12の精霊核

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39. the broken bow(壊れた弓矢)

「……まずいなぁ」迷夢は眉間にしわを寄せて、空を見上げた。
 思いの外、進行が早い。気象関係の魔法は一度、発動してしまったら揺り戻しは出来ない。その他の魔法でも基本的にそうではあるが、自然に作用する広域魔法は厄介な代物だ。どんなに強力な魔術師であろうと、意のままのコントロールは不可能。その先に迷夢は何があるのかも予想をつけていた。シメオンを荒れ狂う嵐に蹂躙させ、それに乗じて二段目の魔法で街を殺す。
「――マリスだったら、もうちょっと直情的だから、レイヴンよねぇ、これ。計画性の塊というか、何て言うか。もう少し、ずぼらにテキトーに物事を運べないのかな」
 迷夢は非常に難しい顔をしてもう一度、まだ青空が覗く空を見上げた。
 だが、その青い空もやがて、暗雲に閉ざされて陽の光が遮られた嵐が訪れる。そのまま、恐怖に支配された夜が始まり、二度と明けることはない。それが闇に、魔に落とすと言うことなのだ。今の時点では高度な魔術師でなければ術中に落ちたことの感知は不能。一般人では第六感の優れた者が“何か”を微かに感じるにとどまる。大がかりな魔法ではあるが、進行は緩やかに。以前との“空気”の差を明らかに感じた時には元には戻れない。
「う〜ん。半日かなぁ、もって四分の一日かなぁ」
 腕を組み、首を捻りながら迷夢は考えを口先からこぼした。
「……どっちにしても、もう、二度と夜は明けないよね……」
 嵐が訪れ闇に閉ざされたら、終末へ止められないカウントダウンが始まる。

「……始めましょう……」
 もはや、異を唱えるものはいない。主張しても、デュレは聞き入れないだろうし、それでもなおデュレを阻止したいのならば、実力行使しかあり得ない。
「ま、やれるだけ、やってみ。どうにかなっちまった場合は……総員退避。それでいいだろ?」
「何、呑気に言ってるのよ。あたしの見立てじゃ、退避できたらもっけの幸いよ」セレスは腕を組んで横目でサムを突き刺した。「いいこと、デュレの魔法は半端じゃないの」
「……初めて使う魔法でも?」サムはニヤリと口元を歪めた。
「う……。っていうかさ、魔力よ、魔力。それが凄いし、あたし、封印破壊魔法の片鱗を見ちゃったような気がするのよねぇ」
「何だ、そのまどろっこしい言い方はよ」
「うん、だって、あれは聞き伝ての封印破壊魔法に似てたってだけだから……」
 何がどう封印破壊魔法に似ていたのかサムには見当がつかない。実のところ、封印破壊魔法の発動現場に立ち会ったことがないのだからリボンも知らないのだ。そんなこととは知らずに、サムはリボンに向き直って、問い掛けていた。
「シリア、その封印破壊魔法ってのはどんなんだ?」
 すると、リボンはあまり嬉しくもなさそうにぶすっとしたような雰囲気になった。
「――知らん……」ぼそっと呟くリボンの頬は心なしか膨らんでいるように見えた。
「……? はぁ……。フェンリルのてめぇが知らねぇ? ……てめぇ、何て言うか、イメージ的には全知全能そうに見えるのにな。魔学にも、何にでも学問の全てに通じ、知らぬことは何一つねぇっ! 俺はそう思ってたが……、違うのか?」
 と言うサムにトップを切って反応したのはセレスだった。
「キミにも判んないことって、やっぱり、あるんだ。そゆこと聞くと安心するな。うん」
 セレスはリボンの前にしゃがみ込むと、左手は膝の上、右手でリボンの柔らかい毛並みをポフポフと軽く叩いた。その間、セレスはずっと嬉しそうで、反対にリボンは哀しそうだった。
「悪かったな。無学でよ」リボンは拗ねてしまったらしい。
「いつまでも、バカやらないでください!」
 デュレはいきり立ってセレスをげんこつで殴った。いつもよりも数倍は本気そうなげんこつを喰らってセレスは冗談抜きで参ってしまい、ぐぅの音も出せずにその場にうずくまった。
「……てめぇが本気になると、結構、怖いのな」妙に感心してサムが言う。
「あなたもいつまでもそんな調子でいたら、容赦しませんよ」
「――いいや、俺は久須那で慣れてるから……」へらへら。
「へらへらしないっ、そこ!」デュレはサムをびしっと力強く指さした。
 緊張している時のデュレはピリピリとしていて、ちょっとしたことにもすぐに腹を立てる。それでも怒っているだけのうちはまだいい方で、最終的に実力行使に出てしまうから始末が悪い。それはもちろん、セレスの知るところだったから、こういう時のデュレには無意味にちょっかいを出さないと密かに心に決めているのだ。
 けど、一見すると関係のなさそうなところからとばっちりを食うこともままあった。
「う〜〜。いったいよぉ……。頭蓋骨が陥没したらどうするのよぉ」
 そこまで言って、セレスは片目を瞑って頭をボシャボシャと書いた。
「――そんなにカリカリしなくていいから、とりあえず、“試し”なんでしょ?」
「――そうですね」デュレはセレスを珍しいものを見つけたかのように上から下まで見詰めた。
 それから、デュレは胸に左手を当てて、心を落ち着かせるために大きく深呼吸をした。
「闇の魔術師・デュレの名に於いて漆黒の闇の深淵のさらなる深みにアルものよ。我が呼び声に応え、闇の奥底よりうつしよへの道筋を開け」
 その時点で、プイと一対の瞳が姿を現した。けれど、レイヴンと対峙した時とかなり様相が異なった。力無く、頼りない。あの時のように禍々しさを感じさせるにはいたらず、ひ弱そうだった。
「よりて、我と束の間の盟約を結び、我の言霊を現へ導く。漆黒の闇の深淵のさらなる深みにアルものよ。封印の絵に宿りし光を滅し、闇に沈む孤独な光点へ。キャンバスに封じられし魂をうつしよへと解放するものなり!」
 一同、その瞳がどんな挙動を示すのか、固唾を呑んで見守ったが、見事に期待は裏切られた。瞳は何かアクションを見せることもなく、そのまま虚空に消えてしまったのだ。
「あれれ〜?」セレスは駆け寄って、瞳のあった辺りを軽く見回してみたけれど、瞳があったような痕跡は何もなかった。「幾ら何でも、あれってことはないよねぇ?」
 と、セレスが言うと、デュレは力無く首を横に振った。
「ダメみたいです……。わたしだけでは魔力が足りません……。それとも……どこか、呪文を間違って覚えてるのかしら……?」
 デュレはがっくりと落胆したのか、ペタンと石床に座り込んでしまった。しくじったことは周りにいた誰よりもデュレ自身にとって、ショックなことだった。成功こそしないだろうけど、もっと、出来ると思っていた。少なくともシェラに聞いていたことの片鱗は見られるだろうと。
「ねぇ、リボンちゃん? 中途半端なことをすると、向こう側から魔が雪崩れ込んだり何かして大変なことになるんじゃなかったっけ? ……でも、これは?」
 デュレが根本的なところで間違うなんてセレスには考えられないことだった。だから、問題があったのと仮定するとデュレの失敗と言うより、外的な要因があるような気がするのが常だった。
「封印破壊魔法の実行に必要な魔力の閾値があるんだ。その一線を越えられなければ……こうなる」
「……? と〜言うと?」セレスは助けを求めて、挙動不審にキョロキョロ。
「つまりよ、ここに来るまでに消耗しきっちまったってことだ。大きな魔法をやってのけるには魔力のストックが足りない。散々、大見得を切っておいてこの様たぁ情けねぇなぁ。デュレ?」
 サムはデュレの背後で腕を組み、ここぞとばかりに嫌味をたれる。
「……。ホ、ホントのことだけど、あなたに言われると腹が立ちます!」
 デュレは石床に膝をついたまま、目線だけをサムに向けて激しく睨み付けた。
「それだけ元気がありゃあ、次はどうにかなるかもな」朗らかに笑う。「それにへこんでる時間なんてねぇんだ。落胆しねぇで“失敗したのはもっけの幸い”とよ、魔力をためるんだ」
 サムはデュレに歩み寄って、髪の毛をくしゃっとした。
「……。サム……。デュレにちょっかいを出すと、わたしが許さないぞ」
 サムの背後から、ヌオっと激情のオーラを身にまとった久須那が割り込んだ。
 と、全くの突然だった。虚空から湧き上がったかのように突如、背後からドスのきいた女の声が聞こえた。誰も気配を察知することなく、物理的に声が耳に届いた時初めて存在に気付いた。
「やはり、来ていたか……」
 その女の声には聞き覚えはあった。それは昨日の早朝に聞いた声色と全く同じだった。いや、それよりも鮮烈なイメージを焼き付けるほどに研ぎ澄まされていた。そして、その女の一歩下がった位置にはレイヴンが陣取っていた。
「これも因果応報。時の理の中のことなんだろう? シリア、お前に言わせれば」
「そうであり、同時にそうでない」リボンはマリスに背を向けたままでいた。
 マリスの期せぬ来訪に動じることもなく、逆に深く落ち着いたかのように感じられる。
「どういう意味だ?」真意が判らずにマリスは尋ねる。
「未来は万人に開かれたものだから……。そうでしたよね。リボンちゃん?」
 デュレは石床から立ち上がり、自分の体勢を立て直しつつマリスと対峙する。
「そうであって欲しいという願望だよ。無論、ほとんどの事象では“開かれたもの”だが……、マリスについては適用不可かもな。この時代とは不可分なほど関わりを持っている。個人のささやかな生活ではないだろ? レベルが違いすぎる」
「だったら――!」セレス。
「話は最後まで聞け。開かれていなくても閉じてはいない。こじ開ける余裕はどんなときにも存在してるんだ。ただ、その難易度が違うだけ……今度は最難関だな……」
「判ったよ、リボンちゃん」
 応じたのはセレス、デュレはリボンの言葉を受けてマリスに熱い眼差しを送る。
「でも、どうして、こんなに面倒くさいことをわざわざ……?」デュレは言う。
 刹那、平静さを装っていたマリスの目つきが変わった。端的に表すのならば、憎悪。だが、マリスのそれには様々な負の感情が練り合わさっているようだった。一同に緊張が走った。デュレは身を引き、セレスは短剣を手に取った。サムは剣を構え、久須那は弓引く。バッシュは矢を取り、リボンは姿勢を低くし臨戦態勢。
「そんなに知りたいか……?」
 誰も答えない。しかし、固唾を呑んで見守っていた。マリスの口元が微かに歪む。
「貴様らに絶望を与えるため……。そして、返してもらおうっ!」
 短い言葉だったが、デュレにはマリスの意図したところが伝わった。かつて、ゼフィやサスケたちに粉々にされた誇りを返せと言うのだろう。だから、マリスは執拗なまでに対決や久須那の絵にこだわるのだとデュレは思った。
「わたしたちに希望はあっても、絶望はあり得ません」
 ここで、マリスの空気に呑まれてはいけないと、デュレは強きに言った。ギャラリーはないとはいえ、周囲の雰囲気も自分たちの味方につけなければ、勝算は薄い。
「それはどうかな? 久須那の絵を消滅させれば、貴様らから全てを奪える」
「――!」マリスは判っている。
 デュレは激しい眼差しをマリスに向けて、奥歯を噛みしめた。マリスは自らの力を見せつけるためだけにこんなことをしたのかもしれない。マリスは自信に満ち、敵対する相手の希望や、自信を粉々に打ち砕くためだけに手の込んだ“罠”を仕掛けてくるのかもしれない。それはもしかしたら、顕示することでしか保てない自尊心の現れかもしれないが、気付くものはない。
「……勝利を確実にするためなら、あなたは何も言わず久須那さんの絵を破ってしまうべきだったとわたしは思います。……少なくとも、わたしがあなたならそうします」
 しかし、デュレは負けない。最低でも“口”だけでは負けたくない気分なのだ。
「出来ないさ。久須那は大切な友だった。――貴様らがいなくなれば、久須那はわたしの元に帰ってくる。それが先だ。絵を破くことなどいつでも出来る」
 マリスとデュレの己の意地を書けた対峙は続く。
 と、そのやりとりを遠目から見守る人影が一つ。
(折角、明日の日付にしたのに、お前は来てしまうんだな……、セレス)
 アルタは墓石の陰からそっと顔を覗かせて、様子を確認していた。
(ならば……、これでいい……。これは変えられない運命なんだ。バッシュ。……俺はお前の死を受け入れて、静かに暮らしていく他ないんだな……)
 アルタは数多くある墓石の最も奥まった場所にある石の陰から、事の顛末を見守っていた。自分はすでにこの事象に関わることは出来ない。だから、廃墟となったテレネンセス教会にメモ書きを残して、デュレとセレスをいざなった。それが例え運命の輪の中にあったのだとしても、アルタに出来る数少ないことの一つだった。
(しかし……)自分でも予想していなかった、一つのことが不意に頭をもたげた。
 これが運命だというなら、せめて、一矢報いることくらいは出来ないだろうか。バッシュの死を避け得ないとことだとしても、最後に何か一つくらい逆らえるはずだ。しかし、アルタにはその行為はこの先の時間流を破壊してしまう可能性を秘めることを直感的に察知していた。
 許されざる行為。
 同じ場所での二度目の行為は許されない。全てを破綻させてしまうかもしれない。同時に存在してはいけないものがすでに存在しており、それだけでも非常に稀な因果律崩壊の危機を招いている。その存在はアルタ本人。彼はあの時も見ていた。
 時越えの魔法を見つけ出し、幾つかの時代を渡り歩いた後に。この場に辿り着いたことを今でもよく覚えている。アルタは見てしまっていたのだ。
(……止められるか……)
「――マリス……、レイヴン、もう、諦めろ。――このリテールに天使の世界を作ろうなど、意味をなさいない。リテールに天使は四人……。こっそりと異界に帰らなかったものを数えたとしてもせいぜい十数人しかいない。それでどうなる?」
「シルエットスキルはすっこんでろ」レイヴンが怒鳴った。
「断るっ! こう言う時こそ、わたしの出番だ。……判るだろ……?」
 最初の言葉はレイヴンに、最後の一言はデュレに向けられていた。
 シルエットスキルは生きていない。ダメージを受ければ、回復するにはそれなりに時間が必要だが、決して死ぬことはないのだ。今まで、意識していなかっただけに久須那の言った言葉には凄まじいほどの鮮烈さと目新しさがつきまとった。
「でも、久須那さんを盾に使うなんて、出来るはずがありません」
「使えるものは何でも使わないと勝利を掌中にすることは出来ない。判るな」
 さっきとは逆に今度は久須那が有無を言わせぬ口調でデュレに迫る。大人しくしている時の久須那とはまるで迫力が違う。フツーの表情で、フツーの眼差しで見られているだけなのに、それだけで圧倒されてしまう何かが久須那から放たれているかのようだった。
「ねぇ……」
 と、全くの不意にこの場にいるはずのないものの声が聞こえた。デュレたちが来た方向。暗がりに溶け込んで声の主は確認できないけれど、今、この瞬間に地下墓地大回廊に来るものなど限られている。甘ったるく、間延びした声。
「久須那のシルエットスキルがイヤだってんなら、あたしが相手をしてあげようか?」
「迷夢?」レイヴンが振り返る。「……ここで会ったが百年目というやつか?」
「さぁあてね?」迷夢は自分の背後に手を回すと、スッと剣をレイヴンのものよりもかなり細身のサーベルと呼ぶに相応しい剣を手に取った。「どっちにしても、ちゃちゃっとやってみない?」
「……お前ごときには絶対負けない」
「迷夢っ! あなたの支度は済んだんですか?」デュレが怒鳴る。
「キミは人の心配よりも自分の心配をした方がいいよ。あたしに手抜かりはない。ここに来るまでにちゃんと全部を片付けてきたらから、安心してていいよ。あとはマリスとレイヴンをどうするか。あたしにはもうそれだけのことだから」
「それだけの事が最難関じゃないのか?」レイヴンの目は本気だった。
「ま、ね」迷夢はニコリ。「けど、悪いんだけど、キミには楽勝よ、あたし」
 あり得ざるほどの屈辱を受けた。過去、何回かの戦いでは迷夢などとるに足らない存在だったのだ。それに軽くそんなことを言われたのではレイヴンのプライドが許さない。
「……」レイヴンは眼差しで迷夢を蔑んでいた。
「ほうっ! やる気満々。相手に不足なしっ! って顔かしら?」
「違う、オレは不満だ。迷夢とやり合うくらいなら、レイアとやった方が手応えがある」
「それは――どうかな?」
 迷夢は不敵に微笑んだ。普段の迷夢ならまず適当に返すところを、真面目に。
「さあ、かかっておいで。おねぇさまがキミを剣のサビとしてくれるわ」
 あからさまにレイヴンを挑発した。怒りにまかせ、動きが雑になれば迷夢の思う壺。レイヴンは真面目一方に綺麗な戦いぶりを見せるのだが、それは迷夢の性に合わない。レイヴンのストイックさをぶち壊し、自分のペースに完全に引き込んでしまう。
「――もしかして、――あたしが怖い?」
 動かないレイヴンに業を煮やしたかのように迷夢は言った。
「何だって?」レイヴンの瞳が怒気をもって煌めいた。
「だから、あたしが怖いんでしょ?」迷夢は調子に乗ってさらにレイヴンを挑発した。
 迷夢は知っている。冷静さを欠いたレイヴンは弱く脆いのだ。
「ま、あっちは迷夢に任せておく」リボンがヌッと顔を突っ込んだ。「いい加減に諦めたらどうだ……」と、説得工作を試みながらも、リボンは簡単にはマリスが意見を引き下げないことを知っていたし、ほぼ無理だろうと思っていた。「異界へ恒常的な扉を開かなくても、他に天使たちがいなくとも、……お前なら、ここで上手くやっていける……」
 しばし、リボンとマリスは見つめ合っていた。
「――わたしが欲しいのは心の平安などではない」冷たく凍り付いたような口調だった。
「ならば、お前は何が欲しいっ! お前が望んでいるものは異界への出入り口や、天使の地位向上、国をつくるとかそんなことではないはずだ」
 やはり、かつての言い争いをここでも蒸し返してしまうのだろうか。久須那は思う。
「お前はいつも、そうやってわたしの邪魔をする。利いた風な口をきくな! 貴様にわたしの何が判る。……やはり、会おうとなどと思わずに地下牢で葬った方がよかったようだ」
「そうできなかったのはお前がマリス……、マリスに未練があるからだ……」
 久須那は言い放った。
「ああ、そうさ。わたしはお前に未練がある」マリスは開き直って、敢然と言った。「そうでなければ、このわたしがどうしてお前などにすがる必要がある。――お前はわたしが持ってないものを持っている。わたしがどれだけあがこうと決して手に出来ぬものだ」
 マリスは言葉を切った。言葉にならない思いを呑み込むかのように。
「だから、わたしはお前の手を放したくなかった。例え、まやかし、幻だとしても、お前と共にいられれば全てを持つことが出来た」
「哀れだな……」久須那は目を閉じて首を横に振った。
「お前にだけは言われたくないっ! ――くっ! わたしの前から永遠に消え失せろ!」
 マリスはいきり立って歩き出し、久須那を突き飛ばした。何かの作戦でもないらしい。マリスは周囲に構うことなく、ズンズンと絵に向かう。
「こいつを切り裂けば、何もかもお終いだ。――わたしの思い描く未来が始まる……」
「し、しまった」
 予想し得なかった成り行きに誰もとるべきアクションをとれなかった。流石のリボンも大慌てだ。久須那の封印の絵がなくなってしまったら二進も三進もいかない。それどころか、千年以上も孤独に耐え忍んできた意味がなくなってしまう。
「ダメっ!」
 デュレは思わず絵に手をさしのべた。しかし、足までは動かなかった。
「それを失う訳には……」
 マリスは剣を掲げ、キャンバスの前に立ちはだかった。
「マリスっ! それはキミには譲れないんだっ!」
 セレスが飛び出す。飛び出した先に何が待ち受けるかなんて、考えることなく。考えるよりも先に身体が動く。何よりも絵を守らなくてはならない。1516年のあの日に、自分たちがこの絵を手にするためにはここで絵をなくすことは出来ない。
 マリスの目が絵を離れ、セレスを睨め付けた。
「何だ、貴様はっ!」
 もはや、セレスはマリスの格好の餌食だった。封印の絵を滅ぼすよりも先に小娘を一人、消してしまった方が後に都合がいい。マリスにとり戦力外に近い存在だと言っても、いないならいないに越したことはないのだ。マリスの剣が閃く。キャンバスからセレスに標的を変えた。間合いをあわせるために、マリスは一歩ほど下がり、――そこに躊躇いなど微塵もない。
「セレス!」
 デュレは両手で口元を押さえた。顔から血の気が引いていく。こんなバカなことがあっていいはずがない。自分のセレスがマリスの刃に倒れていいはずがないのだ。しかし、現実は非情だ。デュレは顔面蒼白になり、ともすれば貧血で倒れてしまいそうだった。もう、デュレが何をしたところでマリスの刃のスピードには敵わない。魔法ではダメなのだ。
 セレスが居なくなるなんて、想像できない。
「いやぁぁぁあぁっ!」デュレの悲鳴がこだまする。
 刹那、低姿勢で駆け抜けるバッシュの姿がデュレの視界に入った。
 デュレはバッシュの行動の意図まで理解が追い付かない。ワンテンポ遅れて、判った時には遅かった。バッシュは両腕を出来うる限りのばして、セレスを突き飛ばした。セレスは石床を数メートルは転がされて、倒れ込んだ。そして、辛うじて気絶せずに済んだセレスは上半身を起こした。
「母さぁぁあんっ!」セレスが絶叫する。
 そのまま、マリスの剣をかいくぐって、自分のところまで来て欲しい。逼迫する現実の中、全てがスローモーに動いていく。全て、見えているのに。マリスの太刀筋も、バッシュの目頭にたまった涙でさえも。セレスは腰に手を回して、短剣を手に取ろうとした。けれど。
(……こういう……ことなんだ)
 マリスの剣が下りてくる僅か数秒にも満たない時の中で、バッシュの思考が巡る。
(アルタはこれを止めたかった……。だから、セレスを遠ざけようと……)
 セレスは左手を床につき、右手で短剣を逆手に握り締めた。もう、ダメかも。そんな思いを振り払い、セレスは床を爪先で蹴った。
「バァァァァッシュ!」
 誰も動けない。セレスが駆けるのはマリスの右斜め後ろ。仮に間に合ったとしても、マリスの背を傷つけるのが関の山。振り落ちる剣までは止められない。逆に返ってくる剣で切り伏せられてしまうかもしれない。
 そんな状況なのに、セレスは見た。マリスの黒い羽根と黒い剣の間に。バッシュの微笑み。目が合って、バッシュの瞳はセレスに何かを訴えているかのようだった。
「母さんっ! そんな、母さん! やめてぇぇぇっ!」
 ザンッ。マリスの黒い剣から血が滴り落ち、バッシュが床に崩れ落ちた。
(だから、言っただろ? お前がバッシュを殺すんだと……)
「あ……、あ……ぁぁ……」セレスの短剣はマリスを捉えることはなかった。
 そして、マリスは次の獲物を狙う。もはや、躊躇う理由はない。ここで邪魔者を打破し、全てに決着をつけてしまう。そうなれば、何もかもを思うがままに進めることが出来る。
「セレぇス!」悲哀に、同時に怒りに満ちたリボンの声が響く。
 刹那、サムが走った。
 静かに。全く静かにマリスの爪先がセレスに向き、切っ先が狙っていた。けれど、セレスは動けない。信じられない? そんなことは超越して、事実の認識すら不可能な状態だった。セレスは項垂れ、床を見る。いや、もはや、何も見ていなく、何も聞いていなく、何も感じていないのかもしれない。バッシュがマリスの刃にかかった時、セレスの時間は止まってしまった。
「セレス、逃げて。逃げて――っ」デュレはもう、見ていられない。
 こんなことが起こるはずがない。言葉の上で誰かが犠牲になる。そんなことをお利口に理解していたとしても、それが現実になってしまうと話が違う。デュレが協会魔法学園に入学してから付き合うようになったセレスがこんな形で居なくなっていいはずがないのだ。
 根拠はない。だけど、自分の親友が死んでいいはずがない。
 ギイィィイイィィン。
「戦いはまだ終わっちゃいねぇんだぜ。死にてぇのか、てめぇは」
「サム……」デュレは囁き声で呟いた。
「死にたいのだろうさ、そいつは」サムの発言を受け、マリスがぞんざいに答える。「毎度毎度、思うが、そんなガキみたいな集中力でよく今まで生き長らえたな。……不思議だ」
「はんっ、俺たちの人生はてめぇと違って幸運に彩られているのさ」
「そうか……。では、その幸運も今日までだな。約束したばかりだ。貴様らから全てを奪い去る」
 それは妄執なのだろうか。
 ガキィン。サムは力を込めてマリスの剣を弾く。と言っても、マリスの余裕のある表情から察するに、“弾かせてくれた”と受け取った方が正しいようだった。
「おい、シリア。その役立たずを早くどこかに連れて行け。それじゃぁ、餌食だぜ」
「ああ」
 リボンはサムに言われるがまま、セレスをくわえて引きずっていった。出来るだけ安全なところへ。と言っても、この地下墓地大回廊にはもはや安全な場所はどこにもないのだが。
「茶番はお終いだ。貴様らまとめて、地獄へ堕ちろ」
 マリスは冷徹な眼差しを一同に向け、右手をスゥ〜ッと前方に突きだした。物理的に魔法を射出する方向を定める必要もないが、座標を指定するだけよりも面白い。
「……! 散れっ! 固まるな、散るんだ。喰らったら、死ぬぞ」
 リボンが怒鳴れば、セレスは頭から石床に転落。元気のあるセレスだったら、それだけでもリボンに食ってかかる理由になるのに、今日のセレスは石床に突っ伏してピクリともしない。
「天空に住まう光の意志よ。我が右腕に宿り、全てを滅する破壊のパワーを体現せよ」
 デュレにはその呪文は聞いたことがあった。前に一度、レイアと共に防御したことがある。道具さえあれば何とか出来るかもしれない。デュレはくるっと一回りを見回した。そして、視線が止まったのはサムの剣の上だった。
「サムっ! 剣を貸してください。急いで」
「……? 剣じゃ魔法は防げねぇぞ?」サムは眉間にしわを寄せつつ訝しげだった。
「いいから、早く。わたしに策があります」
 サムはデュレに向け、剣を放った。手渡す余裕はすでにない。剣はデュレの右斜め前方一メートルの辺りの床の突き刺さった。デュレは直ぐさま、それを手に取ると床に垂直に立て直した。
「えーえ〜っと。みんな、早く、わたしの後ろに……!」
 デュレに言われてきたのはサムとリボン。そして、彼に引きずられるセレスだった。迷夢は相変わらずレイヴンを挑発しつつ、まだ、遊んでいるようだ。それにマリスは迷夢には興味がないかのように背を向けていた。
「……何をする気だ。貴様は」しかし、動じることはない。「喰らえ、光弾!」
「――我らを悪しき精霊使いより守護する結界を求む」デュレは短いフレーズを唱える。
「マリスっ! それは結界だ」レイヴンの声がマリスの背後から届く。
「特化結界っ!」
 剣の外側に向いた刃を起点にして、二等辺三角形の結界が広がった。デュレはレイアがしたように剣の刃先で光弾を分断し、魔力を後方に全て流そうとした。
「だから、何だ。たかが小娘ごときの結界に後れをとるようなわたしではない」
 マリスの放った光弾が石床を巻き上げて直進する。その光弾の中心が少しでも剣の刃先からずれてしまうと、剣を中心に張った結界の崩壊を早めてしまう。デュレは神経を研ぎ澄まし、集中させる。僅かなミスが命取り。
 光弾が有無を言わさぬ強大な力を持って結界の頂点にぶち当たる。
「うぁあっ!」巻き上げられた石床が強風に煽られた紙くずのように軽く舞う。
 持ちこたえられない。光の圧力に負け、遙か後方にまで吹き飛ばされてしまいそうだ。しかも、特化結界も長く保持できそうにもない。魔力的に消耗している上、マリスの力は半端ではない。こちらから光弾をカットできない以上、結界が破れるのは時間の問題だ。
 結界にほころびが見える。時折、結界の表面に亀裂が入るかのように閃光が走る。
「サム? リボンちゃん。誰か、魔力を貸して……」
「……結界魔法は魔力の波長……と言うか、馬が合わないと効果を得られないぜ。恐らく、俺やシリアじゃ、逆に消耗を早めるだけじゃねぇか? やれるのは……一人しかいねぇぜ」
「――セレス……でも……」
「セレス……。哀しみに暮れるのは後にしろ。今はここを切り抜けることだけを考えるんだ」
 リボンはあぐらをかいて、固まったままのセレスに語りかける。セレスはホンのちょっとの間喋らなかったけれど、ようやく、リボンに返事をした。
「――簡単に言ってくれちゃって、キミは……」
 消え入るような小さな声で、セレスはリボンさえも見ず、ずっと靴の爪先を見詰めていた。
「バッシュはあたしの母さんなんだ。ただの仲間と違う。キミたちとバッシュは違うんだっ!」
「ああ、そうだな」
 リボンは激することもなくセレスの顔を真摯な眼差しで捉えて静かに言った。
「どうして、怒らないのさ……。どうして、キミはそんなに優しいんだっ」
 セレスは髪を振り乱し、頬を涙で濡らしてリボンに詰め寄った。
「やさしくはないさ……」リボンは俯き、首を横に振る。「やることは判ってるだろ……?」
「うん……」
 セレスはトボトボとした頼りなげな足取りでデュレの傍らに立った。そして、セレスは剣の柄の上に置かれたデュレの手の上にさらに手を乗せる。
「……? セレス?」
「何も言わないで……。――あたしの魔力じゃどんだけ頑張れるか判らないけど、ないより、ちょっとはましだよね?」セレスは何とか頑張って、笑って見せようとしたけれど、無理だった。
「何とか、保ってる間に次の作戦を考えないと、セレスの助力を無駄にしないように」
 と、そこへあらぬ方向から剣がぶっ飛んできた。黒きサーベル。どうやら、それはレイヴンと一騎打ちを繰り広げる迷夢の剣のようだ。その剣はマリスの足下に突き刺さったかと思うと、すぅ〜っとあっという間に霧散して消え失せてしまった。そのお陰で、マリスは集中力を乱し、光弾を出し続けることが出来なくなってしまった。
「誰だ! 邪魔をするのは」マリスはいきり立って、剣が飛んできた方を向いた。
「えへへっ! あたし、あたし。ゴメンね、すっぽ抜けちゃってさぁあ?」
「……貴様。よくもぬけぬけと……」
「あ……。誰か、来たよ」
 頭に血が上って来るマリスを尻目に迷夢は飄々として言った。剣をデュレたちに投げつけたのも、今まで地下墓地大回廊になかった新たな空気を感じたからだ。自分の方はいいのだが、デュレたちの方に何かがあったら困るのだ。
「――新手がいるのか?」
 落ち着いた様子でいいながら、サムは迷夢が向いた方を向いた。すると、聖職者風の長いローブを身にまとった男が一人、しずしずとした足取りでこちらに向かっている。
「マリスさま。助太刀を」
「グレンダかっ? お前、何しに来た。魔法は大丈夫なんだろうな?」
「もちろん。呪文の山場は越えたので、取りまでに戻れば問題ありません。それに折角、サムことイクシオンもいることですしね。盛大に、歴史に残る“お祭り”に仕立てようとね」
 グレンダはマリスに返答しつつ、その面をサムに向けようとした。
「グレンダ?」サムにはその名前に聞き覚えがあった。
 比較的最近、異教徒、と言っても反協会を前面に押し出す教団のみだが、討伐の際に取り逃がしたトリリアンの総長たる男。サムはグレンダを逃がしてしまったせいで、謹慎処分の憂き目にあったのだ。ここで捕らえるか、殺してしまえば一応、名誉挽回、汚名を濯ぐことが出来る。
「……飛んで火に入る夏のなんちゃらってぇのはてめぇのことだな、グレンダ?」
「そうかな? 夏の虫はあなたたちの方だと……」
 グレンダはパンと手を打った。すると、どこに身を潜めていたのかわらわらと十数名ほどの兵士が姿を現した。見覚えるのある甲冑……だと思っていると、それは協会魔法騎士団のもののようだ。
「しばらくぶりですね。団長殿。確か……謹慎処分のはずでは……?」
「――副団長っ! てめぇ、何で、ここにいやがるんだ」
「――知れたこと。地下墓地を荒らす不届きものがいるとの通報を受けた」
「そちらの御仁も一緒だろ?」サムは顎をしゃくってマリスを指した。「そっちも一緒の扱いってんなら俺も納得してやらないでもないが、そうでないってなら、どこかおかしいよな」
 しかし、サムは副団長とは一戦を交えねばならないと踏んでいた。彼はそもそもサムが邪魔で堪らないのだ。機会さえあれば、サムを団長の座から引きずり降ろそうとしているのだから、今度のことは大チャンスなのに違いない。
「まずはお前からだ、団長殿。行けぇ、お前らっ!」
 副団長が手を振りかざし、オーバーアクション気味に指示を出すと、兵士たちが動き出した。
「はぁ……」サムは思わず頭を抱えた。「てめぇが頭なら、てめぇから来いってんだ」
 愚痴をこぼしている時ではないが、こぼれてしまうと言うものだ。サムはぶちぶち言いながら、さっきデュレにわたし床に突き立てられてままの剣を引き抜き、構えた。
「サム、背中はわたしに任せておけ」
 久須那はすっとサムの背中に寄り添った。
「ああ、頼んだぜ。と言って、天使に比べりゃ、雑魚もいいとこだけどな」
「しかし、侮っては足下をすくわれるぞ」
「その通り。よろしく頼むぜ、愛しの久須那・ちゃん」
「――こう言う時はふざけるなといつも言ってるだろう? 少しは言うことをきけ!」
「へへっ、判ってるくせによ、長い付き合いだろ? 俺はこうしてる時が本気なのさ」
「そうか? わたしはお前が本気のところは見たことがないぞ?」
 久須那とサムは互いの背中をあわせたまま、お互いにニヤリと笑いあった。