12の精霊核

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12. a white feather(白い羽根)

(……わたしはまた同じ過ちを繰り返そうとしているのでしょうか……?)
 ポケットに手を突っ込んで、小さな青い宝石を握り締めながら男は思った。
(このままなら、あのジーゼとか言うドライアードは消えてしまう。この前のように協会に精霊を差し出して……リテールが荒んでゆくのを見ているだけでいいのですか……? ――荒廃した街と荒れ果てた心が残って満足なのですか……。あなたはそう言っていましたね)
 男は掌のサファイアブルーの欠けらを過去を思い出すかのような追憶の表情で眺めていた。
(シェイラルのように反旗を翻す時なのでしょうか?)
(……協会のなさんとすることを知れば、迷いから覚めると……)

「なあ、ジーゼ、ホントにどこまで行くつもりなんだ」
 お昼過ぎに、駆け落ちよろしくアルケミスタを後にして、半日が過ぎた。辺りは、すでに夕闇に呑まれようとしている。うろうろ彷徨うには危険な時刻が近づいてくる。
「判らない」申の問いに、ジーゼはいつもそう答えた。
 あてのない旅路だから、ジーゼが思い詰めれば思い詰めるほど申の心が痛んだ。
「そお言わないで、ね? もっと落ち着いて考えようぜ?」
「Yes! You're right!! ねぇん。おなか減ったし、ひっと休み〜しよ?」
「たまにはまともなこというんだ、ちゃっきー。それに、そんなに思い詰めるのは身体に良くないよ。そこに誰かがキャンプした跡があるから、そこで……」
 街道筋の野営の跡など珍しくもなかった。アルケミスタを越えて隣町・トゥイームまで三日も四日もかかるのに、小さな宿場町すらもない。だから、時折、思い出したかのようにポツンポツンと共同の野営場みたいになって焚き火の跡があったりした。
「時間が……ないの……」立ち止まって俯いた。(わたしには……)
 ドライアードのジーゼには申の感情が良く感じ取れていた。自分とはゆかりもなかったのに、アルケミスタの一件で巻き込んでしまった。それからずっと付いてきてくれる。
「申……。無理をしてわたしに付いてこなくてもいいんだよ」
「いいや、ここまで来たらそのサムってやつを一目見るまでは従わせていただきます。ともかく、俺の夕飯に付き合ってくれない? さっ、そこに座ってさ」
 申はジーゼの背中をポンと押して草むらに座らせた。それから、申はちょっちょっと枯れ枝を探してきて、焚き火跡を挟んでジーゼの向かい側に腰を下ろした。
「火の魔法が使えれば便利なんだけどね」傍らに置いた薬箱から申は火打ち石を取り出した。「雷とかだと全部消し飛んじゃうからね――」
「ねぇ〜。あれ〜?」ちゃっきーがいつものことだけど変な声を上げて申に寄ってきた。
「あ〜う〜、今、忙しいから後で」と声だけで答えて、申は火おこしに没頭する。
「何だとぉ〜! このクソガキがぁ。ついでに愛しのナイト様は一発で一面火の海だじぇぇ」
「だぁぁ、俺は火の魔法は使えないって言ってるでしょ! 何ならお前に雷落としてやるか?」
「ジーゼちゃまとどっちが強力?」あどけないポヤンとした表情をして見せた。
「それはもちろん、お……」
 言いかけて口を閉じた。ドライアードは森の加護の上に魔法を使う。だから、あまり使い慣れていなかったとしても破壊力だけは並の人間が繰り出すものより数段上なのかもしれない。
「お?」揚げ足取りにちゃっきーがニヤリ。
「い、いや、俺の方が……」焦って続けようとした。
「じゃぁ、It's show time!! やって見せてよぉ。さあさあ、お立ち会い。寄ってらっしゃい見てらっしゃい。ぜっしぇいの美女・ドライアードのジーゼちゃまとターバン巻き巻き魅せられた哀れなお坊ちゃま申ちゃんのまほ〜対決! はい〜両者見合ってぇ、Ready〜,go!」
「違うだろ?」申は呆れ顔でちゃっきーをぶっ叩いた。
「なにすんのさ〜! あたいの大切なの〜みそパ〜にするつもりぃ?」
「もとからだろ、もとから! 全く」
「ノ〜。おいらの頭脳はパーフェクトボディなのよ」
「つまり、脳みそまで筋肉でできてるんだな。お、よしっと、火がついたよ」
「と言うか、あれ〜、あそこ〜の白いの。久須那ちゃんの羽根……」
「『久須那ちゃん』って誰さ」申は箱からごそごそとと食べ物を取り出し始めた。
「うん? シメオンから追い掛けてきたサムの七人目の彼女。天使の久須那ちゃん」
「久須那……? どこ? どこにいるの?」
 ちゃっきーの言葉にいち早く反応したのはジーゼだった。申との間にいたちゃっきーを取っ捉まえてギュウッと絞り上げた。少しサムに近づいた。その気持ちがジーゼの心に明るく射し込んだ。
「うっう〜。ロープ、ロープ! そんなに絞っちゃ中身が出る〜」
「そんなこといいから、どこ? 早く言いなさい」ちゃっきーのことなんて全く考えていない。
「そ、そこ。申ちゃんの薬箱の影……」
「あ!」羽根を見つけると、ジーゼはポイッとちゃっきーを捨ててしまった。落っこちた先は申が必死になってつけたばかりの焚き火の中。
「そんな、ひどいぃいぃ」
「でも、別に死ぬわけじゃないんだろ?」申が落ち着き払った口調で釘を刺す。
「それはそうなんだけど……。許すまじ、この娘っ子め。復活したら、え〜っと……?」
「雷落とされるか……、蔦に縛られるか……、せいぜいそれが関の山……」
 炎に小枝をくべて飄々とした語り口。こう言う場合、ちゃっきーの話し相手を買って出たら、地の果てどころか地獄の業火にまで付き合わされそうだ。そんなときは素っ気無く軽く流して相手をしない。でも、ちょっとだけ可哀相だなと思うと、ちゃっきーは焼きチーズになっていた。
「蕩けて焦げるとあんまりうまくなさそうだね……」率直な感想が申から漏れた。
「……久須那の羽根。……! ここでサムと久須那がラブラブだったワケ?」
 ジーゼの視線がキッと申を睨んで、ついでに怒りの矛先まで申に向いたようだった。
「あの……俺にからまないでもらえます?」驚いて、思わず呟いた。
「うくっ、からんでません! 独り言です!」
 随分と大きな独り言もあったもんだと申は思ったけれど、あえて答えなかった。雷、風きり刃、蔦攻撃ときたら、さしもの申もちときつい。退魔師にとっても、ドライアードとなればかなりの大物。そもそも、退魔の対象になるはずはなかったけれど。
 申はジーゼが明後日の方向を向いたのをいいことに飯ごうを取り出してお湯を沸かし始めた。やはり、お食事には温かい飲み物が必要不可欠だ。すると、反応の返ってこなくなった申に業を煮やしたのか、心のどこかで淋しくなったのかジーゼは申に突っかかった。
「ちょっと、申。わたしを無視するつもりなの?」
「い?」あらぬ方向に話がずれて申は思わず変な声。「そ、そんなつもりは……」
「でも、返事してくれなかったじゃない」ずいっと詰め寄られた。
「い、今だって、独り言って言わなかった?」
「そんなこと、一言も言ってませんっ!」ジーゼは真面目に怒っているらしかった。
 こうなってしまっては申もため息をついて、ジーゼにされるがままなすがまま。普段、大人しいせいなのか、激しすぎて反論の余地なし。これで盾突いたらどうなるんだろうかと思わず身震いしていまいそうだ。でも、それだけジーゼはサムに御執心なんだと申に思わせた出来事だった。
 そして、急に静かになってジーゼはストンと地面に腰を下ろした。もともと、感情の起伏の激しいほうではないのに今度に限っては何故だかおっとりとはしていられない。
「ごめんなさい……。申」
「いや、別に、その特に気にはしていないから……」理由もないのにしどろもどろ。
「申は優しいんだね」ジーゼは面を上げて、申を見詰めるとにこりと微笑んだ。
「そ、そそそ、そんなことはぁ」申は真っ赤になって焚き火からはみ出した小枝を放り込んだ。
「You are cherry boy! やっぱ、まだまだ、うぶなのね!」
「な、何だ、お前。もう帰ってきたのか?」
「ふふふ〜。ぼんの〜がたくしゃんあるときは再生も早いのレス」
「誰に煩悩がたくさんあるって」半分ひっくり返った声で申は言った。
「おりょ〜?」きょとん。それから、これはしたりとばかりに言葉を繋いだ。「ひょっとして、申ちゃんったら煩悩の塊だったの〜。あらら、奥さま、どういたしましょう。この子ったら、うぶだとばっかり思っていたのに。実は〜」おててをお口に当てて、あららぁと驚きの目線を向ける。
「再生しても、お喋りなのは変わんないのね……」
「あれ〜? 申には言ってなかったっけ? おいらにゃ、お喋りこそが命。その他のことなんて二の次、三の次よぉ〜。だぁから、おいらのお喋りはとっても聞く価値ありなのだ♪」
「ど・の・へ・んが? 俺はお前が黙ってさえいてくれればいいんだよっ!」
 申はちゃっきーを捕まえて、しばらく考えてから、やっぱり目の届かないところまで投げた。
「え〜、また〜? みんなでワンパターンだじぇ。投げるしかのうがない〜」
「ワンパターンでもいいんだよ。静かになれば……ね!」
「しょんな〜。もっとあたいのお喋り聞いてぇぇぇ」
 ちゃっきーは大声の余韻を残してお空に輝く一番星になってしまった。でも、空は徐々に黒雲に覆い隠されつつあり、この分だと今夜は星空を拝めそうにはない。
「ジーゼ……。明日には雨になりそうだよ」
「……うん」
 そして、パチパチと枯れ木の燃える音だけが二人の間に響いていた。気を利かせたのか何なのか、珍しくちゃっきーが戻ってこない。ゆったりとほとんど止まってしまったかのようにのどかに流れてゆく時。それはジーゼと申が出会ってから初めて訪れた静かな時間だった。
 夜の帳が落ちて、焚き火だけが唯一の明かりになった。
「……パン、食べる?」喋ることを何も思いつかなくて、申はそう言うしかなかった。
 ジーゼはふるふると首を横に振った。
「天使の白い羽根……」ジーゼはそれを手にしてじっと見詰めていた。「サムの七人目の彼女?」
「しかし、ま、天使の羽根が落ちてるなんてことはザラにはないよ」
 それは事実、なかなか手にできるものではなかった。どうしてこんなところに落ちていたのか釈然としないものがあった。ジーゼは羽根の芯をもってくるくると回してみた。辺りの草木に聞いてみれば、サムと久須那と天使たちとの小競り合いがあったらしい。けど、それ以上のことは判らなかった。空を飛んでしまえば、草木の“目撃情報は”急にはっきりしなくなってしまうのだ。
「たった一つだけど、手がかりを見付けたと思ったのに……」
 結局、二人がどこに行ったのかはまるっきり判らなかった。
「どうする? ジーゼ」羽根を見詰めていじり回すだけのジーゼに申は問い掛けた。
「どうしよう、申……」
「俺に聞くなよ。答えようがない……」
「そんなこと、言わないでよ。心細くなっちゃうから」膝を抱えて、そこに顔を埋めてしまった。
 曇天模様の空はいよいよ泣き出しそうな雰囲気を醸し出していた。森の精霊・ジーゼの焦りと切なさを反映しているかのよう。泣き出したいジーゼの気持ち。それがそのままの空模様。
「じゃあ、森に帰ってしばらくそこで落ち着こうか?」
 方々を転々とするよりは一ヶ所に落ち着いていたほうが相手も見付け易いだろうと思う。でも、そう言うとジーゼは必ず憤慨してやり返してきた。
「それは……いやなの」
「……判るけど……さ」
 判るけど、キミは人ほど自由じゃないんだ。とはいつも言えないのだった。ジーゼがサムを追いかける気持ちが判っていたから。申自身が母を求めてここリテールに来たのと何ら変わりない。
「だったら、申。何も言わないで、何も言わないでわたしの思うようにさせて」
 ジーゼの切実な思いが申の心に直接響いて、切なさとやるせなさを倍増させる。捜しても捜しても見つからないものを追い求める辛さ。でも、始めてしまったからやめられない。ひょっとしたらジーゼにもそんな気持ちが芽生えているのかもしれない。
「……帰れなくなるぞ」それは脅しでも何でもなかった。
「!」その一言にジーゼの顔が青ざめた。
 ジーゼがドライアードであるかぎり森に帰らなくてはならない。申の放った一言はずっと考えないようにしていたことだった。“カエレナイ”その言葉はジーゼにとって恐怖にほかならなかった。けれど、捕まえかけたサムとの絆が切れてしまうことの方が恐ろしかった。
 と、ジーゼの鼻先に水滴がぴちょんと一滴落ちてきた。泣き出した。
(帰ってきて……)
 ジーゼは雨滴が顔を打つのもかまわずに天空を仰ぎ見た。森が呼んでる。そんな気持ちが、いや、絶対確実に森がジーゼの身を案じて、彼女を求めていた。エルフの森があそこにできてこんなことは一度もなかった。主が旅に出てしまうなんて。
(ごめんなさい……。あともうちょっとだけでいいから時間を……)
 その願いは天に聞き入れてもらえるのだろうか? とてつもない不安感がジーゼを襲っていた。
「か〜、思ったより早かったなぁ。テントだそ、テント」
 額に手をかざして空を見上げると、申はテントを引っ張り出した。普段、あまり使わないのでくっきりと折り畳まれた跡が残っている。けれど、その布を開いて柱を入れて、きちんと組み立ててゆくと結構な大きさの三角形のテントができ上がった。
「ジーゼ、入んなよ。俺は外でいいから」
「ううん」ジーゼは瞳を閉じて首を横に振った。「ダメです。申が入らないならわたしも入りません。申が病気にでもなったらわたしが困るんですからね!」
 申は何だか困ったちゃんの相手をしているような気がしてどうにもならなかった。
「いっ。それはちょっとご勘弁願いたいのですけどぉ。うぅ。一人でカッパでも着て雨に打たれているほうが……。気持ちは、わぁ!」
「ごちゃごちゃ言わない! 男の子でしょ!」先にテントに潜り込んだジーゼが申の腕を引っ張った。「それとも……わたしとじゃ眠れないとでも言うつもり、ぼーや?」
 ジーゼは冗談半分に言ったつもりだったけど、申は真に受けたのか目を白黒させた。
「やぁ〜ねぇ、申。本気にした? ふふっ」
「本気にする訳ないだろ。でも、やっぱり、こんな狭いところに女の人と二人きりだなんて」
「お〜、折角の千載一遇の大チャンスにゃのにぃ。この子ったら! では、ここは拙者にお任せ。さぁ〜て、ジーゼちゃまぁ。二人ッきりでい〜ことし……」
「ません!」ジーゼはテントに入ろうとした平手で打ち落として、入り口を閉じてしまった。
「畜生! おいらのサラマンダーよりもあっつ〜い思いを無下にするなんて」と喚いてみても、すでに聞く人は誰もいない。「ちぇっ! 今宵は星も見えないのに独りぼっち。つまんないの」
 ちゃっきーは道端に転がった小石をぽ〜んと蹴ったつもりが大きすぎて足をくじいた。
「〜〜。いいもん、いいもん。はぁ」ため息交じり。「ジーゼちゃまぁも申ちゃまぁもかまってくんないなら、おいら……サムっちんとこに帰っちゃおうかな。つまんないし……」

 結局、申は眠れなかった。隣で可愛い女の子が眠っているかと思うと、精神が高揚してどうにもならない。その上に、緊張のあまりに脈が速くなって、鼓動が耳から聞こえる始末。
(なさけない……。特に何がどうという話でもないのに……)
 と、狭苦しい空間でうたた寝さえもままならずに夜だけが更けていく。雨音と風の吹き荒れる音が時の流れを示し、他には何もなかった。ジーゼが静かに眠っている以外は。
(男と一緒なのに、無防備だよね……。俺ってそんなに信用されているの……?)
 それから申の意識はしばらく途切れていた。微睡んでいたらしい。でも、まだ真夜中なのには変わりがなく、相変わらず雨が降っているようだった。
(……?)微睡みから覚めて徐々に意識がはっきりしてくると何か雰囲気が違っていた。
 申はドキリとしてガバッと半身を起こした。耳を澄ませてみても、誰かが外に来た気配はない。ハンターがジーゼを狩りに来たのではないようだった。自分の杞憂だろうか。申は額の汗をぬぐった。ただの思い過ごし。いや、そんなはずはなかった。
 とすると……。申は傍らのジーゼを見やった。
「はぁ、はぁ」ジーゼの苦しそうな息遣いが申の耳に届いた。
「ジーゼ、ジーゼ? どうした? 気分でも悪いのかい?」
「しん? 何でもないよ? 何でもないから、朝まで……」熱に浮かされたようなトロンとした声でまるで蜃気楼と会話しているみたいにとらえ所がなかった。
「……ジーゼ?」
「大丈夫だから、放っておいて。朝には直るから……」
「朝には直るからって言っても。そんな苦しそうじゃ……」
 申は無意識のうちにジーゼの額に手を伸ばしていた。
「さ、触らないで」ジーゼは申の手を払いのけた。
「――ジーゼ。森を出てから何日目なんだ?」
「……三日――」
 “まだ”なのか“もう”なのか申にはよく判らない。でも、もう帰らなければダメなんだろうと申は思った。たったのさっきまで静かな寝息を立てていて、そのちょっと前まではちゃっきーとみんなで談笑していたはずなのに。
「ジーゼ、……森に帰ろう」申の言うべき言葉はそれしかなかった。
「だ、だめ。サムを見付けてお話するまでは帰らない」寝返ったジーゼの哀願する眼差しが申の心を揺さぶる。「それにシェイラル司祭の約束も果たさないと……」
「でも、このままではサムを見付ける前にジーゼがくたばっちまうぜ」
 涙の溜まる瞳を見せてジーゼはふるふると首を横に振った。
「あ。申のお薬でもどうにかならないの……?」
「万能薬じゃないんだ。無理だよ。一度森に戻って、それから改めて……」
「それじゃ、間に合わない。それじゃ、遅いのよ」
「そんなことを言われても……」申は言葉に詰まった。
「テ、テレネンセスがジングリッドの天使兵団に襲われるの。時間なんてもうないよ。わたしの森がそう言ってるの。天使に太刀打ちできる人なんてサムしかいないよ……」
「違うと思う……。キミの森はキミのことでいっぱいでそれどころじゃないと思うよ」
「!」見透かされている。ぼ〜っとしているジーゼの頭でもそれくらいは理解できた。
「ジーゼが死んだら『サム』も悲しむと思うけどな……」
「……サム、――会いたい、会いたい。……まだ、消えたくない。申……申――」
 か細い声と涙に潤んだ瞳。二進も三進も行かなくて不安と焦りに揺れるジーゼの気持ち。熱に浮かされたように繰り返される同じ言葉が申の胸に刺さる。どうするのがベストなのか。
「……トゥイームはまだ遠いし」申は困ったようにきょろきょろとした。「行けたとしてもそれっきりになるかも……。としたら、アルケミスタに戻ろう? 少しでも森に近いほうが」
「! いや、いやっ! 後戻りは……」
「今からなら、何とか夜明け前に、闇に紛れてあの宿に行けるはず……」
 申はもはやジーゼの言葉を聞いていなかった。雨は止まない。この間、パラパラと降っていたのとは明らかに様相が異なっていた。それに妖魔との長丁場には天候に左右されることもあったから、申は割と気象学(?)には長けているほうだった。空が泣いてる? 理性で否定しても、まるで本当にジーゼを呼んで泣いているかのように思えてならない。
「もう、少しだけ時間を……。わたしに時を……。――申? 申? サムに会わせて……。一度だけでいいの。夢じゃなくて……、幻じゃなくて……本物のサムに会いたい」
「判ったよ、ジーゼ」
 ジーゼの目線はうつろに焦点を結んでいなかった。そんなジーゼの様子を見るとこうなることは判っていたはずなのにどうしてこんなところまでと申は思った。と、同時に一途なジーゼを放って天使の久須那と言うのと逃避行しているというサムという男が腹立たしくなる。絶対にそいつを問いたださねば気が済まない。
 申はジーゼを暖かい毛布に包んで、カッパを被せた。
 それから、テントを畳んで、ジーゼの持ち物を薬箱に無理やりねじ込んだ。行こう。と言うよりは行くしかない。こんな町外れでただじっとしているのはばかげていた。薬箱を背負って、ジーゼを抱っこして、申は走り始めた。
「しん? 申。無理しないで。あなたは……」
「今更、関係ないだなんて言わせない。何がどうでもサムを見つけ出す」
 可愛い娘をこんなひどい目に遭わせていいはずがない。非道なことをして、その男が許されていいはずがない。申は全てにかえてもサムを捜し出す決意をしていた。そして、謝罪させる。せめてそれくらいのことがないと、色々となげうっただろうジーゼが浮かばれない。
 パシャッパシャッと水飛沫を上げて申は走っていた。一人気ままに旅をしていたころの余裕など微塵もなく、ただ、焦燥感だけが永遠に溶けない雪のように降り積もっていく。
(どうしたらいいんだろう……?)
 アルケミスタの宿に行ったからと言って、ジーゼがよくなるあてがある訳ではなかった。とにかく、雨が降って肌寒いところより屋根があり暖かいところにジーゼを寝かせたい。生命力の弱った精霊の回復の仕方なんか知るはずもなかったし、ついでに女の子を抱っこするのも初めてだった。
 草原は果てしなく広く、アルケミスタは世界の最果てにあるかのように感じられた。雷鳴が響き、風が草を引きちぎらんばかりの勢いで吹き荒れる。雨が街道を黒く染め、ぬかるみを作り出す。遥か遠いのはどこだっただろう? 自分は何のために走り続けているのか? 目的を見失いつつあるころアルケミスタの灯が見えた。
 申は疲れた足に鞭打って走った。一刻も早く、ジーゼを柔らかいベッドの上に。
 ドンドン、ドン。まだ夜も明けきらぬ時刻、申は昨日まで世話になった宿の扉を激しくノックしていた。一刻だって惜しい、けれど、歩けもしないジーゼを連れたままエルフの森まで、少なくともテレネンセスまで行くのは不可能に近かった。
「こんなに朝早く、どなたですかな……?」
 扉が開いて、サッとその向こうから暖かい色の光と声が漏れてきた。
「あなたたちは……」ランプ片手のつるっぱげのじいさんが驚いた顔をして申を見詰めていた。
 瞬間、雷光で辺りが照らされたかと思うと十数秒と間を空けずに雷鳴が轟いた。夜半を過ぎ、明け方が近づくにつれて風雨が激しさを増す。雨滴は強烈に屋根を打ち付け、表通りは半ば水路と化していた。申は濡れ鼠、傍からみると悲哀な旅人たち。それは昼間に見た二人の姿とはあまりにかけ離れていて可哀相すぎた。
「と、とにかく、中へ……」
「ありがとうございます」申はジーゼを抱っこしたまま頭を下げた。
「いえ、お気になさらずに……。それより、早く奥の部屋に行きましょう。……今の騒ぎで誰かが起きてこないとも限りませんし……」
 主人は“宿”ではなく、棟続きの自分の部屋に申たちを案内したようだった。気絶して引っ張り込まれ、窓から落ちた申には覚えはないが、宿と自宅が両翼に分かれるように配置されているらしい。そして、しばらくの沈黙の後に主人は口を開いた。
「何があったのですか……?」
「ジーゼが……ドライアードさまが……」
 申の言葉にじいさんは気がかりそうにジーゼを眺めた。けれど、彼に判ることもまたジーゼがひどく具合悪そうだということだけ。それの原因などよく考えられず、話に聞くドライアードの一般論から予想してみるくらいに留まった。
「森から離れすぎたせい――でしょうか?」
 じいさんは二つ三つ扉を開けて進んでゆき、奥の部屋へと促した。どうやら、そこは客人用の寝室らしかった。じいさんは組み立て式のベッドを手早く組み立てて、その上に布団を敷いた。
「……俺もこんなケースは初めてで」
 退魔師は魔物に詳しいはずだろうと言われても、仕事柄詳しいのはどうしても人に仇なすものばかり。精霊や人にかかわりを持たない化け物にはどうしても疎くなってしまう。それに知っているのは“祓い方”であって“治し方”ではなかった。
「悔しいけど、俺には判らない。だから、戻ってきたんだ」
「そう――ですか……」答えようがなかった。「……今、身体を拭くものと何か暖かいものを持ってきますから、身体を拭いて、お嬢さんを寝かせてあげて、あなたはも身体を休めたほうが」
「ええ、お言葉に甘えてそうさせていただこうかと」
 でも、ゆっくりとはしていられない。のんびりとお茶をすすってのほほんと構えている場合ではない。申はジーゼのカッパを脱がせて、身体が濡れていないことを確認するとベッドにそっと寝かせた。毛布を掛けてあげて一安心すると、申は向き直った。
「ここら辺……アルケミスタで精霊のことに通じている人は……」
「……協会の牧師さまだけです」事の顛末を知ってるだけに遠慮がちにじいさんは言った。
 その言葉に申は困惑を覚えていた。少なくとも、彼らは近寄ってはならない者たちだった。寄れば、確実に確実にトラブルに巻き込まれるのではと危惧してしまう。でも、うなされるジーゼを見るとそうは行かない。テレネンセスまで一日、そこからエルフの森までおそらくまた一日くらい。それまでジーゼの生命力は持つのだろうか。
「サム……、会いたい。会いたいよ……」
「ジーゼ? 目が覚めたの……?」
「申……そんな心配そうな顔をしないで。わたしが勝手に……」
 ジーゼにそう言われ、儚い瞳を見せられると申は切なくなってきた。
「あの牧師に助けを乞うしかない……か」何故、精霊についてもっと詳しく勉強しなかったのかと悔やまれた。申はギリリと歯を噛みしめて言った。「……じいさん。しばらく、ジーゼを頼む」
「……」じいさんは申の真剣な眼差しに感銘を受けたようだった。「判りました」
 それを確認すると申は飛び出して行こうとして、突如思い出したかのようにきびすを返して薬箱に押し込んだ白い羽根を取り出した。目茶苦茶に押し込んだのに羽根は折れていなかった。新たな衝撃を受けつつも、申は今度こそ飛び出していった。
「し、申! お願い、一人にしないで」
 ジーゼのか細い声に後ろ髪を引かれつつ、申は再び雨の街を走っていた。もう、頼れるのは協会しかなかった。精霊、魔術、そう言った学問に通じているのは協会ただ一つ。ここではおそらくあのいけ好かない牧師に尋ねるしかないのだと思う。気に入らない。少なくとも、今の自分たちの敵みたいな人間に助けを乞わねばならないなど申のプライドが許さなかった。けれど、ジーゼが消えてしまうことはそれ云々以前の問題だった。
「協会……アルケミスタ支部、アルケミスタ教会……」
 申は高々と掲げられた協会十字を見上げた。権力の象徴。リテールを支配するエスメラルダ王国でさえ凌ぐと言われる影響力と兵力。それを盾に繰り広げられる精霊狩り。裏側が見えないだけに協会とはある意味不気味な存在だった。
「――わたしの教会に何か用事があるのですか? 少年」聞き覚えのある声が背後から届いた。
「お、お前は……」言葉が途切れた。
「……お前とはひどい言い草ですね。しかし、外にいては雨に濡れます。教会に入りなさい。――そんな怖い顔をしなくてもいいですよ。とって食おうというのはないのですから。それとも」比較的柔和だった顔が厳しさに豹変した。「精霊ハンターのえじきになりますか?」
「……俺を脅迫するつもりなのかい?」
「違います」静かに牧師は言った。「とにかく、わたしとあなたが話しているところを見つかると厄介です。中へ……」
 申はしぶしぶ牧師にしたがった。牧師に下心がないとも限らないが、この前会ったときにはなかった『信じてもいいかな』と言う雰囲気を漂わせていた。牧師は教会に申を導き入れると、即座に扉を閉めた。時間が時間なだけに礼拝堂には人一人いない。そもそも、何故、牧師は申に悟られず背後に回れたのか。何故、雨の中を外にいたのか。
「そんなにわたしが信用ならないですか?」
「いや、そんなことより、お前は……牧師さまはまるで俺を、俺を待っていたみたいに」
「待ってはいませんよ。二階から外を見ていたら走ってくるあなたが見えた。それだけです」
「それだけ?」腑に落ちない。
「それだけです。そして、聞きたいことはそんなことではないはずです」
 話を絶えず先回りされているような奇妙な感覚があった。前もって定められたタイムスケジュールに沿って全てが滞りなく進んでいくような不思議な思い。
「そっ、そう。ジーゼの体調がひどく悪くて……。俺、精霊の病気や生活習慣なんて全然知らないから、どうしたらいいのか判らなくって……」
 きっと、そう言ってくるのだろう。牧師は最初から判っていたと言うような落ち着いた口調で申のこんがらかった質問に答えた。
「病気ではありません……。ですから、治す術はありません。森に帰る以外は。しかし、帰るだけの時間もない」いつかのように冷たく言い放った。「しかし……」
 牧師はポケットからサファイアブルーのほぼ八面体の形をした小さな欠けらを取り出した。キラキラとまるで水面が凪いでいるかのような煌めきを宿した欠けら。その輝きは宝石の煌めきよりも遥かに暖かく申の目には映っていた。
「ま、まさ、か。その、それは……」申はそれを指さして固まってしまった。
「……そうです。ウンディーネの精霊核……の一部分です」
 牧師の掌に乗った小さなそれは仄かな煌めきを宿したクリスタルの様なものだった。それは欠けらだったから掌サイズだったけれど、実物の精霊核はとかく巨大な代物だった。と話には聞くけれど、実物を見たものなど稀にしかいないので詳細を知るものはいないも同然だった。
「でも、どうして、何故、そんなものがここに?」
 牧師は瞳を閉じて静かに首を横に振ると、申の手を取ってその欠けらを握らせた。
「や、柔らかいような……不思議な感触が……?」ハッとしたように申は牧師を見た。
「それは水晶のようでいて水晶ではないですからね。宝石ではなく……いずれにせよ不思議な代物であることにには変わりありません。……実体がありそうでない、なさそうである。見えるときは水晶のようで、見えないときは霞のごとく。そう言うものです……」
「?? つまり、どういう……どうしたら……」
「その欠けらをジーゼの身に付けなさい。そうしたら、ウンディーネの力でしばらくは安定していられるはずです……。二日か三日、道草を食わなければ森に着くくらいまでは……」
「……昨日まではあんなにジーゼを捕まえたがっていたのに――。どうして?」
 申は訝しげな視線を牧師に向けた。牧師はその視線を受け止めるとおもむろに答えた。
「――捕まえる必要がなくなったからです……」
「何で?」申は全くためらわずに聞いていた。
「それは言えません。そう、どうしてもと言うならその欠けらのせいにしておいてください」
 どこまで信用していいのか、申には判らなかった。遥か東、サラフィで聞き及ぶ協会と、ここで知った精霊狩りを主導する協会との格差に考えがまとまらなくなってしまった。ただ、頼っては来たけれど、百パーセントの信用はできない。それが申の結論だった。
「――納得していませんね。当たりまえでしょうが……」
「いやでも、ジーゼが森まで行けるようになるならそれだけで十分だから……。あ、けど、ついでにもう一つ聞きたいことがあるんだ」そう言って、今度は申がゴソゴソとポケットから煌めく白の物体を取り出した。「これはホントに天使の羽根なのか知りたい。ジーゼはサ……あっ! えっと、久須那とか言う天使のものだと……」
「貸してください」牧師は手を差し出し、申は手渡した。「……鳥のものではありませんね。わたしも天使の羽根をこんな間近で見たことはありませんけど、おそらく間違いないでしょう……」
 聞いて申は大きなため息をついた。これが正真正銘、天使のものだとしても自分たちの抱えた問題の解決の足しにはあまりならない。しかし、その白い羽根は申たちが追いかける者たちへのはっきりとした手がかりに昇格したのは間違いのないことだった。
「そう、久須那といえば、確か協会からwanted……指名手配されています。手配書が確か……」
 と言いつつ、牧師は懐をガサガサとやりだした。どうも、持ち歩いているらしい。
「……? 協会の天使に手配書なんて何であるんだ?」
「寝返ったんですよ。イクシオンというやつに」にわかに牧師の視線が険しくなり、申の身体を突き刺した。「あなた方がどうして、久須那を捜しているのかは聞きませんが……。イクシオンとは関わりあいにならないほうがいいですよ。命が惜しければ……ね」
 確証は持てなかったけれど、申は牧師の言うイクシオンがサムだと感じ取った。とすると、サムという人物像がだんだん判らなくなってきた。異端として協会に追われ、追撃してきた天使と一緒にラブラブ逃避行らしい。ついでに天使より強くて天使の兵団でさえ蹴散らせるらしかった。が、ジーゼの主観が九割方で情報過少で申にはもうちんぷんかんぷんだ。
「そして、これが久須那の手配書です」
 牧師は申に少しシワシワになった紙を手渡した。
 似絵。申の眼に最初に飛び込んできたのは凍てつくような眼差しを向ける瞳。淋しげで凛とした輝きを宿している。それなのにその裏側に広がって見えたのは虚無。決して弱そうにもみえない。
「――天使はみんなこんな冷酷そう……というか、無表情なのか?」
「それは判りません。そうただ、これを引き合いに出していいのかは判然としませんが、何年か前までテレネンセスの教会にいた玲於那という天使は朗らかで色んな顔を持っていたと……」
「テレネンセスか……。いろいろ話を聞いてみると、不思議にその辺に集まるんだな……」
「あの街には昔も今も色々とあるのですよ――。行ってみなさい」牧師はポツリと言った。「ドライアードの娘を連れてるからには必ず行くのでしょうけど」
 申はもう一度、手配書に視線を落とした。サムの人相はジーゼの説明だけではおぼろげにしか判らない。だから、いつも一緒にいるらしい久須那の顔を覚えておけば何かと便利なはずだった。
「……協会十二天使の一人。イグニスの弓使い。……懸賞金・金貨五千枚――」
 と、二人の会話を打ち切るかのように周囲の空気をビリビリと振動させ雷が轟いた。窓から外を見るとまるで明けない夜が始まったかのようだった。日の出の時刻はとうに過ぎたのに、表は闇に閉ざされたまま。
「雨はひどいですが、行きなさい。あなたの大切な娘さんが消えてしまわないうちに」
 申はハッとした様子で牧師を見た。“イカナクテハナラナイ”それは間違いのないこと。けど、どうしてこれほどまでジーゼのために尽くしているのだろう。微かに揺れる気持ちを感じて、申は最後までジーゼを揺るぎない信念の上に信じていられるのか不安になっていた。
「……彼女の森を哀しませないこと。それがここまで関わりを持ったあなたの仕事です……」
 そして、牧師に背を向け、申は三度雨の中を走っていた。ここまで来てしまった以上、最後まで付き合うしかないのかもしれない。ただ、ジーゼを森に連れていくだけのはずなのにただならぬ予感を感じていた。ホントなら天使が絡んだと判った時点で逃げ出すべきだったのかもしれない。しかし、申はじいさんの宿に飛び込んでいた。
「じいさん、ジーゼはっ!」
「あまり芳しくはありませんが……」
 申はベッドの傍らに膝をついて、ジーゼの掌に牧師からもらったウンディーネの精霊核の欠けらを握らせた。今は信じる他なかった。もしも、ジーゼが歩けるくらいに回復したら、森に行こう。森が楽しげに囁く声を聞いて、鳥の囀りを聞こう。それから、それから……。申は疲れ果ててそのまま眠りに落ちていった。
「申……? 申? ここは?」ジーゼが目を覚ました。
 横を見やると、毛布にくるまってベッドに突っ伏して眠りこけている申の姿がある。昨日とは正反対の立場だった。その申にもジーゼの声は届いたらしく、目を擦ってムクッと起きた。
「ジーゼ? よかった。少しは良くなったんだね」
「うん……申とウンディーネのおかげだね……もう、いなくなってしまったウンディーネの……」
 ジーゼは弱々しい光を放つ精霊核の欠けらを愛おしげにギュッと抱き締めた。
「キミを捕まえようとしていた牧師がくれたんだ。どんな心変わりがあったんだか知らないけれどさ。でも、いいかい、ジーゼ。これはもうただの時間稼ぎなんだよ。帰らないと……ホントに帰らないとキミは死んでしまう」
 ジーゼは答えないでウンディーネの精霊核の欠けらをもてあそんでいた。瞳には惑いの色が見え隠れしする。サムを捜し出したい。けれど、こんなに自分を心配してくれる申にこれ以上の迷惑をかけるわけにもいかなかった。
「でも、申。わたしは――」
「帰るよ……ジーゼ。森が淋しがっている……」
 そう淋しげに申に言われると、ジーゼは言い返すことすらできなかった。