12の精霊核

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02. vanishing sum(いなくなったサム)

 サムがこの森に辿り着いてから数日が過ぎていた。いつものように森の木陰で佇んでここにいたら心が落ち着く。ずっとむかし、物心がついたときから住んでいるような錯覚に捕らわれたりもする。森はサムを受け入れてくれたのか、辺りは穏やかで何も起きない。時折、街道を旅人が歩いていくと、揺らいだりもするけれど、それだけ。特に敵意を抱いたものでも来ないかぎり静かなものだ。従って、退屈きわまりない日々をサムは送っていた。
「追っ手が来ないってのも詰まらんもんだな」
「へっへ。旦那にゃ、平和が似合わないってことですぜぇ」揉み手をしてへらへらしている。
「ちゃっきー……か。希代の英雄・イクシオンさまとあろうものが暇を持て余しているなんて、情けない話だな。――だが、ちょっともったいないような気がするよ」
「え〜と。何番目の彼女の話だい?」
「彼女の話じゃね〜」サムはちゃっきーの鼻面を容赦なく引っ張った。「この居心地のいい場所を離れるのがもったいないんだよ。こんなこと滅多にないんだぞ?」
「何が滅多にないのかしら」
 森の奥から上機嫌にジーゼが姿を現した。ここのところジーゼは初めてサムが森に来たときよりも数段明るくて楽しげな表情をしていた。淋しげな顔はあまり見せなくなっていた。それはサムが最初に気づいたジーゼの変化。ジーゼが明るく振る舞うと、森もさわさわと喜ぶのだ。
「今日は一段とセクシ〜。恋する乙女はどんどんどんどん、美しくなってゆくのれすね」
「あら、ちゃっきー。口がうまい」
 最初はこの変な物体・ちゃっきーにオドオドしていたけれど、だいぶん慣れたようだ。ジーゼは草むらに転がっているちゃっきーをそっと包み込むように持ち上げると、全くの唐突に視界の彼方に消え去れと言わんばかりにぶん投げた。
「お〜、ナイスピッチ。今日はどこまで飛んでったかな?」サムが言った。
「あ〜れ〜。覚えておけよ、このクソせーれーめ!」
 ドサッ。きゅっ。ちゃっきーの身体を何かが捕らえ、縛り上げてしまった。
「お? こんな蔦で縛るな〜。俺の自由を返せ〜」
「あんなのは放っておいても大丈夫だから」ジーゼの肩にポンと手を置いて抱き寄せる。
 と、ジーゼは満更でもない様子でサムに問った。流し目をして妖艶。ドライアードの本領発揮なのか、お調子者、クールで通 るサムの心もギュッと掴んで離さない。
「ところで、ねぇ、サム。滅多に“何”がないの?」
 サムはしばらくの間言葉に詰まった。下手をすると要らないことまで喋ってしまいそうなので、迂闊な返答は避けなければならない。普段のサムなら思案せずに喋るのだろうが……。
「つまりはここがのどかだってことさ」
「ふ〜ん?」ジーゼがきょとんとした顔で小首を傾げると、何だか色々と見透かされてしまっているような気がする。「お望みなら、暴風吹き荒れる嵐の一日も出来るのよ。試してみる?」
 ジーゼの澄んだ綺麗な瞳で見詰められると無意識のうちに「うん」答えてしまいそうだった。
「いや、それはちょっと遠慮させてもらうよ」
 本気でそう思った。ジーゼは冗談めかしているけれど、頼んだらどんなことになるか判らない。
「あ〜ら、残念! とっておきだったのに」
 何がどうとっておきなのか聞きたい気もしたがやめにした。恐らくそれはサムにとってはロクでもないことなのだろうし、聞くだけ野暮というものだ。サムはジーゼの碧の瞳をじっと見詰めた。緩やかに流れる時。英雄と呼ばれ各地で暴れ回っていたころにこんな安らぎなど欲しいと思ったことはなかった。それなのに……今はジーゼと二人いれば他には何も要らないような気がした。
「……イクシオン」視線がサムから離れて地面に落ちる。
「?」サムの表情が一瞬こわばった。だけれど、ジーゼは気付かずに言葉を繋いだ。
「イクシオンって知ってる? サム」サムの返答を待たずにジーゼは続ける。「嘗て神々に列せられた人。――人類最初の犯罪者……。偽名を使っているらしいけど……協会に追われているんだってね」ジーゼは幾らかの含みを持たせた言い方をした。
 サムはドキリとするも、ジーゼに狼狽した姿は見せられない。
「隠さなくてもいいんだよ。わたしは――誰にも言わない」
 ドライアードを甘く見ていたのはちゃっきーではなくて自分だったのかもしれない。森と森。そこらにポツンポツンと生える木々も独自の情報ネットワークみたいなものを持っている。だから、ジーゼがその気になれば、世界の反対側の何百年も昔のことまで判ってしまうのだ。局所的な魔法などよりもそれは恐ろしい兵器になりうるとサムは思った。
「――ジーゼに隠し事は出来ないのかもしれないな」
 サムは傍らに座ったジーゼに膝枕をしてもらった。遠い目をして抜けるような空を眺める。平和だけれど、その空の向こうにはサムを追ってくる小粋な天使がいるのかもしれない。それはジーゼに知られたからと言って困るほどのものではなかったが、教えたくもなかった。
「この森の記憶はわたしの記憶。だから、森の知っていることはわたしも知ってる」
「そうか……そうだよな」
 生まれたばかりの森の精霊とは言え、そこいらにいる下手な人間の年寄りよりも物知りで、情報通 だろう。恐らくジーゼくらいの年齢なら造作もなくサムのことを調べ上げられるはずだ。
「イクシオン。サムのホントの名前はイクシオンなんでしょ?」
 ここまで言われて、半ば予期していた問い掛けなのに、サムはギクリとした。協会に追われるようになってからひた隠しにしてきた本名でジーゼに呼ばれるなんて……。
「確かに、昔はそうだった。だがね、今はサムなんだ」
 以前のサムなら、調子に乗って自慢話を延々と続けるのだろうが、ジーゼの傍に来てからはそんな自己顕示欲など影を潜めてしまったようだった。
「サム……イクシオン……」ジーゼはサムの額にかかった髪を愛おしげにかき上げた。
「そんなしけた面しやがって。折角のびぼーが台なしだぜ?」
 サムはジーゼの顔を見上げて言った。そのままにしておいたらジーゼの瞳からは涙が溢れ出してきそうだった。すると、森も哀愁のある雰囲気を醸し出す。
「わたしはもう、あなたが何だった構わないの。ただ、いて欲しい。一人じゃ、淋しさに押し潰されしまうんじゃないかって、時々、思うの……」
 自分は聞き分けの悪い駄々っ子のようだとジーゼは思った。この森にずっとたったの一人だったときは森が話し相手。一人きりで歌っていても何も感じなかったのに。今、サムがいなくなって再びの孤独に戻ることは考えられないような気がしていた。木々や動物たちに囲まれていても、何かもの足りず、満たされない気持ちになりそうな予感がする。
「ねぇ、サム。絶対にどこにも行かないでよ……。一人にしないで」
 消え入りそうな囁き。じぃ〜っとジーゼはサムの瞳を見詰め、サムはそれを見詰め返した。
「ハハ! 俺はここが気に入ったんだ。どこにも行かないさ」どこか冷めていた。
(やつらが、ここを嗅ぎつけて来るまでは……ね)
 サムは穏やかな視線でジーゼを見詰めながら、そっと手でジーゼの頬を撫でた。頬を伝う仄かに暖かい涙がサムの腕に伝わり落ちた。森が哀しみに染まる。急に辺りは静まって、森とジーゼは一つなんだと思わずにはいられない情景だった。
「もう……お別れは要らないの――」
 ジーゼは何か昔のことを思い出したようだった。それにどんな意味があるのか当のジーゼにもよく判らない。ただ、いつか彼方の昔に今と似た出来事があったような感じがした。
(……別れは確実に来る)ジーゼがどんなに別れを望まなくともそれだけは絶対なのだ。けれども、サムはそんなことはおくびにも出さずにジーゼと接していた。もう既に誰よりもサムこそがこの場から離れたくなくなっていた。時の許すかぎりジーゼと一緒に……。
「く〜っ。く〜っ」
 それから、幾許かのときが流れて、夕暮れ。ジーゼは穏やかな寝息を立ててすっかりと寝入っていた。サムはふらふらと森を散歩して今さっき戻ってきたところだった。辺りに色んな小物が散乱していて、ちゃっきーが不気味にニヤニヤしているのが気に入らない。が、他には大して不審な点はないようだった。留守中に天使が暴れたわけではないようなのでホッと胸をなで下ろす。
「寝顔も可愛いじゃねぇか。いッつも俺の起きてる間は寝なかったくせに、今日はどうしたんだ。けど、……無防備な顔もいいな」サムはしゃがんでジーゼの顔をよく見ようとした。
「お? エロガッパ?」
「エロガッパってなぁ〜、てめぇ。そんなへんちくりんな言葉どこで覚えてきやがった!」
「ン? ああ、それは遥か極東の地の道端に生えていたころ……」
「いや、もういいわ……」長くなりそうなので、サムはさっさと切り上げた。
「クラッ! サム。おいらのお話最後まで聞かないと雷がちゅど〜ん。だよ?」
「誰が雷落とすんだぁ」サムはちゃっきーの唇を引っ張った。「てめぇか? てめぇか?」
「ふぇ、ふぇ。そんなことはありますまい。寝起きの悪〜いドライアードさまがぁ〜」
「何? どこ? 起きたの?」
 ちゃっきーの口を掴んだまま、サムは思わず辺りを見回した。
「ひょっと、ひょっと、口がしゃける……」けれども、サムは聞いちゃいない。
「ジーゼ?」
 いつものジーゼと雰囲気が違う。大人しそうには見えなくて、どこか弾けてしまっている。何故だか、背筋に寒けを感じて、無性に逃げ出したい衝動に駆られた。
「サァ〜ム! 朝から悪さが過ぎるわよ。って言うか、うるさい。ホラ、ご覧なさい。動物たちが怯えちゃって、森にきみょ〜な緊張感が漂っているロ? あ、あら?」口調が普段と違ってきた。
「起きたの? 朝? 今、もう、夜だろ?」怪訝に眉をひそめて問い返す。
「あ〜ら、変に細かいのね。サム」ホホホと笑いながら、右手でサムの腕を思いきりぶった。
「痛てて。おい、ちゃっきー。ちゃっきー! こら、ジーゼは叩くな」
「だあって。いいじゃん、別に……。こんなの痛くないっショ?」
 ジーゼは淋しさを紛らす小猫のようにサムにすり寄ってまとわりついた。
「……ちゃっきー。ジーゼにおかしなものを飲ませなかったか? 例えば……」
「例えば……?」ちゃっきーはとっても嬉しそうに促した。
「――」少し考える。「変なアルコールの類……」ひとつだけ心当たりがあった。
「へっへ」ぽんぽんと肩を叩く。「流石は旦那。お目が高い。この不肖・ちゃっきーがご用意いたしましたのは、超粗悪アルコール飲料・悪酔いにございまする」
「なんだそりゃ?」
 ちゃっきーはあるかないか判然としない小さな腕で、地面に転がったサムの水筒を指差した。
「これか? これを飲ませたのか?」ちゃっきーが首を縦に振るとサムはため息をついた。
「だぁって。『人間の飲むものを飲んでみたい』って、せーれーさまが」
「そんなもん、一本丸ごと飲ませたら並みの人間なら引っ繰り返ってそれっきりだぞ!」
「でも、でも〜、ジーゼちゃまは精霊さまだから大丈夫かな〜って」
「あ〜もう。ごちゃごちゃとうるさいのラよ、チミたち」
「精霊も酔っぱらうらしいが……。ちゃっきー、てめぇ、責任とれ!」
「い〜や! 責任はサムがとるのですよ。あっつ〜い、キスをかましてやればすっかりおねんね」
「逆だろ! オメメぱっちりの間違いじゃないのか!」
「いやねぇ、奥さま。この殿方、剥きになっちゃってお顔がまっ赤っか。恥ずかし〜」
「サムったら、見た目より純情なのよ? ハ・ジ・メ・テでもないくせしてさ!」
 きゃははと笑ってサムの顔を両手でむにゅ〜と挟む。日ごろはちゃっきーを怖がっているくせに、今日ばかりは妙に話が合って楽しげのようだった。
「……酒癖、悪かったんだな、ジーゼ」
 サムは既に諦めてしまって、ジーゼのなすまま、されるがまま。ジーゼは髪の毛を引っ張ったり、ちゃっきーを捕まえて投げつけて喜んでいる。どんなに愉快げでも“お淑やか”の代名詞みたいだったのに、はめが外れて感情を露にして上機嫌だった。
「なあ、ちゃっきー」
「う〜にゅ? 親密な関係築けてラッキー? 感謝。感謝?」
「少なくとも感謝はしてない! あとで佃煮にして食ってやる!」
「チーズケーキの佃煮は美味いのかね?」えっへんのポーズで得意げに言ってみたりする。
「不味かったら、天使どもに食わせてやるから安心しておけ」サムも負けじと戯れ言を言う。
「おんやぁ? 天使にこんな高尚なお味は判りますまい?」
「へっ! よく言うよ」悪態をつきつつも、眼は笑いちゃっきーを眺めていた。
「サムなんか、大嫌いなんだからね……」
 寝言? ついさっきまでどたどたと暴れ回っていたかと思うと、もうおねむのようだった。ジーゼはサムも左腕に抱きついてすやすやとおねんね。そこら辺で雑魚寝をしていたようだけど、無意識のうちにサムを捕まえて一安心したような、安らかな寝顔を見せていた。
「サァーム……。逃げちゃ……やぁ〜よ?」
 酔っ払いがようやく静まった深夜。この時間だと日暮れからより、夜明けへの時間の方が短いだろう。動物たちは夢の中。昆虫が森の下草の中で密やかに鳴いている。森の木々もささやかな夜風に揺られるだけで起きているものは数少ない。そんな頃合い。
「へ〜い、サム? 気付いているのかい?」
 ジーゼをやっとの思いで振りほどいて木の下でぼんやりと考え事をしていたサムの元に、ひょっこりとちゃっきーが現れた。
「残念ながらと言うべきなのかな……。天使が来てる。今度のやつは少しは骨がありそうだ」
 真顔だ。視線は完全に空を向き天使の姿を捜している。まだ、微かな気配しか感じられないから、近くにはいないのだろう。彼らのもつ凛然とした気配は独特だった。
「ほねぇ? 骨なんちぇみ〜んなもってるじぇ」
「その骨じゃね〜よ」ポカッと殴る。
(やつは俺を見つけている……。出るか……)
 ここ一年ばかりの逃亡と闘争の生活を続けてきて、天使の気配には敏感になった。向こうがサムをターゲットに定め瞬間、感じ取ることが出来る。いつしか、そんなことが当たり前になっていて、ちゃっきーと二人で荒んだ生活を送っていた。
「逃げるのかい?」
「そお言うことになるな……。気に入らんが。この森での争いは避ける約束だった」
「違うな、サム。てめぇが喧嘩しねぇって誓いだったゼ?」
「いっつも茶化すくせに。こんなときだけ真面目な受け答えだな。え? おい」
「ジーゼちゃんのお望みとあれば、例え火の中、水の中。クソ野郎のお守りもお任せ!」
「話がかんでないよ、ちゃっきー」
「サム?」眠い目を擦りながらジーゼはサムを捜した。「サム?」
 暗がりで母親を捜す不安感いっぱいの子供の声色のよう。酔いもまだ醒めきっていないのか、足取りもおぼつかないでふらふらとしていた。ジーゼは近くの木に寄りかかってサムを見付けた。
「ジーゼ? どうかしたのか? 具合でも悪いのか?」
「ううん……」ジーゼは首を大きく横に振って否定した。
 となれば、ジーゼも気が付いている。サムを追って来たらしい天使はその気配を隠すことなく近付いている。それは森にいるサムを炙り出そうと恣意的なのか、それとも無知なだけなのか。
「何か……。嫌な気配を感じたの。天使? 前……天使に追われてるとか何とか言っていたよね」
「ノンノン! ジーゼ。このクソ野郎にそんな高級なものが追ってくると思うのかい? あれはシメオンに置いてきた、え〜と、ひ〜、ふ〜、み〜、よ〜、いつ、む〜」指折り数えているようだけれど、とてもそうは見えない。「あ、七人目の彼女。あいつ、執念深くて、なぁ、サム?」
 ちゃっきーの戯言もここまで来ると腹が立つのを通り越して呆れてしまう。
「別に何人目の彼女でもいいだろう」冷めきった口調でサムは言う。
 ジーゼは黙って哀しい瞳をサムに向けていた。それは隠し事など通 じないように透き通っている。サムがちゃっきーの道化の相手をしないときは決まって、何か話したくないことの核心近くだった。ジーゼはいつも問い詰めようとはしなかった。自分にだって話したくないことの一つや二つは心当たりがあったから。でも、今日は黙っていられないかもしれない。
「ねぇ、サム。わたしは何人目の彼女なの?」
 そんなことを問われるとは夢にも思っていなかったサムは咳き込んでしまった。
「六人目の彼女」むせるサムに代ってちゃっきーが答える。
「だって、七人目はシメオンに置いてきたんでしょ?」
「うン? 七人目の彼女にはこれから会うんだ。初顔合わせってやつだね」
「これから、会う?」怪訝そうな瞳がサムの方を向いた。
「しゅ〜ねん深いから追っ掛けて来るんだよ。きゃぁ〜、サム〜っていいながらさ! 知らない、ジーゼ? だれて冴えない男に見えて、それでいて、モテモテにゃのさ! 手に手に武器持った物騒な天使の集団に。な、サム」バキッ。
「こりねぇやつだな」サムはちゃっきーの顔に鉄拳を喰らわせた。
「い〜え。それほどでも」
「はいはい……」夜の夜中に馬鹿話をしていると何だかアホらしくなってきた。
「サム……。天使たちが追い詰めてきても行かないで……。わたしと森があなたを……」
 ドライアードの口からそんな言葉が聞けるとはサムは夢にも思っていなかった。争いごとを何かと避けたがるドライアードはごく親しいものでさえも平穏のためには容赦なく切り捨てると聞いていた。風の噂が信用ならないのか、それともジーゼが別 格なのだろうか。
「判ったよ。判ったから、お休み」
「うん……」ジーゼはサムの言葉に従った。
(でも、サム……。きっと、あなたは行くのでしょうね――)

 ザ・ザ・ザザ……。それから間もなくして森が不穏にざわついた。交戦の意志をもった何者かが近付いている。それは明らかな敵意。エルフの森に向けられたものではないが、それはあるものを見付けていた。
「森を出ろ……」冷めた平坦な口調がサムの脳裏に響いた。
「――今出るところだ。気が長いのなら少し待ってろ」身支度をしながらサムは言う。
「そんなに長くは待っていられない。期限がある……」
「だったら、そこから仕掛けてきな。……どうなっても知らないけれどね」
「他のやつらと一緒にしないで欲しい」
「少なくとも礼儀は心得ているようだね」
 サムは最後に剣を背負うと、森の外へと歩みだした。街道に出ると、真一文字に切り取られた乳白色の空が見えた。そして、その一角から、天使がサムを見下ろしている。真っ白い装束を身に着け、手には弓を握っていた。
「当たり前だ。森の精霊は血なまぐさい争いを嫌う。……常識だ」抑揚のない声だった。
「まあ、常識だろうな」
「ドライアードのいる森に喧嘩をけしかけて帰ったやつはいない。大人しくいるようで苛烈な精霊。礼儀なきやつには容赦のない非礼で返す――」
「……ここのドライアードは心優しいがね……」
 ジーゼは眠っている。この間に起こさないようにそっと森を出なければならない。そうでなければサムの配慮が水の泡になってしまうのだ。天使が不躾に攻撃を仕掛けないことを願う。
「どんなものだろうね。猫っかぶりも多いから……」
「俺のジーゼに文句たれるな!」
「精霊は人間のものにはならない」
「そら、ならねぇだろうな。何せ、ジーゼはこの森そのものなんだから……」
 ポッ、ポツ、ポツ……。サムが久須那を押しとどめたまま、エルフの森から姿を消そうとしたとき、大粒の雨粒が空から零れ落ち始めた。微かにさざめく空気と、森の木々のどよめきがサムを引き止めようとしている。けれど、サムは戻らない。
「てめぇら、俺がこのままここにいるとどうなるか判ってんだろ? それでも止めるか?」
 サムは森に問った。少しだけ空気が緊張を孕む。しかし、すぐにいつものように梢がさわさわと揺れだして、哀しさと淋しさの色が混ざった後ろ髪の引かれるような雰囲気に変わった。
「……ありがとうな。――でも、巻き添えはつくらない」
「カッコつけちゃって、あ〜ん? そんな気障だとこーかいするぜ?」
 サムの足元にちゃっきーがちょこちょこと歩み寄ってきていた。
「後悔なんて……とうにしてるぜ。この森に来なきゃよかったな……。いっそのこと……」
「ジーゼも連れていくのかい?」
「何を寝ぼけたことを。ドライアードは森と一体なんだ。引きはがせない。だから、森は俺を引き止めたかったんだろ? 森の木々だってジーゼの笑顔が好きなんだ。俺がいたら、あいつは……」
「幸せになる? 不幸になる?」
「ドライアードに幸せがあるとしたら……」サムは物憂げな眼を空に向けた。「自分の精霊核のある森で静かに暮らすことだろうかね。俺とは正反対だ」ため息交じりにサムは言う。
「本気で惚れたな、サム」
「それに答える義務はねぇな」
 素っ気無くサムは答えた。森が切れる。巨木たちのこずえに隠れた灰色の空が顔を覗かせた。
「森が泣くと、雨が降るんだな……」
 土砂降りの雨を予感させる淋しげな空ががサムの心を湿らせていた。