12の精霊核

←PREVIOUS  NEXT→

19. final vision(最後の思い出)

 東の地平から陽が昇り夜が明ける頃、申はテレネンセスの郊外をジーゼとちゃっきーっを伴って歩いていた。それは一種異様な光景で、時間が時間だったなら注目の的になるのは避けられないほどのものだった。二人と一匹の行く先は奇妙に明るくて、それはまるで……。
「急いで……崩壊が始まる……」
「??? 誰か喋った?」心は戸惑う上擦った声を出して、あたりをキョロキョロ見回した。
「No, Sir. 少なくともここの三人は無口だぜ?」
「……エルダの欠片」熱に浮かされたような頼りない口調のジーゼの声が聞こえた。
「あのウンディーネの青い欠片? エルダの声?」
「残留思念……。エルダはもおいないの」
 精霊のことはよく判らない。でも、精霊核の崩壊の意味することは申も心得ていた。そして、シェイラルに聞いた協会の数年に及ぶ精霊狩り。拠り所を失った精霊核のもろさ。
(天使長の目論見を止めるだけじゃ終わらないんだ……)その恐ろしさに気がついた。

「さあ、かかって来いよ。ジングリッドさま」
 サムは鞘から剣を抜いて地面に突き立てるとジングリッドを挑発した。ジングリッドの瞳を睨み、視線を決して外すことなく、口元は不敵にニヤリ。でも、余裕を見せつけるサムにも焦りはあった。森がこれ以上傷つく前に炎を沈めなくてはならない。ジーゼが生きてこの森が残らなければ、サムには何の意味もない。なのに、先手が打てなかった。
「何を遠慮している、イクシオン。わたしはお前を待ってるのだ。二人がかりでも。不意打ちでもより卑劣な手段でも何でもいいのだぞ?」
「へっ! 俺はてめぇほど腐っちゃいねぇよ」
「だが、正攻法では勝てまい?」高飛車な嫌な態度でジングリッドがサムに迫る。
「だがね……」サムは目を閉じて、フッと爽やかに微笑んだ。「てめぇは決定的に重要なことを見落としているぜ? てめぇは――エルフの森とジーゼを敵にしたのさ。てめぇを疎ましく思うのは俺たちだけじゃねぇ」サムはジングリッドを指さした。
「――そんなことか? お前こそ知らないわけではあるまい。反旗が翻される前に……芽が出る前の種のうちに拠り所だった泉やせせらぎ、森、シルフの住処。サラマンダーの炎の牢獄でさえ破壊し尽くし。それらを信仰する反協会勢力もついでにな」
「元々の協会はそお言う信仰だっただろう? 久須那」ひょっと久須那に振り向く。
「あ? ああ。でも、ずっと昔のことだろう?」
「やれやれ」呆れ顔でサムはゆっくりと首を横に振った。「それで久須那ちゃんは何年もレルシア大司教さまのところに出入りしてたの? ホントに玲於那の妹?」
「本当にそうなんだから仕方がないだろっ!」真っ赤になって怒る。
「ほう。取り乱した天使など初めて見るな」ジングリッドは奇異そうな眼差しを久須那に送り珍しそうにまじまじと観察していた。「……落ちこぼれ天使が――。玲於那でさえ最後の最後まで冷静だったと記憶しているが」
「う、うるさい。わたしはわたしだ。文句を言うな!」
「へへ、それでこそ俺の久須那ちゃんだね」
「サム! か、からかうな。恥ずかしい……」久須那はうなじまで赤くなった。
(もお、一人でも歩いてゆけるね……)瞬間だけ、サムの暖かい視線が久須那に降り注ぐ。
「確かに仲良くなったようだ。久須那もしばらく見ぬ間に人間のようになってしまったな」
「お。ホラ、ジングリッドさまも俺たちのことを認めてくれたぜ?」
「ち? 違うんじゃないのか?」うろたえた瞳でサムを見詰める。
「いや、違わないぞ。……でなければ、束縛なく自由な久須那が羨ましいとか……? ま、そんなこたぁどうだっていいや。いいか、久須那。約束の通りに頼むぜ」
 それから再び戦いの険しい眼差しに変化した。
「う? うん……」
 サムの変わり身の早さに戸惑いを覚えて、不安まじりの返事の中で久須那は空中でのサムと交わした会話を思い出していた。
『ちぇ、あいつら派手にやってくれるよな。俺たちゃ地味〜に動いてるってのに』
『サム、いつまでも軽口を叩いてると手を放しちゃうぞ』
『判ってるさ』サムから笑顔が消えたのを久須那は見逃さない。『これで……ホントに俺たちに勝ち目はなくなったのかもなぁ。……久須那、俺が死んだら――あとは頼むな』
『今からそんなことを言うな!』微かに淋しさが滲む。『わたしのサムは弱音は吐かなかった』
『じゃあ、俺は久須那の知らないサムなのさ』
 ニコリとして久須那を見上げ、サムは話を続けた。
『俺はエルフの森を守りたい。協会を一度ぶっつぶしててめぇの居場所を取り戻してやりたいとも思ったが、そこまで手が回りそうもねぇや。火事を消して、ジングリッドを何とか退けてやる。そしたら、てめぇらはジーゼの森を守るんだぞ? 誰も犠牲にならない帰り方を考えるんだぞ』
『わたしは帰らなくてもいい! サムが生きていればそれで――』
「てめぇが来ねぇなら、俺から行かせてもらう!」
 サムの瞳がギンと鋭く煌めいた。これ以上、呑気に構えている時間はないと判断したのだ。
 ジングリッドは眉をぴくりとさせるが、全く動じなかった。それどころか、サムにあざけりの眼差しを送っていた。所詮、人など浅はかなものと言いたげに鼻先で笑う。天使の誇り、人間には万が一にも負けないと言う絶対的な自信。
 ギィィイイン。造作もなく持ち上げたジングリッドの剣と渾身の力を込めたサムの剣が火花を散らす。瞳と瞳が出会って、アイコンタクトで推し量ろうとする互いの実力。ジングリッドの侮蔑の視線、サムの諦めない不惑の瞳。一太刀でもいいから、ジングリッドにあびせたい。
「ジングリッド、大人しくこの森から出ていけ」
「叶えられぬ望みだな。それより、イクシオンこそこんなところ油を売っていてもいいのかな」
「どうせ、天使兵団をテレネンセスにやったんだろ? かまわねぇよ」
「ほう、何故?」高飛車にサムを見下げる。
「てめぇらの街くらい、てめぇらで何とかしろってんだ。俺はここだけで手一杯なんだよ!」
「正論だな」フンとジングリッドは鼻で笑った。
「てめぇにそんなこと言われたくねぇな」仏頂面で文句をたれる。
「まあ、そう言うな」
 緊張感だけは高まるのに、間合いは間延びしていく。間延びは焦りを生み、焦りはさらなる緊張を生み出す。すべきことなど決まり切っているのに何故。奇妙な空気に気圧されて動きが止まる。
「てめぇ……俺が仕掛けるのを待ってやがるな? 何故?」
「せっかく、遠慮しているのにな。気に入らぬか? ならば……」
 ジングリッドはサムとの間合いを素早く詰めた。距離は二メートルもなく、ちょっとだけ剣を振り、一歩踏み出せば有効射程距離だ。サムは急なことに思わず飛び退いた。
「ちっ! 俺としたことが。びびっちまったぜ」しかし、まだ笑みがこぼれる。
「いつまで笑っていられるかな?」
「もちろん、最後までに決まってるだろ。へへ」
「それはどうか、な!」
 ジングリッドの眼がきつく煌めくと長尺の刃が勢いに乗ってサムを目がけた。空気が裂ける音が聞こえ、刃先を目で追うことは出来ない。けれど、サムも負けてはいない。今でこそおちゃらけた浪人ものだが、つい二年前までは魔法騎士団にイクシオンありと国中になを轟かせていた。
「てめぇこそ、いつまで余裕をぶっこいてられるのか楽しみだね」
 流石のサムもジングリッドの打ち込みを軽く受け流すことは出来なかったけれど、気合いと根性ではね返した。それから、再び睨み合いの続く膠着状態に突入した。二人とも構えたまま動かない。動けない。二日前の対決の時にジングリッドのほうがパワーは圧倒的に上だと判っているはずなのに。
「やっぱ、てめぇ、おかしいな。どうして、待つ?」訝しげに問う。「俺が怖い?」
「バカを言うな。わたしが本気を出せば、お前など秒殺だ。だが、それではつまらん」
「はぁ?」
 あきれ果ててものも言えない。でも、ジングリッドが本気でそう考えているとはサムは思っていなかった。裏にまだ何かある。恐らく、テレネンセスに放った天使兵団との間に取り決めがされているのだろう。精霊核が崩壊するときには莫大なエネルギーをあたりに蒔き散らかす。テレネンセスもその射程距離に入っているのだとすると、天使兵団を逃がすための時間稼ぎとも受け取れた。
「ま、いいや。俺たちには最大のチャンスってことでさ!」
「そうだな」ジングリッドの素っ気ない返事にだんだんとむかっ腹が立ってきた。
「! ふざけんなよ」
「……つまらんな。もっと、こう、ワクワクする展開にはできんのかね?」挑発の眼差し。
「ケッ、言いたい放題、好き勝手に言ってくれるじゃねぇか。お望みならそうしてやるよっ!」
 と、言った瞬間、サムは自分の背後に手を回し久須那に合図を送った。
『ためらうなよ。最初で最後だ。外したら終わりだ。俺がやつの隙を誘う。合図を送るからな、俺の後ろにそっと回って矢をつがえる姿を見せるなよ。そっから五数えて、完全に不意をつけば』
『そんなに適当で大丈夫なのか?』
『うん? 俺と久須那ちゃんのパートナーシップはパーフェクトなのさ。大丈夫だよ』
(カウントダウン、ラストファイブ)
 そう言う約束だった。サムが合図を送って五、数えたら、イグニスの矢を射よと。久須那がサムに言われたのはそれだけだった。サムが何を考えてそんなことを言ったのかいまいち判らない。だから、久須那は指示通りに動くほかなかった。
(サム……、ホントは何を望んでいる?)
 久須那はサムの背後、ジングリッドの完全な死角の中で矢をつがえ、弓を引く。よく考えてると玲於那の力をもらった弓を使うのはこれが初めてだった。青白い灼熱の炎をまとった矢も心なしかパワーアップしたような気がしないでもない。でも、玲於那がそこにいる。そんな不思議な安心を久須那は感じていた。
(……二、一、ゼロ!)
 同時に動いた。久須那は矢の軌道からサムがよけるのを確認せずに、サムはタイミングがぴったりなのかもチェックせずに。
(避けて、サム。当たったら、少しでもかすったら……)
「――ジングリッド。ちょっと休んでてくれや」サムは悪辣な笑みを浮かべ発言した。
 すっと左に揺れたサムの後ろから右腕をかすめるように青白い矢が飛んできた。その一瞬、ジングリッドの瞳は炎を捉えた。次には条件反射的に矢を打ち落とすために剣が振られた。けど。
(そのまま行け)一縷の望み。
「歴戦の勇士とは思えない浅はかな……」
 ジングリッドの剣先が矢を捉えようとした刹那、ぐんと伸びた。久須那の放った矢は標的を目前にしてスピードを上げ、ジングリッドの身体に吸い込まれていく。
「何?」にわかに信じられないと言う驚愕にこわばった顔色に変わる。
「それが……二年前の玲於那の思いだ。ちゃんと受け取ってやれよ?」
「断る。と言ったら?」瞳がキラリとし、口元がニヤリと歪んだ。「高々、二世紀しか存在していないひよっこにわたしがやられるとでも思っていたのか? だとしたら、おめでたいやつだぞ?」
「いいや、てめぇだろ?」片目を閉じてチッチッチと指を振る。「誰が一撃でやめるって?」
 と、言い終わるか終わらないかのうちに二本目、三本目がジングリッドをめがけていた。
「久須那め! お前は拷問部屋行きだ」
 久須那はビクッと身を震わせた。悪夢再来。久須那の頭にそんな不吉な予感がかすめたとき、ジングリッドは既に青い炎に完全に包まれていた。でも、それで終わりになるとは思えなかった。天使は元々炎の属性を操る能力に長けているから、イグニスの炎といえど、ジングリッドにはさほどのものではないかもしれない。
「サム! 急いで」血相を変えた久須那がサムを見た。
「もお、終わったも同然だよ。あとは力を解放してやれば片が付く」
 久須那の作ったわずかな時間にサムは呪文の詠唱を終えていた。魔法に関してはいつものように素早くクールに、ある程度の長さの呪文の詠唱なら誰にも気取られることなく終えられる。ついこの間、久須那がしてやられたサムの得意技だった。
(けど、ち〜と無理しすぎたかな……。身体に力が――)
 サムは使い慣れない魔法の詠唱に体力を消耗していた。特に大きなパワーを必要とするような術は否応なしに術者から発動するためのパワーを奪い取り、ようやく完成する。サムはへたり込んでしまいそうなのを両足にあらん限りの力を込めて必死に踏ん張っていた。
(へへへ……。それでも、もお、無理かもな――)
「――水とか氷系の魔法は苦手でね。変則的に風で攻めてみました♪ ま、風もいまいち。ホントはジーゼが大得意なんだけどなぁ」ちょっとだけ遠い眼差しで天を仰ぐ。
「風って、却って、延焼するんじゃ……うん? ……雨?」
 久須那の頭の上にポツンと一滴、水が落ちてきた。けど、手を額にかざして空を見上げたら、煙があちらこちらから上っていて定かではないが、少なくとも雨の降り出すような雨雲は見あたらない。天気雨にしてもちょっとヘン。それから、大粒の水滴がビチビチビチとバケツの水をひっくり返したような勢いで降り注ぎだした。
「こ、これはどういう……?? 風?」
「あ〜〜。……久須那ちゃん。そこ、よけた方がいいかも?」サムはひょっと空を見上げた。
「何で? ジングリッドさまはまだ……」つい、キョトンとしてしまう。
 と、サムを見やった久須那の頭上にひゅんといい勢いででっかい魚が落ちてきた。
「ぎゃんっ! ……! いったぁ〜い」
 久須那は頭を抱えてうずくまった。その足下ではさっきの川魚みたいな魚がピチピチと跳ね回っている。しかも、空から降ってきたのは久須那の脳天に直撃したやつの他にも十数匹はいる様子だった。それをまた、サムが剣を杖代わりにして面白そうに眺めている。
 何か釈然としないものがあるが、しばらく間をあけて久須那はピンと来た。
「あ! 風って」
「つまりそう言うこと」サムが頷く。「テレネンセスからそんなに遠くないところに大きな河があるだろ。そこから竜巻で巻き上げたんだ。これで火事は消える。火事だけはね……」
 戦いの合間の不思議な憩いの雨。奇妙な緊張の続く争いから別れを告げてこのままでいられたらと久須那は思った。ある意味で終わりの見えている辛い戦い。あの時みたいに逃げてお終い。にはならなくて、このまま二人で何時間粘ったとしても、粘れたとしても勝利が見えない。
 そもそも、勝利はないのかもしれない。精霊核が絡んで、崩壊が間近な今となってはジングリッドの野望を潰して、協会を正道に戻せたとしても手遅れなのかもしれない。そんな思いが二人のどこかにあってやるせなさを増長させていた。
 サムの呼んだ滝のような雨(?)はやがてエルフの森に安らぎを取り戻そうとしていた。まだ、所々でくすぶっていたりパチパチと音を立てているが、炎の勢いはかなり落ち着いたようだった。
「……わたしがどれだけ手加減してやったのかまだ判らんのか?」
 炎の余韻がさめやらぬ煙の中からジングリッドがヌッと姿を現した。
「サム、ジングリッドさまがっ」
 叫んだ久須那とジングリッドの視線が重なった。次の瞬間には久須那は弓引き、矢を放っていた。しかし、ジングリッドに造作もなく打ち落とされる。と、不意にさっきのは策略だったのかと言う疑念が久須那の頭を駆け抜けていった。
「茶番は終わりだ、イクシオン! わたしからの報酬だ、受け取れ!」
「いらねぇよ!」サムはジングリッドの刃をかわそうとしたが、膝が崩れた。
 傷ついた森に響き渡ったのは久須那の悲鳴。ホンの一週間前の久須那だったら動じもせずにただ冷徹に何も感じることなく空からその様子を見下ろしていただけに違いなかった。そして、森がはらんだ空気が一気に変わった。恐怖から安堵へ、それから、哀しみと憎悪と色んなものが混じった複雑な感情の渦へと。
「サムっ!」
 久須那はサムへと駆け寄ろうとした。けど、遠すぎる。間に合わない。間に合わない? 何故、そんなネガティブなことを考えた? そして、自分には弓があることを思い出して走りながら無理な体勢で弓を引いた。
「ジングリッド!」初めての呼び捨て。「ジングリッドッ!」久須那の瞳に涙がたまる。
 二度目の怒声が森に響き渡る頃、ジングリッドの長尺の剣はサムの体の中に吸い込まれていた。
「いやだぁ〜! サァ〜ム! 置いて行かないで!」久須那の泣き声?
「わたしの勝ちだ、イクシオン」ジングリッドの勝ち誇った笑み。
「はぁっ! 引き分けだろ。あとは久須那がどうにかするさ」サムの苦痛に歪んだ辛そうな顔。
「……はなからそのつもりだったか……。フフ……ハハハ! お前はこの森とドライアードのために命を張ったのか? 馬鹿げているぞ?」
「うるせ〜よ」
「わたしは久須那のためだと思っていたのだが、それならまだ理解不能ではなかったのだがな。精霊など束の間の夢にすぎんのにな――」
「へっ! 束の間なのはてめぇの夢だろ。精霊核をぶっ壊して……エネルギーにしたって、てめぇらの世界にゃ届きやしね〜よ。召喚されるとはそう言うことだ。違ったか?」
「サム、それ以上喋るな。血が――止まらない」
 と、ジングリッドは自分を睨んでいる久須那の存在に気がついた。
「何だその目は。わたしに文句でもあるというのか」
「邪魔だ、どけ!」久須那はキッとジングリッドに一瞥くれて、サムに寄り添った。
「ま、構わんさ。せいぜい、別れを惜しんでおくんだな」
 ジングリッドは少々不本意そうだったが、比較的あっさりと身を引いた。
「サム、わたしを置いて勝手に逝かないでくれ、お前がいなくなったら、どうしたらいい」
 そう言いながら、久須那は久須那の手はサムの衣服を引きちぎって、脇腹をあらわにしていた。
「……ひ、ひどい……」手を口に押し当てて、言葉がなくなる。
「――仮にも炎の刃だしなぁ。やられりゃ、う、こ、こんなもんかな?」
「どうして、そんな、冷静……他人事でいられる?」
「へ、そんな哀しそうな面してわめくなよ。俺はまだくたばっちゃいねぇぜ」
 久須那は物言わず焦げくちゃのサムの顔を見詰めていた。そうは言うけど、もう、ダメかもしれないんだろ? サムの揺れる瞳が物語り、それを久須那の心が感じ取った。強力な風の魔法を使って力を使い果たして、だから、ジングリッドに後れをとったんだ。
「バカだよ、サム。あんなに慌てなくても……」言葉に詰まって、手の甲で涙を拭った。
「全く、天使の癖によく泣くやつだぜ。てめぇはよ」
「うるさい。天使だって哀しかったら泣くんだ。最後くらい何も言わずに泣かせてくれよ」
「ハンカチ……。生憎、いつものきたねぇ〜のしかないけどよ。涙、拭けよ。いいか? 笑顔でお別れだ。俺はてめぇの笑顔が好きなんだ。笑え」
 久須那はフルフルと力無く首を横に振った。嗚咽を漏らさないように唇を噛んで必死に我慢する。ちょっとでも油断するとしゃっくりが出てきそうで、何も知らない女の子みたいに泣き崩れてしまいそうだった。
「サ、サムはいつだってわたしに無茶を言う……」
「無茶じゃ、ないと思ったんだけどな。久須那、てめぇは笑ってその先を見てこい。へへっ、もっと喜びなよ。これでてめぇは誰にも縛られない完全な自由なんだぜ?」
「……サムのいない自由なんて――いらない」かすれた声色。
「ぜ〜たく言うなよ。この!」サムは軽く久須那を小突いた。
「――」もう、泣かずにはいられなくなって、久須那はその場に崩れ落ちた。
「ま、い〜や。この次、会うときは絶対笑ってるんだぞ。泣き面なんて見たくない。てめぇは淋しげな面よりも、哀しみでいっぱいの顔よりも、微笑んでる顔の方が素敵で似合うんだ」
 それが久須那の聞いたサムの最後の言葉。それがサムの見た最後のビジョン。久須那の涙、ポケットから取り出したサムの汚れた白いハンカチ……。