人は同じ屋根の下、同じような思いを抱いて存在していた。エレミアの時と同じよう。エレミアがルザロに変わっただけ。でも、ルザロを助けられるヒトはいない。ルザロはたったの一人なのだ。そのことがラシェンの胸に痛く迫った。
「ルザロの心の支えはいないんだ……」ポツリとラシェンは呟いた。
 再び、ラシェンは真夜中のアストレアに佇んでいた。やはり、時計塔が深夜の鐘を鳴らし、人気は全くなかった。異様なほど静まり返ったその町には瓦斯灯の灯だけが揺らめくのだ。
〈またか……〉
《ルザロはお前のアストレア。お前はルザロのフューリアズ……》
〈それはどういう意味?〉
《……フューリアズはアストレアの騎士……大地の加護を受けた大地の御子――》
〈じゃ、じゃあ、エレミアは? エレミアはどうなんだ?〉
《エレミア? 彼女もその血を引くもの。魔性に好かれやすかったのもそのせい。普通は魂を受け渡したとしてもあれだけのシンクロは不可能だ。生まれ持った特性が負に働いた》
〈オレがここにいるのは――〉絞りだすような声。
《さだめ》また、茶化されるのかと思ったら、正直に答えてくれた。それは答えらしい答えではなかったが、ラシェンの心に重くのし掛かったことは確かだった。《フューリアズはアストレアの騎士……そう、それがフューリアズがアストレア領主の所以》
 そして、それはフッと掻き消すようにいなくなった。
 夜の帳が降りて、しばらくの時が経過していた。森の木々が夜風に揺られ、フクロウがしんみりと鳴いていた。新月。森の細道を照らすものはなかった。
『……アーシャ、聞こえるか……』クレンティアはアーシャ邸の屋根の上にとまっていた。ラコニア連山を眺め、星影の中に揺らめく陽炎のようなものを感じていた。目に見えぬそれは怖いものなしのはずのクレンティアにも寒けを感じさせていた。
「聞こえているさ。お前の声は距離を越える。今更わしが解説するまでもあるまい?」
『それはそうだ。なら、オレの言いたいことが、したいことが分かるか?』
「無論だ。お前は……いや、お前たちはすり替えをやるつもりだ。別段、反対するつもりはない」
『ハン? やけに物分かりがいいな、じじい』
「何度も言ったはずだ。わしも所詮は人の子に過ぎない。ルザロに死んで欲しいわけはない。メロットの時出来なかったことも、お前とマイアがいればできるかもしれない……」
『買いかぶりだと思うがね、それは』クレンティアは苦笑を浮かべていた。
「そうかな」アーシャは自室の窓越しにクレンティアの見る景色を眺めていた。
『雪が……舞い降りてきたな……。……まるで、あの時と同じだ――』
「……だが、メインキャストは変わったぞ? 例え同じことをしたとしても同じ結果にはならない。そうじゃなかったのか、クレンティア。――より悲劇的になるのかもしれんが」
『……それはそれ。これはこれ。割り切るしかないな』
 悲痛な響きをもったクレンティアの声は冷たい空気に呑まれて消える。夜風はせせら笑いを残し、奇妙は静けさはクレンティアの不安を悪戯に煽っていた。
「クレンティア? クレンティア……。まだ、起きているかい?」
 おかしな緊張のためかラシェンはなかなか寝つけずにいた。明かりを消して、ひっそりとした暗闇にいても目は爛々と輝いてくるばかり。下手をすれば昼間よりも頭が冴えていそうな気分だった。
『目は閉じているつもりだけどね』いつものような屁理屈が聞こえてくる。
「良かった……、ちょっぴり安心したよ」ラシェンはほっと胸をなで下ろした。
『何故だ?』胡乱そうにクレンティアは言った。
「寝つけないし、クレンティアに聞きたいんだ、オレはどうしたらいいと思う?」
『オレに聞いてどうするんだ? ラシェン。自分の命に関わることだぞ。誰に頼ってみたところで、最後に決断するのはお前自身。それともラシェン、お前は人に命を絶てと言われれば、何も言わず、死ねるのか?』
「いや、そう言うわけじゃ」奥歯に物が挟まったようにモゴモゴと答える。
『――零れ落ちた雫は元には還らない。行き着くところまで行くしかないのさ』
「それが例え、生贄に捧げられることだったとしても?」ひょっとしたら少し意地が悪かったかもしれない。けれど、そう言わずにはいられなかった。
『そうだとしてもだ。だがね。それに刃向うのが生き物だと思うんだ』クレンティアの明るく澄ました声がラシェンの耳に届く。『違うか? ラシェン』
「そうかもしれないね。刃向うことをやめたら死ぬしかないんだ……」
(エレミアの様に)それは声にこそ出さなかったが、ラシェンの思いだった。
『それは考えすぎだがね。しかし、お前がヒトならば或いはそうかもしれない。ただ、流れに任せて時を過ごしているのなら、それは死んでいるのと変わりはないのかもな』
「そう……それから夢……。あれはキミが見せていたのかい?」
 クレンティアは静かにラシェンの瞳を見つめていた。その閃く瞳はいつもより、より深く澄んでラシェンの心を見透かしているかのよう。
『……さあ、お前がそう思えばそうなのだろうな』くるくると眼を煌めかせる。
「やっぱり、そうなんだ。クレンティア。……キミはホントに物知りなんだね」自分でも不思議なくらいラシェンは落ち着いていた。覚悟は決まったのだろうか?
『違うな。あのまま放っておいたらお前はルザロを放してしまいそうだった。ホントは好きな癖にな……。あいつに必要なのはオレなんかじゃなくお前なのに』
「オレ?」
『お前だ』間髪を入れなかった。『あいつにはお前のほかには誰もいない』
 そう言ったクレンティアの言葉がラシェンの脳裏からいつまでも離れなかった。誰もいない。天涯孤独の意なのだろうか。そして、ついさっきまで自分も同じことを考えていたことに思い至った。
「ルザロは一人……」呟くラシェンにクレンティアは答えてくれなかった。
(本当の一人きりはどんな気持ちなんだろう)ある意味でそれはラシェンとも通じるところはあるのかもしれない。けれど、“戦いの場”での一人きりの気持ちは分からない。
(少し風に当たってこようか……)そう思う瞬間まで、外はすっかり冬景色ということを忘れていた。ラシェンは部屋をくるりと見渡すと、たまたまそこにあった防寒着を身に着けて外に出た。寒いのは嫌いだが、部屋で一人じっとしていてもおかしくなってしまいそうだったのだ。気を紛らすためには小雪の舞う銀の世界を歩くしかない。気障にそう思ったのかもしれない。
 ラシェンはアーシャの屋敷からそれほど遠くもないシリアの森を彷徨うように歩いていた。
(……『――零れ落ちた雫は元には還らない。行き着くところまで行くしかないのさ』か……)
 そう言ったクレンティアの言葉がやけにラシェンの耳に残っていた。この雫はいつ葉っぱの上から零れ落ちたのだろう。陽の光に煌めいて心ときめかすよな優美な雫ではなくて、落ちてはいけなかったはずの運命という名の雫。風にそよめかされてそれは葉の上に居場所をなくした。
(行き着くところまで行ってしまったら、却って、他の何かが見えるのかもしれない……)
 と、そこにルザロがシレッと現れた。その様子はラシェンを追って出てきたようではなく、彼よりも先に森に来ていたことを物語っていた。
「ホラ、よく聞いて、森が泣いてる」
「森が……泣いてる?」
 突然、ルザロが現れたことに驚いたけれども、ラシェンの興味は森のことに動いていた。
「そう、森が泣いてるの。とても淋しそう。ラシェンには分からないの。こんなに静かで、木々の枝が風に戦いでいるだけ。いつもはざわざわと楽しそうだったのに」ルザロは両手を広げて天を仰いだ。「ホラ、ラシェン、目を閉じて……。あたしの力を少しだけ分けてあげる」
 ルザロはラシェンの前髪をかき上げて、額にそっとキスをした。いい香がする。ルザロのふわりとした髪が触れて心地いい。
「これできっとラシェンにも分かる」
 ルザロはラシェンの傍らから離れると、つと近くの木陰に寄った。ひらひらと舞うぼたん雪を運ぶ風にルザロの髪がそよそよと揺られている。不可思議。明日、起ころうとしていることなど嘘のようだった。きっとこのまま時は凍てついてしまうのだ。そう思わずにはいられない。
「空気は澄んでいるみたいだ。静かすぎて耳が痛い」
 辺りは静閑さに包まれ、雪はしんしんと降り続く。吐く息は白く、心は切なくなる。生き物がたくさんいるはずなのにその気配を感じることすらなかった。
「森って……こんなに静かで、淋しいところだったかな?」
「違うよ」ルザロは目を閉じて首を左右に振った。「もっと賑やかだよ。そうは思えなかったかもしれないけれど。この森には色々な生き物たちが生活しているから、どんなに静かになったとしても何もかもが死に絶えたような“静かさ”はないはずなんだ」
「でも、木々がそよめく以外に何も感じない」
「そう、この森は死にかけてる。皆ほとんど逃げてしまったんだ。この森が一番核心に近いから。その影響は早くに現れるんだ。ラコニアを閉ざすこの雪がそれの象徴みたいなもんだね」
「アストレア発祥の地? 閉ざされた街?」不意に思い起こしたようにラシェンは問った。「フューリアズ家の先祖は昔、ラコニアに住んでいた……」
「ふふ……」半ば呆れたようにルザロは笑った。「実際、ラシェンはどこまで知ってるんだろうね。フューリアズはアストレア、正義の女神の騎士! そのナイトは女神とラコニアを捨てて、今のアストレアに都を打ち立てた。裏切った女神の名を都の領地の名称にするなんて考えられないよ」
「それは……クレンティアが教えてくれた。本人は半分否定しているけどきっとそうだよ」
「クレンティアはそおいう奴だよ。大切なことはいつもはぐらかすように言うんだ。ふう」ルザロはため息をつく。「ホントに大事なことはなかなか話してくれない……」
「でも、何で、今更、エレミアとオレなんだ?」
「アストレアの復讐」ルザロの瞳が恐ろしいまでに研ぎ澄まされた光を放った。ラシェンは期せずして後ずさりをした。「ま、それは冗談だけどね」ケロリとしてルザロは言った。「簡単に言ったら、ラシェンがフューリアズの血を引いているから。大地のしがらみというやつかな?」
 ラシェンはルザロの顔を見たまま何も言わなかった。ただじっと見詰め、その姿を瞳に焼き付けているかのようだった。そうすると、ルザロは瞬間目を閉じて言葉を発した。
「あ〜あ、やっぱり大誤算だよ。あたしが……あたしがラシェンを好いちゃうなんて……さ!」
 それがルザロの言えた精一杯の言葉だった。ボッと真っ赤になると踵を返してラシェンから遠ざかる。言ってしまったあとで恥ずかしさが込み上げてくる。
「あたしは先に戻ってるから、心落ち着かせて、考えがまとまったら戻っておいでよ」
 後ろ髪を引かれる思いとはこう言うことを言うのだろうか。瞬間思った。いつまでもここにいたい。喋ることがなくなっても、何故だかずっと佇んでいたい。けれど、泣き出してしまいそうだった。そんな姿はラシェンに見せたくなかったし、見られたくなかった。
「あ、ルザロ、待って……」ルザロはラシェンの言を聞かない。
(ラシェン……)ルザロは無意識のうちに口元に手を当てていた。(明日……。明日会おうよ。今日はもう、ラシェンの顔を少しでも見ていたら涙がとまらなくなりそうだよ)
 ルザロは屋敷の扉をかいくぐって、そのまま自分にあてがわれた部屋に飛び込んだ。何もかもを投げ捨ててしまいたい! けれど、そんなことを出来はしないことはルザロ自身が最もよく心得ていた。それだけの勇気があるのならこんなことにはなっていないはずだったから。
『いよいよ、明日だな……』クレンティアはルザロが部屋に戻ってきたのを察知したのか、屋根の上から問い掛けた。『もう、気は済んだのか? あれは上手くいくかどうか分からないから、覚悟だけはしておいたほうがいい。出来ることなら――』
「もう、いいんだよ、クレンティア」遮ってルザロは言う。「そんなに気を使ってくれなくても。あたしは……クレンティアの思うほど弱くないよ。母さんほどじゃあないかもしれなけれどもさ」
 涙を噛みしめるかのような囁きになる。
『ルザロ……自分だけを追い詰めるな』
「分かってるよ。分かってるけどさ。こんな気持ち、誰に言えばいい?」
『オレに言えばいい。……オレはまだお前のパートナーだ。遠慮なんてすることはないのさ』
「ふふ、そうだよね。クレンティアには何の遠慮も要らないはずだった……ね」
『……』クレンティアはしばらく考え込むかのように黙っていた。それから、急に。
『もう、間もなく、魔法の時代は終わる。――滅びの道への傾斜はきつくなるばかりだな。今のままの科学が趨勢を極めようとすれば何もかもなくなる。そうは思わないか?』
 クレンティアの大きな瑠璃色の眼とルザロの水晶の瞳がそれぞれの心の中で出会う。
「そおだね、このまま、魔法は滅ぶんだ。今よりも凄い科学の時代が来るよ。その時にはきっと、クレンティアも飛竜の一族も、いなくなってる。科学は……大地の力を奪う。それが魔法と根本的に違うところ。だから、人も何もかもなくなるんだろうね、いつか。でもさ、今やれることだけはやっておかないと。やり方の是非は別にしてだよ……」
『しないで後悔するくらいなら、して後悔したほうがいいか……。その辺はメロットに似てるんだな。奴もそう言った変なところが几帳面だった。それが――命取りだ』
 ルザロは答えなかった。クレンティアの言いたいことは痛いほど分かっていた。針で刺すよな心の痛みを感じながら、ルザロは唇を噛みしめた。
「でも……さ……」
『お前の顔がメロットと重なるよ。――一つくらいしないで作った後悔と、ルザロのささやかな喜びをとってもいいんじゃないのかい? 誰もお前を責めたりはしないよ』
「あたしがあたしを責める」確信めいた反論だった。
『やっぱり、メロットの娘だな……。とてもよく似ているよ。あの日とまるでおんなじだ』
「同じにはしない。あたしは処刑台には行かない。ラシェンも殺させない。分かる? 苦悩するのも追い込まれるのもあたし一人だけでいい」
 ルザロの水晶の瞳には決意が宿っていた。
『そして、オレはお前の元を去る』それはルザロには決して届かぬクレンティアの心の叫びだった。

【Tear Drops・涙の滴り】
 シリアの森・西方。空は薄紫色の雲に閉ざされ、時折雪がぱらついていた。気温は季節の理を無視したかのような氷点下。アストレアではせいぜい残暑厳しの季節柄のはずなのだが、ここでは常識が通用しない。辺り一面は世間が夏でも完全に雪に閉ざされる。それがラコニアが“閉ざされた街”と呼ばれる所以だった。
「ここだ……母さんの志が残っているところ、大地の亀裂、星の嘆き」
 ひとしきり呟くとルザロは横にいるラシェンの顔を覗き見た。
「寒くないかい? ラシェン」吐く息は白い。
「寒くないと言ったら、嘘になるよ」
 小さな森のこの場所は十四年前と寸分も違わなかった。事実、ルザロにはそんなことを知る由もなかったのだが、それはクレンティアの奇妙に淋しそうな、切なそうな哀愁を漂わせた姿を見ていれば嫌でも分かるのだった。
「クレンティア……昔、ここで色々あったんだよね」ルザロはジッと亀裂を眺めていた。
『ああ、色々な……』くぐもった訳ありの声でクレンティアは言った。あまり追求はして欲しくないらしく伏せ目がちで、ルザロもラシェンの瞳も見ようとはしなかった。
『マイア! 準備はいいか?』
『準備はいいさ』
 虚空に呼びかけるとマイアの声が帰ってきた。すると、上空を旋回する一頭の飛竜の姿が目に留まる。それから、森の梢の間隙に垂直降下を始めた。ぐんぐんとマイアの姿が大きくなった。視界一杯に彼の姿が広がったとき、マイアはクレンティアとルザロラシェンの前にいた。
『だがね。ラシェンの血とエレミアだっけ? の命で誤魔化せるのかい? その……彼女の命は魔性に食い尽くされて何も残っていないんじゃぁ?』
『――やってみなければ分からないさ、マイア』
『珍しいことを言うね。キミにしては』
『余計なお世話だよ』ふてくされたように言う。
『そう言うキミも面白くて可愛いよ、意外と純なんだね、クレンティアは』
『さあ、知らないね』瞳はマイアを見てキラキラと微笑んでいた。
「落ち着いた? 飛竜さんたちお二方」マイアの影からティーアが現れた。「このまま放っておいたほうが面白そうだったんだけど……ね。……さて、そろそろ始めてもいいんじゃないかしら、ルザロちゃん」ティーアは飛竜たちから目を逸らし、ルザロを指した。
「はい……」ルザロはコクリと頷いた。「いいかい? クレンティア」
『オレはいつでもいいさ、ルザロ』
 クレンティアはクールに言った。その声はいつもより研ぎ澄まされて冷たく森に響いた。
 そうだ、これはいつもと同じ仕事なんだ。私情は要らない。最初、初めてラシェンと会ったときのようにホンの少しの悪戯心をもって、エレミアの魔性祓の時のようにそのことだけに集中する。ラシェンのことは思考の外に追い出すのだ。クレンティアの鼓動だけを感じ取る。
「力をあたしにクレンティア!」
 集中を高めるクレンティアの影には、エレミアの心の代替とするためにマイアとティーアがスタンバイしていた。こちらは大体目星のつけたエレミアの欠片を集めようというのだ。魔性に憑かれた魂は簡単に黄泉路へは行けないという。ならば、それを集めてしまえというわけだ。
「さあ、マイア。私たちの力の見せ所だよ。飛竜の恋人たちに負けないようにやらないとね?」
『当たり前だ。ボクはクレンティアなんかに負けないよ』
 マイアの瞳がぎらりとしたかと思うと、徐々に赤みを増してきた。
「マイア! 力を貸しなさい!」ティーアは空に手を差し伸べた。
「天界を預かる天使たちよ! 散り散りになったエレミア・フューリアズの欠片を集めたまえ。そののち、大地を癒す活力となりて、ルザロ・バリテューンの元へ。ラシェン・フューリアズの血に転じて大地を癒す活力へと変われ」
 果たして上手くゆくのだろうか。正直なところティーアは思う。今までにこんな法力を使ったことがないせいもある。ただ一番の杞憂は聞き及ぶエレミアの死に方だった。魔性に憑かれた魂は普通跡形もなく消えてしまう。そんなんで騙せるのだろうか? クレンティアとルザロ。マイアとティーア。現世で屈指の魔法使いがいたとしてもないものをあることには出来ない。それが世の理。
「大地に住まう精霊たちよ。竜の紡ぎし血脈を辿りて我に力を与え賜え。自らの治癒力に転じ、大地を癒す気力を蘇らせん。生贄の名は……生贄の名は……星に傷を付けしものの末裔、ラシェン……ラシェン・フューリアズ。……ラシェン、腕を貸して。もしかしたら、これで終わる」
 ルザロはラシェンの左腕をとった。それから、確認をとるかのようにラシェンを見つめた。ラシェンは真摯な真っ直ぐな眼差しをルザロに向けて頷いた。
「じゃあ、やるよ。しばらく我慢しな」それは久々に見るルザロの姿だった。エレミアに憑いた魔性を祓ったとき以来の凄惨さだった。感情が凍り付いてしまったかのよう氷壁の意志を見せる。けれども、僅かだけ楽しさを滲み出させているのだ。それはある意味、恐ろしくもあり美しかった。ラシェンの女神は右手に短剣を握り微かな悲哀さをあわせもったルザロだったのかもしれない。
『どうだ? マイア。エレミアの欠片は見付かったか?』
『見付けるには見付けたさ。だが、これではどんなものだかね……』
『残骸か』
『予想通りと言うべきか、魔性に食い荒らされて辛うじて形がある程度だな』
『上手くいくか……』諦めの色がクレンティアの瞳に浮かぶ。『それとも……』
 ルザロが負わせた傷から赤い血が真白い雪にハイコントラストの文様を作り出す。騙せる? 騙せない? 数秒の時間がまるで永遠に感じられるような緊張感。胸が締めつけられるような思いがする。大地の咆哮、細動とも言える地鳴りが響く。
(やっぱり、星は騙せない。……決定的な何かが足りない!)
「ダメ! クレンティア」ルザロはクレンティアを振り向いた。
『失敗だ。どうあっても奴はラシェン・フューリアズを生贄に欲しいらしい。大地の御子でなければ失われた精気……魔力は戻ってこない。それだけのことをヒトはしてしまったんだ。許してくれない……。簡単には許してくれない』
 瞬間、ルザロはギリリと唇を噛んだ。来るべきときが来てしまった。後悔? 焦りとも似付かぬ曖昧な苦痛によく似た感情がルザロの胸中を支配する。瞳は曇って、懇願するかのようにクレンティアの瞳を見返す。クレンティアはそれを受け止め、ルザロが言葉を発するのを待った。
「だったら、やるよ、クレンティア」ルザロの瞳が閃いた。「仕方がないさ、そうしろと言われたら、あたしたちはそうするしかないんだ!」
 ルザロの瞳には悲壮な輝きが宿っていた。深い森の中、そこには三人しかいなかった。自分がしなければ誰もしないこと。ルザロには与えられたシナリオをこなさないと言う選択肢が残されていた。けれど、そういうわけにはいかない。ルザロの中に秘やかな決意が芽生えていた。
「さあ! 力をあたしに、クレンティア!」ルザロは感情を押し込めるかのように叫んだ。「あたしはこの星を助けるだなんて、大それたことは考えてない。それは奢りだ。ただ、まだ、星々の追憶の彼方には消えて欲しくないんだ。せめて、ラシェンが生きている間は……」
 それはまるでいつもの光景だった。ルザロの横では何も聞かず集中力を高めていた。ルザロにとって見慣れたクレンティアの様子はラシェンにとっては不思議な光景だった。クレンティアの透き通るような瑠璃色の瞳が深紅に染まってゆく。神秘的でありつつ、それは奇妙に悪魔的だった。
 ざわざわと身の毛のよだつような感覚がラシェンを襲っていた。
「何をする気だ、ルザロ!」期せずして叫んでいた。
「何もしないよ……」ニヤリとルザロは笑った。「それは、いつか誰にでも訪れる当たり前の現象なんだ」瞳だけが瞬間、ラシェンを見た。淋しさの色? ルザロの瞳に一瞬陰りが出たのをラシェンは見逃さなかった。
「よせ! ルザロ。時間はまだある!」しかし、ラシェンのそれは虚しく空を切る。
「大地に住まう精霊たちよ。竜の紡ぎし血脈を辿りて我に力を与え賜え。自らの治癒力に転じ、大地を癒す気力を蘇らせん。生贄の名は……星に傷を付けしものの末裔、ラシェン……ラシェン・フューリアズ」
(そして、その身代わりは飛竜の恋人……ルザロ・バリテューン……。文句は言わせない)
「ティーア! あたしの魔法を引き継いで!」
 それはイレギュラーな方法だった。誰も試したことのない荒技だ。普通は術の途中に引き継ぎなど不可能だったからだ。これにはティーアも驚きを隠せない。けれど、やる! ルザロが何をどうしたいのか、ティーアには分かった。それは恐らく、ここに居合わせた誰にとっても哀しいことになるのだろう。だが、ルザロがそのやり方を選んだというなら誰にも反対は出来ない。
「マイア! 力を貸して。私一人じゃこの二人の力を受け止めきれない。詠唱は済んでるから、あとはルザロの思いを大地に還元するだけ……。いい? マイア? 失敗はなしよ」
『勿論だ。ルザロの思いを受け止めてやろう』
(ありがとう、皆)声には出さない。
 ルザロはクレンティアから流れる大地の力を満身に受けながら行くべき先を心に決めた。短剣を逆手に握った右手に力を集中した。どこを斬りつけようと言うのか、ルザロの右手は高くあがった。ラシェンは殺せない。となると、その切っ先の向けられるところはたった一つしかなかったのだ。
「クレンティア……、ラシェン……だあい好き……」
 ラシェンの血が未だ滴る短剣が閃く。クレンティアは既にルザロの方を見ていなかった。恐らく、彼女の行動を半ば予期していたのだろう。そして、また、彼にはルザロの衝動を止められぬことを心得ていたのかもしれなかった。或いは……。
「ヤ・メ・ロ、ルザロ!」
 突き立てようとした短剣の前にラシェンの手のひらが飛びだし、それからラシェンの上半身が血色に輝く短剣とルザロの間にはまりこんだ。ルザロにとって予測不可能なこと。それはクレンティアにとっても同様だった。予想外。瞳はラシェンの後ろの虚空を見詰め、心の中は空白になる。ルザロの時は一瞬止まっていた。
 ルザロの短剣はラシェンの左胸を捉えた。急所だけは辛うじてはずれたようだが、殆ど致命傷だった。血の飛沫が辺りに飛び散る。ルザロの白い顔にも右手にも。今にも雪の舞い降りてきそうな淡い薄紫色の空にも――。
『やめようか、ティーア? 今ならまだ……』マイアは静かに言う。
「いや、……クレンティアがやめるなと目で訴えているよ。だから、このまま最後まで」
『また、無茶をするつもりなんだろうな。クレンティアのやつ……』呆れたような雰囲気を醸し出しつつ、マイアはひどく真面目だった。見込み違いだったとはいえ、結局は全ての条件が揃った。後のことを度外視すれば当初の目的は果たしたことになるはずだった。
 たった一つの、けれどもあまりに大きなイレギュラーを除いて。
「うあぁああ、ラシェ〜ン!」
 ルザロは傷ついたラシェンを抱きかかえたまま地面にうずくまった。もう、どうしていいかなんて分からない。そこに魔法使いルザロ・バリテューンの姿はなく、あまりの凶事に為す術もなく右往左往する哀れな乙女の姿があった。
「だから、どうして! ラシェン! ラシェン、返事しなさいよ」
「ルザロなのかい? へ……へへ……、暗くて何だかよく見えないよ」
 ルザロはラシェンをギュッと抱き締めた。
「あたしを……あたしを置いてゆくなんて許さない! 許さないからね、ラシェン! クレンティア」オロオロとした視線で飛竜の姿を捜す。「クレンティア、ラシェンを助けて。このままじゃ、し……死んじゃうよ」
『アストレアの騎士の宿命か……』ルザロを見るクレンティアの瞳は途轍もなく冷めていた。
「クレンティア! そんなことを言わないで……お願い……」
「置いてなんかいかないさ。……先に逝って待ってるだけだ」ラシェンのか細い声が聞こえる。
「こんなときにふざけないでよ! あたしは……今のあたしはラシェンなしじゃ歩いていけない!」
『いつからそんなに弱くなった。メロットなしでもお前はここまで生きてきた』
「うるさい! 母さんとラシェンは違うんだ!」クレンティアをキッと睨むルザロの瞳には一滴の涙が溜まっていた。「クレンティアにあたしの気持ちなんて分からない。分かるはずなんてない!」
『――そうなのかな』とても淋しそうにクレンティアは呟いた。『オレには分からないのかな』
 その瞬間、ルザロはハッとした。クレンティアも同じような状況を経験してきている。
「……ごめん」
 クレンティアは答えない。その代わりに、ルザロに抱きかかえられた息も絶え絶えのラシェンを冷めた目線で見詰めていた。クレンティアは知っていた。ルザロに今本当に必要なのは魔法のパートナーの自分ではないことを。ただ、心のどこかで否定し続けてきたのかもしれない。十数年連れ添ったルザロと別々の道を歩きだすことを。無論、彼にとってのこの十何年かは生きてる間のホンの瞬く間に過ぎない。けれど、それはクレンティアの心に深く食い込んでいた。
『――お遊びの時間はもうお終いだな』クレンティアは一人呟いた。
 失われた時は還らない。それは二百年あまり前から続くこの道を歩み始めたときから分かっていることだった。クレンティアにとってラシェンを助けることはルザロとの別れを意味していた。何故ならそれは、魔法を成立させるための交換条件。クレンティアは自らの魔力をラシェンに分け与える。そして、同じ魔力の波動は相容れぬもの。クレンティアは身を引かなければならない。
 ルザロの気持ちを知っていたから。
『大地の神よ! タブーを許せ!』クレンティアの咆哮が大地に轟いた。『世の……全ての理に叛することを許せ! 我が魂の叫びをアストレアの騎士、ラシェン・フューリアズへ……!』
 クレンティアはルザロにその大きな瞳を向けて、ニンと微笑んだ。
『お別れだ。ルザロ』
「え?」クレンティアの言葉を一瞬呑み込めなかった。
『オレは帰るよ……』出来る限り静かに穏やかに言う。
「え……?」キョトンとする。
『星の思い出、ルザロの夢の中に――。……サヨウナラ、ルザロ』
 ルザロには寝耳に水の言葉だった。聞いてない。クレンティアはずっといつまで文字分と一緒にいてくれるものだと信じていた。出会ったあの日から一度だって別れることを思ったことはない。もし、そんなことがあるとしたしたら、ルザロが死ぬときだけのはずだった。
『ラコニアも、長い冬から目覚めて春になる。雪も色んなわだかまりもとけて水になる。ホラ、見てご覧。長い間この森と街を閉ざしていた雪雲が切れる。……束の間の夢かもしれない。でも、オレたちはヒトの未来を信じるしかあるまい?』
 クレンティアは微笑んでいた。
『いつかきっと、遠い未来にお前たちの子孫に会おう』

 そして、そこに残ったのは一陣の風と真っ青な空に刻まれた小さな思い出だった。