どたばた大冒険

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03. sneak into trillian(潜入、トリリアン)

 一五一八年、年明け。積雪はほとんどないものの粉雪の舞う頃、第九代トリリアン総長・ヘクトラは執務室の暖炉前に置いてあるロッキングチェアにゆったりと腰掛けていた。リテール協会アリクシア派が協会を追放され、トリリアンと名乗るようになってから今年で四百十八年目。四代総長・グレンダがシメオンを陥れ、五代総長・ソノアが天使を召喚し自滅しかかって以来、よいことはあまりない。
「黒き翼の天使……。マリス……、レイヴン……、ジェット……。トリリアンはトコトンまで黒い翼の天使に縁があるのですね……」
 ヘクトラはトリリアン歴代総長による日誌のページをめくりつつ呟いた。
「手を貸さなかったのは迷夢だけですか……」
 その黒翼の天使はリテールでまだ生きているという。その天使がトリリアンにホンのひとときでも手を貸してくれるだけで形勢は逆転できる。そうしたら、トリリアンは今の協会になり代わるものとして、アリクシア教派を立ち上げる。
 トントン。何者かがドアをノックする音が聞こえた。この時間は誰とも約束した覚えがない。空隙に訪れた急な客に無粋さを感じつつもヘクトラはおおらかに返事をした。
「――どなたですか?」
「クローバーです。今、よろしいですか?」
「お入りなさい」ヘクトラは日誌をパタンと閉じるとサイドテーブルに置いた。
「失礼致します、総長」クローバーは丁寧に礼をした。
「――今日はこれと言ったことはないはずですが……?」
「ええ、そうですが、たまには一緒にお茶でもいかがかと思いまして」
 確かに、クローバーはトレイの上にティーポット、ティーカップを二つ、砂糖入れ、そして、お茶菓子を乗せていた。ひどく久しぶりのことだ。ヘクトラの記憶が正しければ、クローバーとともにお茶を飲むのは実に半年ぶりのことだった。
「そうですか……。では、お願いしますよ」
「はい」カタと音を立ててクローバーはトレイを机に置いた。
 それから、非常に手際よくお茶を淹れ、ヘクトラの正面にすっと差し出した。
 こうやって、久々にクローバーとお茶を飲むことになったのも何か今日という日に因縁めいたことがあるのかもしれない。ヘクトラは先ほどまで考えていたことをクローバーに話そうと考えた。真意までは話すつもりはまだない。けれど、クローバーをこれからの方策に巻き込んでいくためには必要だ。それとなく、話を進めていき、決して逃れられない深みへとクローバーを誘い込むのだ。
「……天使・迷夢とコンタクトをとってみましょう」
「――。迷夢と接触を図るのですか……?」
 クローバーは何とも言い難い畏怖の念を覚えていた。さらに、迷夢といえば十二の精霊核の伝承に名を残す天使の一人であり、なおかつ、トリリアンと協力関係のあったマリスを裏切った天使でもあった。そんなのと接触しようとはどういうことなのだろう。
「……迷夢と接触を図って……どうなさるおつもりですか……」
 努めて柔らかく喋ったつもりだったが、クローバーの口調は堅かった。
「……判りませんか?」ヘクトラは日誌をクローバーの眼前にかざした。
 歴代総長の日誌。そこに何が書かれているのかはクローバーも多少のことは知っていた。それはトリリアンの凋落が現実味を帯び始める最初の兆候が見えたとクローバーの感じている時代、ソノアの頃からつけられ始めたのだという。
 その中に、天使・迷夢とジェットの名が記されていた。
「――天使の力を使って……何をしようというのですか……?」クローバーは狼狽した。
「力を借りるとは言っていませんよ。ただ、ちょっかいを出さないでもらうようにお話をしたいだけです。様々のことに首をつっこみたい方のようですから、先に釘を刺しておこうと思います。わたしたちの邪魔をするなと……ね」
 しかし、そのお節介焼きの迷夢がトリリアンにはっきりとしてちょっかいを出さないうちに、こちら側から働きかけるということはヘクトラに何か思惑があるのだとクローバーは考えた。しかも、正しいと言い切れないようなことを。
「……はあ……」クローバーは曖昧な返事しかできなかった。
「では、ベリアルにその任務に就くように伝えてください。迷夢にわたしたちに口出しをしないようにと。……そうしなければ、大切なものを失うことになると……」
「――かしこまりました」
 クローバーは短い返事をすると、トレイを持って下がった。
 ヘクトラはいつから、そのようなことを考えるようになったのだろうか。近習として長いクローバーにさえよく判らなかった。無論、その兆候はあったのだろうから、それを見逃してしまったに違いない。クローバーは一抹の不安を抱えていた。
「……クローバーさん……、お兄さんはどうしてしまったのでしょう……?」
 フと声の聞こえた方を向くと、壁により掛かってアリクシアが佇んでいた。
「アリクシアさん、このようなところで何をなさっているのですか?」
「――お兄さんはどうしてあんなに天使のことを気にかけるようになったのでしょうか?」
 ベリアルはカチンと陶器が触れあう音が狭い廊下に異常なくらい響いたように感じた。アリクシアは知っている。それが判った瞬間、クローバーの背中に冷や汗が流れ落ちた。ヘクトラとアリクシアの間に亀裂が入る。そうなれば、二人の協調で辛うじて成り立っているトリリアンの崩壊は免れないだろう。
「深い意味はないと思いますよ」クローバーは作り笑いをした。
 クローバーは既にヘクトラの考えを読んでいた。外れるにこしたことはないが、ほぼ的中するだろう。気休めと判っていても、クローバーはそう言う他なかった。けれど、アリクシアの目ににもクローバーが本当のことを言っていないのは明らかだった。
「クローバーさんがそう仰ってもわたしには権力欲に取り憑かれているとしか思えません……。昔、協会に蔓延していた病と同じです。それは……さしたる体力のないわたしたちにとって、死に至る病と同義です……」
 淋しそうに語るアリクシアにクローバーは言葉もなかった。

 一五一九年。アルケミスタまで来ると天候は多少は落ち着いているようだった。けれど、デュレの心は全く落ち着かないでいた。意味不明なくらいに不安感に煽られ、胸が苦しい。一度、アクションを起こしてしまえば、こんな複雑な思いをしなくて済むのだろうが。
「……無理にでも断った方が……よかったかも……。でも、怖いし……」
 迷夢に無理矢理送り出されたのは間違いないが、逃げる気になれば逃げられたはずなのだ。あとの報復も怖いけれど、迷夢ならデュレが逃げたくらいでは揺るがない計画を立てているのに決まっている。絶対に、安全策を考えもう一人くらいトリリアンに何者かを紛れ込ませているはずだ。ならば、デュレがいなくとも何とかなるような気がする。
「うぅ〜」デュレは思わず呻いた。
 無宗教とは言わないが、宗教に深入りすることになりそうで怖い。いつもなら、予備知識を大量に仕入れて安心しようと試みるのだが、今回はそれも叶わなかった。知識の宝庫といわれるデュレも宗教……殊、トリリアンに関しては疎いのだ。しかも、追い打ちをかけるように協会はトリリアンに関する研究、書物の発行はさせないでいた。
「ジャンルーク学園長に頼み込む余裕があったらよかったかのになぁ……」
 デュレにしては珍しく弱音を吐いた。魑魅魍魎が跋扈するようなことはないと思うが、デュレにするとトリリアンは半ば妖怪のようなものだ。姿形のはっきりと判った脅威を相手にする方がいくらかましと思えるくらいに。
「……為せば成る。……でしょうか……ね……?」
 自信なさげにデュレは行動を始めた。
 デュレは礼拝堂へのドアを開けた。もはや、なるようになれで、半ばやけくそに突っ込んでいく。こんな役目は好奇心旺盛、行動力爆発のセレスにでも任せておけばいいのだ。そもそも迷夢は先にセレスと会ったとき、何故、セレスを使おうと思わなかったのだろう。ごたごた思うだけ無駄だとは思うのだが、ついつい考えてしまう。
「――どなたかいらっしゃいませんか?」
 広い礼拝堂にデュレの声だけがいんいんと響いた。精霊、エルフ、人間の協和を示した三角形が描かれた祭壇、ステンドグラス、レルシア派の協会十字を元にしたトリリアンの十字架。そのどれも答えてはくれない。流石のデュレも沈黙と静寂の同時攻撃に耐えられなくなり、不安に包まれ始めた。
「あの……どなたか、いらっしゃらないのですか?」
 と、その時、どこからともなくドアの開く音が聞こえた。
「どなたですか、礼拝堂で大声を出しているのは。あなたにとってここがどのような意味を持っているのか知りませんが、礼拝堂のような神聖とされる場所で大声を出すのはいかがなものかと思いますよ」
 穏やかな口調の中にも凛とした響きと、有無を言わせぬ強制力のようなものあった。虚勢などではなく、経験と自信に裏打ちされた聡明な閃きを持っていた。これがトリリアンなのだろうか。今までデュレが抱いてきたトリリアンのイメージと彼女のそれとが大きくかけ離れていた。
「――何か、用事があったのではないのですか? 黙っていては伝えられることも伝わりません。沈黙は美徳……沈黙は華などではなく、沈黙は誤解と申しましょうか。とにかく意思の疎通を図るためにはまず、話すことです」
「はい……」デュレはすっかり気圧されてしまい、小さな声で答えた。「……あのぅ、わたし、入信したいんです。どうか、お願いします」
「協会から改宗なさるのですか……? 何故……?」
 理由まで問われるとは予想していなかった。確かに今時期になったトリリアンに改宗するものは多くない。協会に反旗を翻したとはいえ、設立当初の崇高な理念を持っていた頃やそれなりにまともな活動をしていた頃なら改宗もあり得たのだろう。しかし、今、トリリアンと言えばただの宗教組織ではない。
「理由が明確に述べられないのなら、わたしたちはあなたをお迎えすることはできません」
 意外に堅く荘厳な空気が感じられた。リテール協会の分派でありながら崩れかけた信仰と教義。それがトリリアンのイメージだったのだが、幾分、それは改められた。協会との交戦ばかりが取り上げられるトリリアンも、かなりまとものようだ。
「いえ、その。わたしは……」
 デュレは明確な理由を持っていたわけではないからすっかり困り果てた。迷夢も入信の理由を考えるくらいの時間をくれても良かったのにと今更ながらにデュレは思った。
「正直な方ですね……。全て顔に出ていますよ……」
 女はクスリと微笑みながらデュレに言うと、一歩一歩近づこうとした。祭壇の方は暗く、デュレには女の様子がよく判らないが、どこか厳かで高潔な空気を感じた。違う。どこからどこまでも違う。女の雰囲気は粗野なイメージが払拭できないトリリアンとは大幅に異なっている。何故、このような人がここにいるんだろう。
「――ですが、いい目をしています。わたしと一緒に来なさい」
 従う他あるまい。これは唯一のチャンスだろう。逃せない。デュレはきゅっと拳を握りしめ、気が付かれないように、しかし力のこもった眼差しで女を見つめた。この気品のある女性を足がかりにして何とかトリリアンの内情を探れるように持ち込みたい。第一印象だけでは何とも言えないけれど、デュレはこの女性に好感を覚えていた。
「どこへ……?」おずおずとデュレは問いかけた。
「まずはわたしの部屋にご案内致します。そこで細かいことをお聴きしましょう」
 うっすらと見えるその口元はとても優しそうだった。
 どこか懐かしく、どこかで見たような、記憶の向こうに微かな色を放っていた。デュレは愛の告白を思い悩む少女のようにしばらく黙りこくった果てに口を開こうとした。上手く声が出るか不安になるくらいに緊張している。唇が無様なほど震えている。
「あ、あの、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「……ヒトに名を尋ねる時は自ら名乗るのが礼儀です」
「あ……。すみません。わたしはデュム・レ・ドゥーア。デュレと呼んでください」
 思い切り恐縮した様子で名乗った。
「――ベリアルです。以後、お見知りおきを。……暗いですね。少し明るくしましょうか」


 ライトニングスペル。ベリアルと名乗った女性は手のひらに小さな光球に浮かべていた。明るい。デュレもこの魔法を使えるが、ベリアルほど美しく洗練されたものを形作ることはできないでいた。だからこそ、デュレはウットリとした眼差しでそれを見つめていた。
「何か、珍しいものでもあったんですか?」
 ベリアルに問いかけられたことも気が付かずにデュレはベリアルの横顔を見つめていた。似ている。いや、あの人そのもの、生き写しのようだった。けれど、デュレには手を握った思い出も、肌を触れあったような暖かな思い出は一つもなかった。あの人は付かず離れず適当な距離を保って微笑んでいるだけ。近づけば仮面のような笑顔をそのままに遠ざかる。ずっと、ただそれだけの存在。いつの頃からか、互いに触れあうこともなくなり、そのまま、たった今まで思い出すことはなかった。
「あ、いえ、何でもありません。ただ……」
 デュレはうつむいてその先の言葉を呑んだ。そんなはずはない。第一、肌の色が違う。それにあの人はリテールにはもういないはずなのだ。デュレ一人を置いてデュレの知らないどこかに消えた。だから、ずっと会っていない。あの人が何をしているのか、生きているのか、死んでいるのかすらも全く不明の状況にあった。
 でも、本当にそうなのだろうか? たまに記憶の淵に上がってくると必ずその問いがつきまとった。知らない、判らない、行方知れずなのではなく、実は自分自身が記憶の深淵にあの人との出来事を封じ込めただけなのかもしれない。そんな気がするのだ。
「……『ただ』……どうかなさいましたか?」
 光球を伴いつつ、ベリアルは床板を微かに軋ませながら歩いた。デュレが何を言わんとし、何故、黙ってしまったのかベリアルは判るような気がした。
「――本当に何でもないです……」消え入りそうな声でデュレは言った。
「……」ベリアルもそれ以上追及することはよした。
 今、必要なことはデュレの素性を問いただすことではなく、自分をデュレに信用させること。そうすることによりベリアル自身の活動のリスクを分散させられる。無論、それが主たる目的ではなく、デュレを自分たちの活動に引き込むことで機動力をアップすることが目的だ。ベリアルとデュレの二人でトリリアンの内部から働きかけ、迷夢がエスメラルダ期成同盟を伴い外部から畳みかける。
 と、それぞれに思いを巡らせるうちにベリアルの部屋に着いた。
「さて、デュム・レ・ドゥーアさん。何故、我がトリリアンに入信を考えたのか、簡単でよろしいのでお話願えますか? わたしたちは誰彼構わず無制限に受け入れられるほど懐は広くないのです。しっかりとした考えをお持ちでないのなら、お引き取りを……」
 ベリアルの眼差しが痛いほどデュレに突き刺さった。迷夢の話と違う。特に何もしなくてもトリリアンは自分を受け入れてくれるはずではなかったのだろうか。それとも、はじめから迷夢にはめられたのだろうか。
「……顔色が悪いようですが……、お体の調子でも……?」
「い、いいえ。大丈夫です。――そんなことよりも聴いてください……」
 とんでもないことになったとデュレは内心で思った。けれど、何とかしなくてはならない。経緯はどうであれ、自分がトリリアンに潜入するのに適していると判断してくれた迷夢の期待にできる限り応えたい。
「――わたしは……」デュレは喋り始めた。
 過去の話をするのは嫌いだ。でも、仮に自分がトリリアンに本気で入信しようとするなら、あの人の話を避けては通れない。あの人とのことが自分が生きてきた時間の中に影を落とし続けたのは事実なのだから。それから逃れたくて、リテール協会の扉を叩き、リテール協会に所轄されるテレネンセス魔法学園に入学したのもまた事実なのだから。
「――わたしは……母を……失いました……」
 デュレの頬をつ〜っと涙が伝わり、膝の上で握った拳の上で弾け飛んだ。

 ベリアルが帰ったあと、迷夢はすぐに次の行動に移った。正直なところ、時間がない。次へ次へと駒を進め、できる限りのことを精一杯のパワーとスピードで処理をしていかなければ、来るべきトリリアンとの決戦の日に間に合わない。傍目にはアッケラカンとして、呑気そうにしてるように見える迷夢も作戦遂行中は特にその醸し出す雰囲気とは裏腹にかなり高度な計算をしていたりする。
 迷夢はエスメラルダ期成同盟の連中に発破をかけるために臨時司令部に赴いた。言うことは決まっている。理不尽な要求と思われても、期成同盟を追いつめていくしかない。こちら側から仕掛けなければ、戦にはならない。と言うような落ち着いた状況は既に通り越えて久しく、いつトリリアン側から仕掛けられてもおかしくない状況にある。むしろ、協会と軍事協定を結んでからトリリアンと小競り合いですんでるのが不思議なくらいなのに、期成同盟の連中は異様に呑気だ。それでは困るのだ。
 臨時司令部に分け入って、見知った面々の顔を見るなり迷夢は言った。
「さて、やるべきことは山積みなんだけど、キミたち、用意はできてる?」
 迷夢に対する返事は沈黙。呆気にとられたのか、唖然としたのか、どちらにしてもこういう反応が出てしまうのは好ましくない。迷夢の計算通りにことが進めば、二週間内外に大きな武力衝突が起きる。まだ、風雲級を告げるほど事態は切迫していないのだが、呑気にしていると間違いなく機を逸する。万が一にでもそうなってしまったら、冗談じゃない。
「……今まで何してたワケ? キミたち?」
 呆れ果ててものも言えない風に迷夢は大きなため息をついた。
「今まで何をしていたと言われても、まだ、昨日の今日ですよ? どんなに機動力のある組織でも、不可能です。せめてあと、一週間ほどお時間をいただかないと……」
 アズロは少々困惑気味に迷夢の顔色を見ていた。迷夢の指令は対トリリアン戦に向けた準備を進めること。つまりは、旧エスメラルダ領各地に散らばる期成同盟の軍勢をトリリアンの擁するガーディアンに対抗できうるように再編することだ。現状の期成同盟軍では拮抗はするだろうが、撃破することはできない。
「何があるか判んないから、早めにちゃんとして欲しいのよ。……そのためにわざわざ、戦力の分析をしたんだからさぁあ? あたしの善意を無駄にしないでもらえるかしら」
「しかし……」アズロは食い下がろうとした。
「あ〜、そんなに心配しなくてもいいから」手をヒラヒラ。「あたしだって、別に鬼ってことはないのよ? できるだけ、できることは前倒しにして片づけて欲しいの。ま、アズロ・ジュニアくんが一週間ってなら、ホントに一週間かかるんだろうけど、それ以上は一日たりとも待てないし、どうなったとしても責任は取らないからそこんとこよろしく」
 とは言うものの、迷夢は明らかにアズロを信じているようだった。
「一週間以内ですね? できることなら最初からそう仰ってください」
「できないから。というより、どんなことにも最高速度を維持して欲しいのよね」
「それで、期日を切らなかったのですか?」
「ホントは期日を切った方が緊張感が増していいのかもしれないけど。キミたち、そんな程度の連中じゃないわよねぇえ?」迷夢は腕を組んで流し目をしつつ、高飛車な態度で言い放った。「やるべきことは自分たちでどんどんやる。そんな人たちに期限なんていらないわ。あたしがごたごた言い出す前に全て終わっているはず。でしょ?」
 にこやかな表情できついことを平気で言う。アズロにしてみると、部下にやらせてできないこともないと思うが、迂闊に頷くことはできない。大きな口をきくと、後々、大変なことになることは目に見えている。
「そう……ですね……」アズロは控えめに答えた。
「ま、できなくてもやってもらうんだけどさ。で、いつでも、動けるようにしておくのよ」
「第一騎士団長にウィズ、第二騎士団長にサム。ウィズはともかく、サムはかなりの実戦経験を積んでいるようですから、期待できると思いますよ?」
「まあ、サムはね。別格よ。それはそれとして、実戦経験のない連中が多いから、しっかりと体制を整えておくのよ。……トリリアンのガーディアンは手強いから。予期しなところから突っ込まれて崩れたら期成同盟の名折れよ? その状況で仮に勝利できたとしても新生エスメラルダ王国に求心力はなくなるから……。そこんとこ、よろしく」
 迷夢はにやりとした。そして、言いたいことだけを言うとさっさといなくなった。やることは山積みよと言いつつも指示出しは全くしていかない。迷夢とはあらゆることを自身の判断に委ね行動させる。それだけに、迷夢に何かを命令されるとつらいが、それを乗り切ったあとには確実に成長している。そうやって、期成同盟の面々は成長してきた。とは言っても、迷夢が期成同盟に首を突っ込むようになった最近からなのだが……。
「――厳しいな……」アズロは呟く。
「それが迷夢ですし。その“頼み事”がクリアできない限り、自分たちのエスメラルダは永久に霞の向こう側ですよ。迷夢はそれを見越して言ってるんじゃないでしょうか。リテールに絶対確実にエスメラルダが復活できるように」
 ずっと口をつぐんだままでいたウィズが迷夢を弁護するかのように口を開いた。
「それはそうだが、限界がある。同盟の軍は寄せ集めの感が否めない。烏合の衆とまで言う気はないが、機動力は王国末期の正規軍よりも劣るだろうな」
「……じゃあ、機動力をアップしろと言うのが今度の迷夢の指令なのでは?」
「……まぁ、そうだろうな」アズロは言葉を切り、机上で手を組んだ上で改めてウィズを見やった。「しかし、お前はやけに迷夢さんの肩を持つような気がするが……?」
 アズロはそこでニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
「いやぁ、天使相手に何もないですよ。下手に手を出そうものなら、こっちがコテンパンです。そりゃぁ、迷夢はステキな女性だし、ホンの時々だけど、俺にちょっかいを出してくるんだ。“もしかして〜”とも期待したいけど、俺ごときにそこまでの興味を抱いてくれてるとは思えませんよ……」
 そこまで言ったところで、ウィズはハッとした。アズロがニタニタとしながら、“さもありなん”と言う様子で自分を眺めている。惚気ではないにしろ、盟主に向かってあるまじき態度を取ってしまった。
「気にしていないようで、気にしているんだな? まぁ、頑張れ。天使に見初められるのは滅多にはないことだ。上手くいけば、一気にお近づきかもしれないぞ?」そこで和やかな雰囲気は終わりになった。アズロは姿勢を正し、弛んだ表情を引き締めた。「だが、その前に今度の作戦を完璧にこなす必要がある。要はお前だ。そして、実戦経験も豊富な男が期成同盟に参加してくれた。……勝算はわたしたちにある」
 ウィズはアズロの一言を重く受け止めた。黙っていてもいつかトリリアンは滅びていくだろう。しかし、黙っていてはエスメラルダ王国の入り込む隙が全くなくなってしまう。そして、そこに君臨するのはリテール協会を母体とする宗教国家だろう。
「協会やトリリアンの思い通りにはさせませんよ。このリテールにもう一度、俺たちの国を作るんです。そうでなければ、期成同盟の存在意味がありませんから」
 きっぱりとウィズは言い放った。

 アリクシアは年の離れた妹だった。小さかった頃は自分の後ろをちょこちょこと付いて歩くかわいい妹。ヘクトラの行くところなら、どこへでも付いて歩いた。今、アリクシアは聡明な女性に成長し、ヘクトラの右腕として活躍している。それが時々鬱陶しくなることもあった。アリクシアの名を持つだけのことはあって、理想主義的なところまで似ていて、ヘクトラの行く手を阻もうとする。
 そして、今日も……。
「お兄さん、お兄さんの考えていることは間違っています。今こそ、正さなければ、取り返しのつかないことに。アリクシアさまの理想はどこに……!」
 滅多に感情を露わにしないアリクシアが感情をほとばしらせた。ヘクトラの考えはおかしい。力で力に対抗しようとしているのだ。いつの頃からかははっきりしないが、最近になってからはその傾向が顕著になっていた。トリリアンに力を。リテール協会に抗い、トリリアンをリテールに君臨させるつもりでいるのだろう。行動の多くを共にしてきたアリクシアには兄・ヘクトラの望むことはおおよその見当がつく。
「よくお聞きなさい、アリクシア。わたしたちはアリクシアさまの理想を体現するために行動しているのです。実現されてこその理想です。理想だけの理想には、紙くずほどの価値もありません。ですから、わたしたちはもっと力を持つべきなのです」
 ヘクトラは心酔したかのようなどこか虚ろな眼差しをして天井を仰いだ。
「紙くずだなんて……。力で奪い取ったものは力で奪い取られてしまいます、必ず」
 アリクシアは僅かに瞳を潤ませて、ヘクトラを見澄ました。
「そんなことはありません。わたしたちのしていることは正しいのです。手段がどのようであろうとも受け入れられます。わたしたちは善なる魂の拠り所なのですから」
「――いつから、お兄さんはそんな下らないことを考えるようになったんですかっ!」
「お黙りなさい」
 パァン。ヘクトラは感情を抑えきれずにアリクシアの頬を平手打ちした。
「きゃあっ!」アリクシアは予期せぬ出来事に構えることもできずに床に倒れ込んだ。
“あれ”が成功したら、協会にも、ちょこまかとうるさい期成同盟も黙らせることができるのだ。誰にも邪魔させたくはない。“あれ”さえ上手くいけば、不遇続きだったトリリアンに光明が差すこと、初代総長・アリクシアの思いが叶えられる。
「もうすぐ、初代総長、アリクシアさまの悲願が成就するのです。そのことをお前は判っていません。トリリアンが協会の一教派として認めされることができたら、わたしたちの前に新しい道が開けていくのです……」
 ヘクトラは助け起こそうともせずにアリクシアを見下ろした。
「――それは否定しないわ……」アリクシアはショックは隠し切れなかったが、可能な限り何でもない風を装って立ち上がった。「でも、もっと他に方法があるはずです。力に訴えようとしないで、穏和な方法で。アリクシアさまのようにもう一度対話から始められたら……。……大きすぎる力を持てば身を滅ぼすだけですっ。歴史が物語っています。初期協会も然り、……トリリアンも例外にはなり得ませんっ!」
 アリクシアは懇願の眼差しでヘクトラを見つめた。
 そして、何かを噛みしめるかのように視線をそらすと、アリクシアは踵を返して部屋を走り去った。耐えられない。アリクシアは涙を零し、その口を左手で覆った。
「アリクシア……!」
 クローバーは一歩踏みだしアリクシアを止めようとしたが、既にアリクシアの姿はなかった。自分はどうすべきなのだろう。クローバーは考える。トリリアンはここ数代の歴代総長の悲願実現を鮮烈にアピールするヘクトラに従っていくべきか、それとも、アリクシアが意見するように初代総長・アリクシアの理想を追いかけていくべきなのか。トリリアンは今、大きな岐路に立たされていることは確実だ。
「……アリクシアはしばらくそうっとしておきましょう。時が経てば機嫌を直して、いつものアリクシアに戻ります。そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ、クローバー」
 本当に大丈夫なのだろうか。クローバーは表情に出さないように気をつけつつも、はっきりとヘクトラの態度を怪訝に思った。昔の“優しい”ヘクトラだったなら、アリクシアを思って必ずフォローに走っただろう。けれど、今のヘクトラは椅子に座ったまま、憂いを露わにするだけで動きを見せようとはしない。
「……、ヘクトラ。……変わりましたね……」
 無意識のうちにクローバーがポツリと漏らしたそれをヘクトラは聞き咎めた。
「わたしは変わっていませんよ。むしろ変わったのは――アリクシアでしょう。昔から、夢見がちなところはありましたけど。――ですが……、アリクシアの考え方をもう一歩推し進めてみてもいいかもしれないですね。力で押し切る前に…」
 その思いが破られるまでに、幾ばくの月日も要しなかった。

文:篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト:晴嵐改