fairyfiery

<5> 市立ベイグリフト病院、四一五室


 

 四月中旬のベイグリフトシティ。そこはちょうど、新緑の季節だった。ベイグリフトを象徴するタイル張りの駅舎からつづく、駅前通りの街路樹がようやく芽吹きだすころ。商店街の植え込みにも色とりどりの草花が植えられる。春。
「ミーナちゃん? ステキでしょう?」
「! ――!!」とても嬉しそう。
 昨晩はささやかなネオンの光しか見られなかったミーナにとっては全てが好奇心の対象だった。キラキラ煌めく瑠璃の瞳で全ての光を吸収する。あらゆる看板、抜ける空。アスファルトを破って生える草さえもミーナの心を捉えてやまない。
(可愛い……ナ)愛おしげな視線を向ける。(わたしにもこんなころあったのかな……)
 ベルクールはミーナの手を取った。
 お母さんのいる病院へは駅前通りから、サンセット大通りへと西へ向かう。また、同じ道を東に曲がればそこはサンライズ大通りだ。陽は東から昇って、西に沈む。たまたま主要道路の方角が東西南北の四方位と一致したために、誰かが簡単にそう名付けたらしい。
「ホラ、あれが市立病院」
 ベルクールが指したのは白亜の建物。常緑の針葉樹に囲まれた不可思議なところ。雪の降る季節はそこだけ浮かび上がって異空間を演出する。落葉……落ちるもの、落とすものは極力少ない。
「ここに足を運ぶようになってもう何年になるのかナ」
 淋しげな憂いを含んだ視線をミーナに向ける。
「ミーナちゃんに言っても仕方がないか!」
「?」
 ベルクールの前を意気揚々と歩いていたミーナは小首を傾げてきょとんとした。それからそのまましばらく後ろ歩き。
「あ、あら、気にしなくてもいいのよ。ホラ、そんなよそ見をしてたら転ぶよ」
 すると、びっくりしたかのように目を大きく見開いて、そそくさと鼻の頭を両手で押さえた。
「ははぁ〜、前にも何か同じようなことやったんでしょ?」
 ミーナは“そんなこと、知らないよ”と言いたげに首を大きく左右に振る。
「隠したって、ダメよ。ミーナちゃん。おね〜さんにはお見通しなんだからね」
「〜〜」
 ミーナは可愛らしいゲンコツを作って悔しがった。あまりに恥ずかしかったから、ベルクールには知られたくなかったのに、つい余計なリアクションをしてしまう。ミーナは恥ずかしげにもじもじっとすると、ベルクールの瞳をじっと見つめてニコリと微笑んだ。

「へえっ、ここが市立病院ねぇ。何だか、悪趣味。オレの好みじゃあないな」
 人語を解する何者かが飛んでいた。小さくて手のひらサイズ。よく見ると人の形をしていた。妖精? 小人? 意地悪そうな笑みを浮かべて、それは緑に包まれた白い病院を見つめている。
「純白だなんて、どう考えてもヘンだ! 病的だ……って病院か、ここ」
 一人で大笑い。自分の呟きに一人納得して、うんうんと頷いている。
「ま、関係ねぇな。姐さんのご意向とあれば、例え火の中、水の中。でも、水はヤだな。冷たいし。にしても、フィントのやつ大人しくしてくれるかな。レイとかってのとデキてるって噂だし」
 一瞬、ちょっとした戸惑いの表情を見せ、そのあと、妙に違和感のある真顔になった。
「ケッ! やってやらあ。明日の新聞は一面トップだぜ」

「――四階東区四一五室……。ナースステーションの東側なのよ」
 市立病院の真っ白い廊下には特有の消毒薬の匂いが漂っていた。ベルクールの嫌いな匂い。いつの頃からか覚えていないけれど、フと気が付いたときにはこの病院の匂いが嫌いだった。だから、本当はウィリアムよりも、ベルクールの方が病院に近付きたくなかったのかもしれない。
「あ……、ミーナちゃん、こっちよ。はぐれないでね、大変だから」
 ベルクールの声にミーナはコクンと頷いて、ベルクールの左手に掴まった。年の離れた姉妹のようで、とても微笑ましい光景。廊下に引かれた一般病棟への矢印を辿る。
「ホラ、ここヨ」
 四一五・シスケット・ガンフォード。小さな白いプラスチックの札がかかっていた。
 どこかの病室からは笑い声が聞こえてくる。お昼過ぎの病院はすこぶる賑やか。射し込む陽の光も心地よく、眠気を誘う。ぽかぽかしていてどこかでまどろんでいたい。そんな気持ちにさせる。
「お母さん……。へへっ! 来ちゃった」
 ベルクールは戸口の陰からひょこっと病室に顔を出した。
「あら?」読んでいた本をベッドの上に伏せた。「ベル、お店はどうしたの?」
「午後からお休みにしたのよ」
「定休日でもないのに?」少しだけきつい視線がベルクールに届く。
「だって、どうしても話さなくちゃならないことがあったから……」
 後ろ手を組んで、ベルクールは静々とベッドの傍らに近付いた。お母さんに怒られるのも怖い。正直、そうだ。けれど、それよりもウィリアムがこのベイグリフトに帰ったことを伝えたい。
「お母さん。……昨日の夜、ウィル兄さんがひょっこり帰ってきたんだヨ」
「ウィリアムがかい?」ベルクールは無言で穏やかに頷いた。「……音沙汰なしで、二年もどこをほっつき歩いていたんだろうねぇ」
「それで……ミーナって不思議な子を連れてきたのよね。ホラ、ミーナちゃん、こっちにおいで」
 トタタタとミーナが現れる。
「どこの子だい?」特に驚くそぶりを見せるでもなく、落ち着いていた。
「それが――判らないの。懐いてはくれたんだけど、一言も喋らない……」
「喋れない事情でもあるのかしらね」
 その言葉を聞いて、ミーナは一生懸命になって頷いて見せた。
「あら、本当みたいだよ」
「どんな事情なの――って聞きたいけど、本人が喋れないじゃあウィル兄に聞くしかないか」
 ちょっぴり残念そうにベルクールはミーナの顔を眺めていた。そのミーナの表情はいつもと違う。済まなそうでいて、どこか淋しさを湛え、そのまま影が薄くなって消えてしまいそうな笑みを浮かべる。病室をそよ風が吹き抜ければ、さわりとミーナの髪が揺れていく。
「……春――だねぇ」
「――」
「うん……」
 暖かい空気で病室がいっぱいになる。ベルクールは少し開いた窓を全部開けた。すると、通せん坊されていた春風がすーっと入り込む。ベイグリフトの雑多な街並みが春色に包まれつつあるのだ。ここからだと『停車場』からは見られない色んなものが見える。
 けれど、何だかかすかに焦げ臭い。安らぎの空気の中に小さな緊張感が孕まれている? 不穏さ。不気味さを静かに抱えている。奇妙。木々のさざめきがいつもと僅かに違っていた。
「あらららら、ミーナちゃん?」
「……」ミーナは落ち着きをなくしてベルクールの上着を哀願する眼差しで引っ張る。
「お母さん?」今度はベルクールが困り果てる。「どうしよう?」
「お母さんに聞かれても困るけど。何か言いたそうだね」
 語れない言葉はどれほどもどかしいのだろう。考えてみる。しかし、判るはずはないのかもしれない。ベルクールにそんな経験はなかった。物心ついてから、言葉は彼女とともにあった。
「!!」
 差し迫った表情、焦燥感。何かを必死に求める視線――。汗が滲む白いシャツ。ミーナの目線、ベルクールのうろたえた眼差しが交錯する。いつもの風景の中に違う何かが隠れているのだろうか。逃げたいけれど、逃げられないような奇妙な苛立ち。瞬間、辺りを包み込んでいた空気が変わる。
 ジリリリリ……。突然、非日常の音色が院内に響き渡った。
「緊急火災警報です。入院患者、当院においでの方は職員の指示に従い、速やかに院外に退去してください。くれぐれも廊下等では走らず、無用の混乱を招かぬよう……」
 無理は承知でも、決まり文句は変えられない。思考の柔軟性を求める余裕もない。案内に平静さを醸し出させるだけで精一杯だ。無用の混乱はここから始まるから。
「はぁ?」一瞬、呑み込めない。
「一階、二階、外来の方は所定の避難経路から屋外へ……」
 幾重にもなる雑音の中には妙な静けさが漂っていた。ざわめきの中の静寂。病室の二人にはっきりと淀みなく届くのは放送音声だけだった。
「か、火事?」
「ほほ、誤報かしらね?」
「お母さん、何、のんきなことを言ってるの? に、逃げなきゃ。焼け死ぬのだけはごめんよ」
「それはそうだけどね。慌てるほど危険率は上がるのよ」
「こ。こここ珈琲でも飲んでき、気持ちを落ち着けなきゃ?」十分すぎるくらい動転している。
「全く、我が娘ながら情けないわ。――とにかく、ナースステーションに行って車椅子借りてきなさい」声色には凛とした張りがあった。「あなたじゃ、わたしをおんぶなんて出来ないでしょう?」
「う、うん」
 後ろ髪を引かれる思いを背中に感じながら、ベルクールはナースステーションに飛び込んだ。馴染みの看護婦さんたちは他の重病・重症患者の避難準備に追われている。ちょっぴり内気なベルクールは言葉をかけるタイミングを掴めない。
 無論、待っていても手助けの順番は回ってくるのだろうけど、それでは心許ないこと限りない。
「あ、あの……」
 聞こえているのかいないのか、看護婦たちはベルクールの存在に目もくれない。と、この場にあるはずもない冷気が不意にふわ〜っと流れ込んできた。身の毛のよだつ寒さ。火災警報がけたたましいにも関わらず、熱気ではなく冷気だった。
「あら? ミーナちゃん」気配を感じたので、視線を落とすとミーナがいた。
「シスケットさんとこのベルちゃん?」看護婦が一人気が付いた。
「あ、はい!」
「車椅子?」その声にベルクールは勢いよく頷く。「それ、もっていっていいよ。ごめんね。今、ちょっと人手が足りなくて。集中治療室が済んだら、すぐにそっちに行くから……」
 時間的に間に合うのだろうか? 瞬間、そんな疑念が頭をよぎる。
「防火シャッター、並び、防火扉は自動的に作動します。出来るだけお急ぎ……」
「でも、エレベーターは使用禁止。電源が落ちたらそのまま棺桶よ」
 ベルクールには既に若い看護婦の言葉は聞こえていなかった。車椅子を奪ってシスケットの待つ病室へ走り出す。飛び出ていったベルクールを見て、慌ててミーナも追いかけた。
「〜〜!」
 待って〜。とでも言いたいのだろうけど、語る言葉をもたない今は地団駄踏むか、歯がみするしかない。かなりの悔しさと焦燥感を感じながらミーナはベルクールの背から離れまいとする。
「お母さん!」ベルクールは必死の形相で病室に舞い戻った。