sharon

06 宿命の一点鐘……ほんの僅かな心の緩みが取り返しのつかぬ事態を招く。


 

 耳障りな甲高い足音がさほど広くない廊下に反響していた。シャリアンの白鳥の紋章をレリーフした鎧を身に付けた兵士が深夜の城内を歩いている。そして、突き当たりの一際目立つ扉の前に立った。兵士はちらりと衛兵の方を向いく。すると衛兵はおもむろに重い扉を開いた。 
「――遅かったな、待ちくたびれたぞ」 
 誰が見たとしても多少太り気味の男が部屋の奥のソファに身を横たえていた。 
「申し訳ございません。少々手間取ってしまっために」 
「言い訳などしなくてよろしい。そのよりもあの娘の居場所はどこなのだ。運命の糸は既に紡がれ変えようがないと言われようとも、やはり気になるのでな」 
 それは顔を見にくく歪ませ、この世のものとは思えないような不吉な笑みを浮かべて言った。兵士はその不細工な表情に嫌悪感をもよおしてか、一瞬、目を逸らした。この男の元に数年仕え、その醜悪な顔に慣れてきたとはいえ、やはりカエルを潰したような笑みには耐えられないようだった。欲望に身を任せるときの男の顔はひどく醜い。 
「……はっ」兵士は気を取り直して言葉をつなぐ。「あの娘は町の中央通りにある喫茶店“シャロン”に匿われています。私の調べたところによりますとシャロンは今日の正午まではあの場に確実にいるはずです。しかし、慌てる必要はありません。奴らはそれ以上はあの場にいられないのです。出てきたところを捕らえるように網を張ればよいのです。シャロンを連れていますから」 
「繁華街も黄泉様の闇に覆われる時が来たか。あの中で光はあまりに目立ちすぎる……。そういうことだな――」ピクサスは目玉を右に流して兵士の顔を一なでした。 
「そうです!」兵士は自信たっぷりに背筋を伸ばして男の目を見据えて宣言した。 
「よし、ならば本日、正午、正規軍一小隊をその喫茶店とやらに派遣し、シャロンを奪い返してこい。それまで、せいぜい楽しませておいてやるさ。残り少ない人生だからな」 

* 

 ふと気が付けば、朝の優しい日差しが喫茶店の中に差し込んでいた。慌ただしい一日が過ぎて新しい一日が始まろうとしている。と言って、清々しい気分も何もなくシャロンとジャンリュックが喫茶店まで上がってくるのを寝ずに待ち続けているだけだから、却って朝の日差しが恨めしいくらいなのだが。 
「遅いわね。夜が明けたわ」 
「ああ、夜は明けたな。だが、俺たちの戦いはまだ終わっちゃあいない。まだ、気は抜けない。ピクサスの野郎がシャロンを奪い返しに来るかもしれない。多分、俺たちの居場所を掴むことなどたったの二日では無理だろうがね。……黄泉だって座標は判っていたとしても、それを人間に具体的に伝えることはできないだろうさ。あれは精神だけが遊離してここに現れたようなものだ」 
「黄泉が現れたことがあるの?」ティアが引きつった表情を見せながら言った。 
「ああ、だが、それは大したことではない。奴は遺跡の封印から動けないのだから」 
「な? 何を呑気なことを言ってるの。シャロンがここにいることがばれちゃうじゃないの」 
 ティアは凄い形相をして、椅子を引っ繰り返して勢いよく立ち上がった。リョウはその様子に思わず後に飛び退きたくなる衝動に駆られたが何とか耐えた。それから、ティアに向かって左手をひらひらとさせて落ち着けと仕草で示した。 
「とうの昔にばれていると俺は思うけどね」リョウは夕べから五杯目の珈琲を飲み干した。「シャリアン城を脱出するときからおかしいと思わなかったか? 意表をついたとはいえ天下のシャリアン正規軍だぞ。出動が遅れたのは堕落していたせいだとしても、いいか、妙に簡単に行き過ぎたと思わないか。追っ手も何も来ない。泳がされているみたいだ」 
「そしたら、何でそんな平気でいられるのよ、リョウ! のんびり珈琲なんか飲んでる場合じゃないじゃないの。早くどこか場所を変えたほうがいい」 
「……」リョウはちらりと横目でティアの目を見た。それから無言で立ち上がると、カウンターの裏側に回って本日六杯目の珈琲の準備に取り掛かった。 
「な、何よ、私、間違ったことを言ってるの?」 
「――どこに逃げたって変わりやしないということさ」 
 背筋が冷たくなるのをティアは感じた。唇を噛んだその顔からは血の気が引いている。甘い考えを抱いていたのかもしれない。どこかに隠れてしまえば確実に逃げ切れるものと信じていた。ピクサスや黄泉に気づかれぬうちに封印に行けるものと信じて疑わなかったのだ。 
「どうした? ティア。顔色が悪いぞ」リョウはティアの正面のカウンターに寄りかかり、ひじをついた姿勢で右手に珈琲カップを持ち、不敵な笑みを浮かべた。「自分の命が心配になったのなら今すぐにこの町を出たほうがいい。アーメルの下町に潜んでいれば判らない」 
「冗談、言わないでよね、リョウ。これでも私もクレアの一族の末裔よ。全てを最後まで見届ける義務があるわ」ティアはキッとリョウを睨んだ。 
 ティアの台詞が終わるか終わらぬかの辺りで、リョウは突然、大声で笑いだした。手にした珈琲の液面がちゃぷちゃぷと音を立てて揺れて、波紋を造っている。 
「本気で俺がそんなことを言うと思ったのか? ティアだっていなくなったら困るんだ」 
「……だから、それが信じられないって言うのよ。何でそんな平然としてられるのよ」 
 急にリョウの顔がまじめになった。ティアの瞳をまじまじと見詰めて一言言った。 
「危険と紙一重。それが人生ってものだからさ。それを楽しめないようじゃあどうしようもない。そして、それが俺の本性なのさ」 
「何が俺の本性だと言ったのだ? リョウ」しわがれた独特の声だ。 
 振り向けばジャンリュックとシャロンが並んで地下室への扉の前に立っていた。お喋りに夢中になっていて扉の開く音に気が付かなかったらしい。リョウとしては少々ばつが悪い。 
「何だ、じいさん、シャロンとの話は終わったのか? で、シャロンはどうだって?」 
「ご覧の通りだ」 
 そう言うと、ジャンリュックは横を見て、シャロンを指した。同時に、シャロンは両手を前で合わせるとぺこりとお辞儀をした。リョウは肩透かしを食らった様子で、全く訳が判らないと言ったようにジャンリュックとシャロンの顔を交互に見比べていた。シャロンが平素のままで取り乱さずに戻ってくるとは考えていなかった。 
「シャロンはティアと奥の部屋に行って休むといい。ティア……、部屋の場所は知っているな?」 
 シャロンはジャンリュックに会いに行ったときよりも幾分元気そうになってティアのところに近付いていく。ティアは丸い椅子から立ち上がると優雅に手を差し伸べた。シャロンはその手を軽く握り、ティアは奥の部屋へと手を引いていった。この間、シャロンは微笑をたたえるだけで言葉は一言も発さなかった。 
 自己の内面で様々な思いが錯綜しているのだ。人には語ることのできない思い。運命、宿命と言った言葉で表される曖昧な流れに身を任せてしまうことへの反感。自分が自分であることの明確な証拠が消えてない。巨大な大河を流されてゆくだけで、自分の足跡を自分で残せない。そんなもどかしさをシャロンは感じていた。人が作り上げた既成の道ではなく、自分自身が築き上げなければならない未知の道を歩んでいきたい。けれども、本当はシャロン自身が自分の役割というものをもっともよく理解しているのかもしれない。ジャンリュックの心の優しさ、暖かさが身にしみた。自分は運命の流れに逆らえない。半分の諦めと半分の決意が今のシャロンを支えていた。 
 遠くから、リョウを切なげに見詰めるその瞳が全てを物語っていた。 
 扉が静かに閉じる。 
「じいさん、シャロンに一体、何を話したんだ?」 
 リョウは珈琲カップをカウンターの上に置くとその下から小さな椅子を取り出して座った。 
「ありのままを話しただけだ。――片翼の天使のことも、彼女の存在理由……その他諸々の事情やこれから先どんなことが起きようとしているのか。……が、そんなことを話さずともシャロン自身がもっともよく心得ていたのかもしれぬな。自らは女神の血を引くものではないと言っていても、心のどこかで理解していた。――そう、ただ、一つだけシャロンは知らず、わしも内緒にしてことがあった。シャロンは双翼の紋章をもっている。片翼ではない。そうだ、左の紋章は薄かったが確実にシャロンの背中に刻まれている。その意味が判るか、リョウ」 
「さあ、何なんだろうね」 
 さも興味なさそうにリョウは伸びをしながら言った。だが、その仕草と裏腹に瞳は輝いている。ジャンリュックは左眉をぴくぴくと吊り上げて、怪訝な目付きでリョウを見た。 
「……その捻くれた態度は早く直したほうがいい。リーフに嫌われるぞ」せき払いをする。「――双翼の天使のもう一人はわしらの身近にいる。シャロンの双翼に共鳴して、よりはっきりとしてきたようだ。――だが、それが誰なのかはわしにはまだ判らぬ。未だその反応は弱いのだ。或いは隠してきたのがシャロンの存在により隠しきれなくなったのかもしれぬがな……。わしは休むことにする。お前も早く寝ておけ。……それ程の時を経ずに、ピクサス、いや違うな。黄泉とその尖兵と一戦を交えることになる」 
 そう言い残すとジャンリュックはティアの言った扉を開け、その奥に消えた。 
(天使の双翼のあざをもつ少女か……。シャロン。その名の響きは美しく、統率の女神の名をもつ乙女……。統率ね。まるで、そう、現世のシャロンが俺たちを統べてゆくみたいだ。初めて見たときはもっと、行違った印象を受けたものだが。……そして、もう一人……) 
 思考の途中、リョウはカウンターに臥せったまま束の間の眠りに付いていた。 

* 

 太陽もかなり高く上り、町はそろそろ昼時を迎えていた。しかし、町中は死んだようでおおよそ昼とはとても思えない状況にあった。中央通りの商店街などには営業中の看板がかかった店などほとんどなかったし、例えあったとしても閑古鳥が鳴く始末だろう。異常な静寂が町を包み込んでいるのだ。太陽だけが無為に上空高く上っている。それは昼だというのに夜だった。 
 そんな中を騎士団の一小隊だけが現実の存在としてあった。わだちのあるくたびれた石畳の上を一糸の乱れもなく行進してゆく軍隊というのも、それはまた別の意味で気味が悪い。しかし、人口数十万のこの町がゴーストタウン並におどろおどろしい雰囲気をもっているほうが不気味だった。 
 百人程度の騎士団はガラスをふんだんに使った風変わりな建物の前に来るとぴたりと止まった。 
「ここに間違いないのだな? ……よし、この店を完全に包囲する。作戦の通りに展開せよ」 
「そんなものは必要ない。ここにはたったの五人しかいないのだから、数など無駄なだけだ」 
「何、俺のやり方に文句があるのか」 
「奴に数合わせの兵士など無駄なだけだね。軍団長さんはお昼寝中だったから知らないかもしれないが、奴は強い。……昼の一点鐘が鳴る。俺が先に中に入る。軍団長さんたちは俺が何も知らない奴らを連れてくるのをまっていな。そうすれば楽だろう?」 
 軍団長の視点から見れば一兵卒に過ぎない男が上役であるはずの自分に向かって命令してる。そのことでも十分すぎるくらい自尊心を傷つけられたというのに、その上、楽だろうとも言われる。この若造への怒りをどこへ向けたら良いのかという、しかめ面をして軍団長は若造の横顔を睨め付ける。当の若造はそんなことすらにも気が付かぬ素振りで、正午を知らせる一点鐘がシャリアン城下町に響き渡るのを待ち構えていた。 

 時を知らせる鐘の音はシャリアンが市制をしいたおおよそ百年前に始まった。と、市史には記されている。この鐘はシャリアン市街の南西にあるシャリアン正教会の町一高い尖塔から鳴り響く。今日も滞りなくその鐘は打ち鳴らされている。昼の一点鐘がシャリアン城下町に異常なまでに長い余韻を保ちながら響き渡った。黄泉復活の秒読みが始まる。 
「……昼か、あまり寝た気がしねぇな。――ま、明け方からこんなところでうたた寝をした程度じゃこんなもんが関の山かね……」 
 ブツブツと文句をたれながらリョウは寝覚めの珈琲の用意を始めた。通算七杯目。リョウは無類の珈琲好きだったからいくら飲んでも飽きがこないのだ。いや、どちらかといえば珈琲中毒と言ったほうがより事実に近いかもしれない。珈琲を飲んでいなければ気が済まない。 
 そこへ何食わぬ顔をしてフェイが現れた。打ち合わせ通りの時間だ。扉の鈴がカランカランと乾いた音を立てて客人の来訪をリョウに知らせる。 
「何だ、リョウ。また、珈琲を飲んでいるのか? いいかげんにしないと胃が変になるぞ」 
「ああ? 別に構わないさ。俺は珈琲なしじゃあ生きていけないんだ。珈琲が輸入禁止にでもなったら、死んじまうね」茶目っ気たっぷりにリョウは言う。 
「だろうな。お前なら剣では死なないだろう。剣では死なず、珈琲切れで死ぬか?」笑いながらフェイが言い、カウンター席のちょうどリョウの前辺りに座った。そして、カウンターに肘をついて、掌に顎をのせた。「情けないと言うか、リョウらしいというか。複雑だな」 
 言葉を言い終えるとフェイは無言でリョウに話し掛けた。 
「出掛けるか?」フェイが無言で頷く。「ティア、シャロン。そろそろ時間だ。ここも闇に沈む」 
 既にちょくちょく、黄泉は声だけで存在をアピールしていたが、闇に包まれることはなかった。いや、だからこそ黄泉はシャロンがいても手出しできずにいたともいえる。彼のテリトリー以外では邪な心をほとんどもたない人間には使い魔も使えない。どこにいるのかもはっきりとは確認できない。新月まであと一日と迫り、黄泉の魔力は急速に拡大している。 
「ジャンリュックのじいさんと親父さんはどうするんだ」 
「ここに残る。黄泉の用事があるのはシャロンだけさ。光……天使の翼……封印の鍵は彼女のみ。全ての要であるシャロンがいなければクレアの一族とは言え怖れるに足りないのさ」 
 リョウは指先で苛立たしげにカウンターの天板を叩いた。シャロンがいなければ自分たちにはほとんど何もできないことを知っていた。 
「リョウ、待った?」 
 シャロンの声が聞こえた。リョウは振り返り、シャロンを見つける。今朝から初めて聞く彼女の声は僅かながら元気を取り戻したようだ。シャロンとティアは二人並んでカウンターの横まで歩み出た。それを見ているとリョウのもっていたシャロンのイメージが変わる。 
(双翼の天使ね……。こう見るとティアとシャロンは雰囲気がどことなく似ているな――) 
「いや、大して待っていない。それよりも急いだほうがいい。昼の一点鐘も過ぎてしまったしな。これから明日の新月が上るまで比較級数的に黄泉の魔力は増大してゆく。光は暗闇に隠しておけない。意味は判るな、シャロン。――決着を付けるときまで奴の影響下にいるわけにはいかない。できるだけ短時間で、一気にけりを付ける。そうでなければ奴には勝てない……」 
 起き抜けの割にリョウはまともに喋っていた。 
「じゃあ、そんなごたくを聞いている時間はないわ。早急に町を出ましょう」 
 ティアはシャロンとフェイを促して、玄関口に向かう。一点鐘が鳴り終えたあと、町はしんとしている。ティアが先陣を切って扉を開け外に出た。誰もいない、塵もない。夏だというのに冷たい風が吹き抜ける。いや、淋しさ? 幾多の感情に訴えかける複雑な空気が町中に流れている。 
「! 馬鹿野郎、周囲を確認せずに外に出るな。何が張ってるか判らないんだぞ!」 
 思いがけぬティアの行動に驚いたのはリョウだった。慌てふためいてリョウはティアを追いかけ、シャロンはどうしたらいいかとひとしきり考えたあとリョウのあとに付いていった。 
「君は兵士学校で一体何を学んできたんだ。ここは……言わば敵陣のど真ん中だ。死ぬぞ」 
「とんだ、お笑い草だ。こんなにうまく事が運ぶとは思っていなかったよ」 
 唐突にフェイが大声を上げて笑いだした。店の奥のカウンターからゆっくりと歩みだした。何故か、余裕の笑みを浮かべ徐々に近付いてゆく。 
「フェイ?」リョウは喫茶店の方向振り向いてフェイの面を訝しげに睨み付けた。 
「もう、出てきてもいいぜ、団長殿。――どうだ、楽だっただろう?」フェイは楽しそうに言う。 
 フェイの言葉を切っ掛けにして、一体どこにそんなに隠れていたのかというほどの兵士が姿を現しリョウたちを取り囲んだ。こうなってしまっては珈琲切れでなければ死なないリョウも手出しはできない。最初から剣を構えていなければ何とかなったのかもしれないが、剣を鞘から引き抜くこともできぬほどに兵士たちが四方八方から狙っている。それはリョウ一人きりならばまだ何とかなったかもしれないが、彼の元には守るべき存在シャロンがいた。 
「……気にくわないが、確かに楽だった」いかつい男がリョウの背中で喋りだした。「これで俺は汚名返上、お前はピクサスに取り入られると言ったところか。おっと、動くなよお前ら。いくらその男が強くともシャロンとか言う女を守って逃げ切るのは不可能だろう」 
 所期の目的を果たしたというのに軍団長は不服そうに言った。何かが彼の意図していることとは異なっているようだ。確かにこれで軍団長は得体の知れぬ声の主に絞め殺されずに済むのだろうが、釈然としない。何故、シャロンにそこまで固執するのか理解できないのだ。 
「――お前、謀ったな」リョウは一言だけ突き刺すように言った。 
「何とでも言うがいいさ、リョウ。俺は自分の利益になるようにしか動かない。それが今まではクレアに従うこと……。これからはピクサス、黄泉様の元で動くこと。そう、判断しただけだ。己の信念に従い、何も間違ったことはしていない。そもそも、お前らの不注意さ」 
 そう言われてしまうとリョウには返す言葉がなかった。不用意であったことは否定できない。 
「ごめんなさい、リョウ。今日まで何事もなく無事に過ぎてきたから、私、浮かれてたみたい」 
「ティアが謝る必要はない。……悪いのがいるとしたらそれはフェイだけで十分だ」 
 残り時間は約一日。