12の精霊核

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44. radical dreamers (過激な空想家たち)

 豪雨。降り止む気配は全く見せずに空全体が大きな湖か、海の底にでもなってしまったかのようだった。やがて、空気は冷たく重くなり、あらゆる事象を呑み込んでいきそうな雰囲気を湛えた。
「……セレスは無事に戻れたんでしょうか?」
 デュレは時計塔の階段を駆け下りながら、併走するリボンに尋ねた。
「済まないが、判らないとしか答えようがない。ホントのところはこの時代でオレとお前が会えただけでも奇跡かもしれないんだ。確かに、歴史的必然とも言うべきどうあっても揺るがない、最後の最後にならないと崩れない物から、些細なことで脆くなくなってしまう物まで色々なんだ」
「でも、セレスがここから居なくなったのは紛れもない事実ですよ」
「――基本的に因果律が成立するように全ての事象は動くはずだが、それは時間を一面的に捉えた場合だ。クロニアス的な時間論ではそうはならない」
「悔しいですけど、理解の範疇を軽く越えてます……」
 デュレは図らずも自らの力量不足を認めない訳にはいかなかった。
「ははっ、そんなこと判らなくても困らないだろ。……それにお前にはまだ時間がある」
 デュレはそのリボンの一言には途轍もない重さが潜んでいるような気がしてならなかった。比較的元気そうにしていたリボンがその最後のワンフレーズを言った時、ひどく儚げに見えたのだ。残り半分の切ない伝説も、バッシュが死んだ時でさえそんな表情は見せなかったのに。
「リボンちゃん、あなたは何か大切なことを隠していますね」
 それは階段の最後の一段を下りきった瞬間、デュレから発せられた。
「ああ……」そしてまた、リボンも率直に答えていた。
「訊いても教えてくれないんですよね、きっと」
「その答えはすぐに……明日にでも判る。だから、教える必要はない」
「――判りました。――これから先はマリスに集中します」
 カッ。閉じられたドアの隙間から外の閃きが漏れ、数秒後に雷鳴が轟いた。まるで、もう後戻りできないことを暗に示し、決意を促しているかのように。

「はっくしょん! あ〜。だから、雨の日の屋外ってイヤなのよねぇ?」
 迷夢は難敵・マリスを相手にしても既に自分のペースを崩すことはなかった。ここまで来ると、逆に肝が据わってしまい、後は野となれ山となれと言う気分がない訳ではない。
「やっぱ、流石よね、マリス。強いじゃん?」
「当たり前だ。小手先の技しか使えない貴様に後れをとると思うか?」
「いくらあたしだって簡単にキミに勝てると思うほどの自惚れやさんじゃないのよ」
「それくらいは……判っているつもりだ。そんなお前がわたしは怖い」
 ひょんなことを切っ掛けにして迷夢はマリスから凄いことを聞いた。迷夢とマリスは異界からの古い付き合いだったが、マリスの口から褒め言葉とも受け取れる言葉を聞いたことがない。そして、聞き返してみようかと思ったところにリボンとデュレが現れた。
「迷夢! まだ、生きてるか?」
「リボンちゃん?」瞬間、下を向いた。「しっつれいな。生きてるに決まってるじゃない。余裕もないくせに、憎まれ口をきいてたら、お仕置きしちゃうぞ♪」
「お前こそ、余裕もないくせに減らず口なんか言ってる場合か」
 この奇妙さは何なのだろうとデュレは思った。その昔、迷夢はリボンの憎悪の対象だったはずなのに、この違和感を感じるほどの気さくさは一体どういうことなのだろう。ゼフィのことは思い出になったとしても、吹っ切れたのだとしても、それは簡単に消えてしまうことなのだろうか。でないのなら、リボンが氷の精神の持ち主に思えた。
(リボンちゃん……)
「ありゃ? エルフの子猫ちゃんが一人足りないようだけど……?」
 迷夢は一瞥をくれただけで、目敏くセレスが居なくなったことに気がついた。
「セレスは帰らせた」
「帰らせたって……どこへよ? 外へ出て行くところは見えなかったよ」
「それはそうだ。時を跳躍させたんだ。外へ出る必要はないだろ?」
「はぁ〜ん。時間跳躍なんて、なかなか便利そうじゃない。あたしもご相伴にあずかって、この悪夢のような場面から逃げ出したいわぁ。土砂降りの雨、雷、もぉ、最悪。せめて、お天道様があたしを見詰めててくれたらなぁなんて思うワケよ」
「バカ言ってる場合じゃないだろ」
「いいのよ。こういう時だからこそ、おバカをやってて楽しいんじゃない。ねぇ、マリスっ」
「わたしは別に楽しくはない。普通に相手をしてくれた方がずっといいぞ」
 まともな受け答えをしているのがだんだんバカらしくなってくる。
「あ〜ら、つれないわね。折角、ご期待通り一対一でここまで頑張ったのよ。けど、これからは三対一よ。もちろん、キミに助っ人はなし! どうだっ!」
「おめでたいな、相変わらず……」
 マリスでさえも迷夢の挙動は不思議でならない。
「辛気くさいより、おめでたい方がいいでしょう?」
「まあ、何でもいい、迷夢。折角、オレたちが来たんだ。お前はお前の目的を果たせ。それが叶わなければ、オレたちのしてることが全部無意味になってしまうからな」
 リボンは不敵な笑みを浮かべた。けれど、迷夢としてはデュレと二人だけでマリスと対峙させるには不安が残る。迷夢がいくらくたびれていると言ってもやはり、デュレよりもずっと魔力的に上で、実戦経験も豊富だった。いざというときの対応力も迷夢のおかしな柔軟性と相まってデュレとの差は歴然だ。流石に自信過剰の面も否めないデュレもそこのところは心得ていた。
「……大丈夫? たった二人で……?」少々、気がかりだ。
「仕方がないだろっ!」リボンは瞳に決意を湛えて、吠えた。
「じゃあ、リボンちゃん、エルフの子猫ちゃん、ちょっと大変だろうけど、任せるからね」
 ちょっぴり心配だが、迷夢も四の五の言っていられる状況にない。迷夢は滞空姿勢から垂直上昇を果たし一気に上空に舞い上がった。マリスの視界から消え失せて、追跡不能にしてやる魂胆だ。
「そうはいかん! スパークショット!」
 正式の呪文を詠唱していないにもかかわらず、マリスの指先から飛翔していくスパークショットには非常に大きな大きなエネルギーが蓄えられているようだった。
「シールドアップ」
 デュレは迷夢の後方に無色透明なシールドをあげた。シールドとスパークショットがぶち当たった瞬間、ズシンと言う鈍い音がして、シールドは水玉のようになって屋根に落下する。
「そんな……」デュレは呆然と崩れたシールドのあった場所を眺めていた。
 そんなはずはないのだ。迷夢はマリスのスパークショットから逃れられた。けれど、やはり、そんなはずはないのだ。マリスの魔力に敵わないとは初めから思っていたが、シールドが水のように流れ落ちるとは思っていない。
「ちっ! 小癪な」
 この時点で、ようやくマリスの矛先はデュレたちに向いた。恐ろしいまでにぎらつく眼光。陽の光が届きもせずに、時計塔の灯の光だけではっきりとした怒りの感情が読み取れた。
「……しかし、別に構わんか……。異界への通路など幾らでも開けられる」
 マリスの視点は将来的なことよりも目先のことに移っていた。まずは目の前にいる二人を始末するのが先決だ。以前のようにあれもこれもと考えるとあまりよい結果にならない。マリスは遠ざかる迷夢を追う素振りは全く見せず、一直線にリボンとデュレに向けて下りてきた。
 右手に垂らした剣をゆっくりとなめらかな動作で持ち上げて、斜に構えた。
 だが、魔法で来るのか、そのまま剣で来るのか、マリスの瞳の裏側の思考が読めない。デュレは背中に気持ちの悪い汗が流れて背筋を伝っていくのを感じた。内ポケットから闇護符の一枚を取り出し、いつでも魔法を解放できるように身体の正面で構える。
「……その護符は何だ?」リボンは出来るだけ小さな声でデュレに尋ねた。
「――大したものじゃありません……。――セレスがよくやることを試してみようと思って」
 デュレは珍しくニヤリとして言い放った。そんな余裕なんてあるはずもない。けれど、追い詰められるほど、変な具合に悪戯心がむくむくと湧き上がってきた。どうせ、フツーじゃ勝てっこないのだと思ったら、奇策が思い浮かんだのだ。
「――セレスがよくやること……? 期待薄だな、そりゃ」
「そうでもありませんよ」そして、小声で。「目を瞑ってください。――キャリーアウトっ!」
 闇護符に青白い仄かな光が灯った瞬間、さらに閃光が走った。バニッシュ・アイ。雷の閃光よりも激しく、閃いた瞬間、陽の光の射し込む昼よりも明るい光に暴力的に包まれた。
「くあっ」マリスといえど、虚を突かれては対処できない。
 目を閉じ、眼前を腕で覆おうとしたが、間に合わなかった。
 今が好機だ。とはいうものの、リボンも虚を突かれた様子で躊躇した。その一瞬の間隙の後、リボンはマリスに襲いかかった。魔法関係では視力を失っていようとも関係なく防御魔法を使われてしまう。物理的な攻撃なら、シールドに妨害されない可能性が高い。
 リボンは牙を剥き、デュレは魔法を使って“闇の剣”を手に取った。
「不意を突いた気だろうが、……開け、クラッシュアイズ!」
「っ!」
 守勢に回るとばかり思っていたマリスが攻撃してきた。リボンは身軽に攻撃をかわすが、デュレはなかなかそう言う訳にはいかない。半テンポほど遅れ気味に辛うじて魔法を避けた。クラッシュアイズの光に触れて、服の袖がチリチリと焼け焦げた。しかし、ここで止まることは出来ない。リボンはタンと石畳に足を付き、再び、マリスに向かって飛びかかった。デュレはその後方になってしまい、剣を振るおうと思えばリボンを斬る羽目に陥りそうで手が出せない。
「獣は嫌いだっ!」
 マリスはぼやける視界に微かに白い物体を捉えて、右足で蹴り上げた。
「ぎゃうんっ!」リボンは悲鳴を上げ、石畳に転がる。
 その合間を縫って、デュレが出た。セレスじゃないけれど、剣術なんてまるでダメ。剣の構えからしてなってない。とにかく、デュレはマリスをちょっとでも傷つけることしか考えていなかった。少しでも怪我をさせられたら、攻撃の手が弛むかもしれない。
「フィジカルディフェンスっ!」
 ガキイィィン。斬れない。後少しでいけると思った瞬間、障壁のようなものに阻まれた。そこへ、リボンがデュレの背中を乗り越えて、さらにフィジカルディフェンスを越えるようなジャンプを見せて、マリスの顔にへばり付いた。
「こらっ! 何をする、離れろ、獣臭い、むさ苦しいっ!」
 マリスはそれなりに必死になって、リボンを引きはがそうとした。よくない予感が頭をよぎる。あの時も、こんな風にしてやられたのだ。
「デュレっ!」リボンも振り落とされないようにマリスの頭にしがみついた。
「はい」デュレは再び、闇護符を手に取った。「キャリーアウト」
 実行の合図をするが早いか、闇護符に封じられた魔力が甦り、槍に転じた。アルティメイト・ランス。闇護符のあった場所を中心にその魔力の続く限り、槍が形成されて目標と定められた物体へと飛翔する。リボンは気配で察知し、すんでの所でマリスから離れた。
 刹那、マリスは跳んだ。そして、滞空する。多少の間、視力を失っていようとも問題はない。それなりに強い魔力をもつものはその魔力によって行動を特定できる。
「デュレ、セレスと一緒に帰っておけば良かったと思ってないか?」
 リボンは息を切らせて上空に飛んだマリスを見澄ましていた。
「そんなことはありません。決して」
 デュレもつらくない訳ではない。けど、弱音だけは絶対に吐けないのだ。
 一足先に戻ったセレスだって、頑張っているはずなのだ。自分が帰るまでにはシメオンで何とか、この一連の出来事解決の鍵となる闇の精霊を見つけ出して欲しい。セレスの頑張りは考えれば、考えるほど不安になってくるけど、今は信じる他ない。
 しかし、最善の策は善後策を講じるよりも、今ここで、マリスを葬り去ることなのだ。この方法ならば、自分たちの1516年までは無事に時間線は繋がってくれるはず。異なる可能性があるのは恐らく、それ以降のことになるだろう。それで何かが変わるとしても、居場所だけは確保できる。
「その顔は……マリスを倒せたらと、本気で考えてる顔だな……」
 リボンは肩で呼吸するデュレの姿を見上げながら、ポツリと呟いた。
「ええ……。あれをもう一度試してみようと思います。……今度は闇護符ではなくて、本式に。最初から最後まで端折ることなく呪文を詠唱します……。リボンちゃん、サポートお願いします」
「……?」デュレのここまでの発言ではどんな魔法を使う気なのかリボンには判らなかった。
 そして、デュレはリボンに説明するでもなく、突然に始めた。
「永劫なる闇の彼方、かつて栄光ある神々に列せられし邪なる僕、今、我の示したる場所へ召喚せり。古の盟約により封じられし邪なる魂・テュリオムの調べをここに。調べに乗りし追憶の想いに共鳴せし、一対の眼を用いて、付随する異空への道筋を指し示せ――」
 呪文を唱え始めると同時に辺りの雰囲気が微かに転じた。雨が降り続け、気温が低く肌寒かったのが、とても嫌な風になり生暖かくなったように感じたのだ。さっきから、滞空しているマリスも何かを感じたようで、呪文を唱えるているデュレに大きな隙があるにもかかわらず、仕掛けてくる気配を見せない。リボンもそのただならぬ雰囲気から、デュレの使おうとする魔法は“禁呪”か、指定され損なったそれに類するものなのではと思い始めた。
「――おい、デュレ、その魔法は……どこで……」
「スクリーミングハリケーン!」呪文は完成した。

「さあ、光に住まう闇の言霊ちゃん、これが最初で最後のチャンスだからね。これを逃したら、その目玉、ぺちゃんこにしてやるから覚悟しておけよ」
 迷夢は独り言を言いながら、最終準備に取りかかった。補助アイテムの六本のマーカーに光を灯し、都市をその領域に含む巨大な魔法陣を形成するのだ。そこから、都市に秘められた魔力を吸い上げて、目的の魔法を行使する。
「さぁて、上手くいくかしらね?」
 楽天家の迷夢といえど、この場面で緊張しないはずがない。六本のマーカーに綺麗に灯が灯り、平均的に魔力を吸い上げられなければ、この魔法は成立しない。マーカーの位置の多少のずれは補正がきくものの、マーカーが点灯しないことによる魔力の不均衡は是正のしようがない。適当で大丈夫そうに見えるが、それなりにデリケートなのだ。
 迷夢は大きく深呼吸をして心を落ち着かせると、微かに唇を動かして、実行の呪文を唱えだした。境界補強の実行面はシメオンの魔力が担うにしても、切っ掛けは迷夢が作らねばならない。
 街に置いた六本のマーカーに灯を灯す。六芒星を形作る正三角形の頂角から時計回りに順に底角へと灯る。三つの頂点に光が宿ると頂角からやはり右側の底角に向けて光が伸び、市域全体を包み込む三角形が完成する。ついで、二つ目の三角形。全ての三角形に光が灯ると、六つの頂点を結ぶ大円が描かれた。直径が十数キロにも達する光の魔法陣が浮かび上がった。
 そして……。シメオンを包み込む外周円から淡い黄金色の光が天空を目掛けて立ち上った。
「さあ、光に住まう闇の言霊ちゃん! 今がチャンスだ。心せよ」
「承知」
 聞き覚えのある声と共に一つの目玉が中空に現れた。
「あ、イヤ、ちょっと待って、ストップ。先にマリスを何とかしないと、二の舞になっちゃうかしら。む〜。子猫ちゃん、がっちり、マリスを止めててくれたらいいんだけど……」
 迷夢は思いとどまった。確か、あの時はストリーミングブレークダウンを喰らって、あわや大惨事の有様だったのだ。しかも、今は手助けしてくれたゼフィはおらず、たったの一人。万一にでも不測の事態が巻き起こったら、対処できない。慎重の上にも慎重を重ねるべきだが、それはどうも迷夢の性分には合わない。
「ねぇ、キミ。何か、妙案ないの?」
 迷夢は腕を組んで、苛々したようにとんがった口調で言った。
「――他のことは知らん」瞳は言った。
「ちぇっ、融通が利かないな」
 半分は思考の淵に沈みつつ、迷夢は適当に返事をした。
「ねぇ、キミさ。ここまで来たら、もう、あたしがいなくても大丈夫なんだものね?」
「何人たりとも所業を邪魔しないのなら」
「ちょっと厳しいかなぁ。魔法の最中も結界の中で暴れ回ってると思うんだけどぉ……。まぁ、マリスだけには邪魔させないようにやってみるから、頑張って?」
 頑張ってくれと言われても答えようがない。虚空に浮かぶ瞳は困ったような雰囲気を醸し出していたけれど、迷夢は全く気にしていなかった。大体、あれは古代魔法で、目玉の実体を持つように思えるが、その存在自体が自立的な魔法で意思など持たないのだ。喋るからと言ってそれの言い訳など聞いていられないし、知ったことではない。
「ま、いいや。やれったら、やれ」
 迷夢は目玉に近づいていって、激しく睨み付けた。その目玉はある意味で迷夢の分身とも言えたから、使える魔力が十分にあるのなら黙っていても目的は完遂する。実際のところは迷夢が実行の指示を出してしまえば、後は放って置いても邪魔さえ入らなければ何とかなるはずだった。
 と、不意に迷夢は背筋にぞわっと鳥肌の立つようなただならぬ空気を読み取った。
 闇の領域が近づいた空気。嵐の闇に乗じてシメオンを魔界に落とそうとするものとは違う何か。
 邪とも言うべき空気に触れ、迷夢は悪寒を感じた。それが魔法であるならば、極めて危険だ。直感的にそれと判った。迷夢は“闇に住まう光の言霊”などそっちのけにしてデュレとリボンの元に戻ろうとした。その魔法は迷夢の実行しようとする境界補強の魔法にはほとんど影響を及ぼさないだろう。けれど、まずい。それがデュレの魔法なら、尚更。
「子猫ちゃん、まだまだ、経験が足りないなぁ。――とりあえず、よろしく」
 とだけ、迷夢は目玉に言うとその場を後にした。出来れば、デュレにその魔法の行使をやめさせなければならない。空気を伝わるその波動は邪悪で強力な雰囲気を遠くまで運んでいる。とすると、それは大きな魔力を必要とする出力の大きな魔法だと考えられ、術者の高度な熟練を要求する。デュレでは明らかに力量不足だと感じられたのだ。失敗すると、辺りに何も残さず無の空間が出来上がるかもしれない。
「スクリーミングハリケーン……かしらねぇ、きっと」背筋が凍るような思いだ。「リボンちゃんの魔力を上手に行使できたら最後まで行っちゃうわね、きっと」
 迷夢は可能な限り急いで、デュレたちの元に戻ろうとした。
 すると、案の定だった。間違いなく、デュレはスクリーミングハリケーンを展開している。迷夢はゴクリと唾を呑んだ。それはかつて協会の天使兵団が無敵を誇り、精霊狩りを続けていた頃、テレネンセスを廃墟にした魔法とも言われている。
「わ〜わ〜! やめっ! やめ、デュレ!」
 しかし、少しばかり遅すぎたようだった。スクリーミングハリケーンの要とも言える瞳は既に完成し、変形を始めていた。その変形自体には魔法的な意味合いはなく、見るものにいわれのない恐怖感を与えるためのものだった。それに立ちすくみ、逃げるタイミングを失った時に魔法は次の段階へと進む。一対の瞳は奈落に導く虚空へと繋がる。
 邪悪な呼び声。虚空の奥ではネットリとした闇が蠢く。生温いそよ風が闇に吸い込まれるように吹き始め、そして、始まる。突如、地面にあるありとあらゆるものと雨滴を巻き込んで吸い上げる。竜巻の如く吹き荒れる風。様々なものを虚空に吸い込む時には狭い“口”を通らねばならず、その時に奇妙に甲高い音が発せられた。それがこの魔法に“スクリーミングハリケーン”即ち、“金切り声を上げる嵐”との名が付いた所以でもある。
 そして、この魔法は簡単には止められない。
 流石のマリスもどうしようもないと見えて、かなり遠い場所から様子を見守っていた。
「ちょぉっと、デュレ。なんてことをしてるの。これ、禁呪よ。禁呪。ま、関係ないっちゃ関係ないんだけど。これはキミが使うような魔法じゃない。いわゆる……」
 息巻いて喋る迷夢にデュレは口を挟んだ。
「知っています。邪なる闇魔法。図書館の片隅で紐で縛られて埃に埋まってるのを見つけました」
「げっ……」迷夢は瞬間的に喋る言葉を見失った。「知っててやるなんて始末が悪い」
「けど、マリスの一時、撃退には役に立ったみたいです……」
「って言ったって、制御不能じゃん? まぁ、一休みできるからいいけどさぁあ? あれ、直接攻撃魔法じゃないんだから……、そもそも、あれを引っ張り出してくる方がどうかしてるのよ」
 迷夢は珍しくぎゃーぎゃーとデュレを責め立てる。
「しかも、……リボンちゃんの魔力を流用したでしょ。“色”で判る」
 と、喋っている間にもストリーミングハリケーンは拡大し、辺りのものを何でもかんでも遠慮することなしに吸い込んでいた。そう言う意味では同じ闇系の魔法に属する“サクション”と似ているとも言えたが、こちらは際限がない。
「――リミッターくらいセッティングしましたから、そんなに騒がないでください。黙ってたら、その射程にあるもの全てを呑み込んで、さらに自らも勝手に移動していく……。ただし、それを形作る魔力の供給のある限り。そして、止まる時は特に周囲に害悪をもたらさない。さっき、ずっとスモールスケールで実験してみましたから」
「はれ? 知ってたんだ」
「当たり前です。止め方を知らない魔法なんて、怖すぎて使えません。いいですか」
 そう言いながら、デュレはパンと手を打った。すると、猛威をふるっていた“穴”がまるで生き物のようにスーッと閉じていき、再び一対の目玉にその形態を整えた。そして、それは一瞬だけデュレの方を向くと、目を細めた雰囲気でひどく不満げにしているように感じられた。無論、それは魔法に過ぎないから気のせいなのだろうが、ドキリとしたことはデュレは否めなかった。
「――邪なる闇魔法はああいう意味で危ないのよ。邪なる闇に魅入られたらお終いよ。破壊力が大きいほど“邪”はキミを取り込もうとするの。それは知らなかったでしょ?」
 迷夢はデュレにそっと近づいて、耳打ちをしながら肘鉄を食わせた。
 とそこへ、マリスが距離を開けたのをいいことにリボンは手短な作戦会議を始めた。
「よく聞け、マリスを何としても地下墓地に誘い込むんだ。いいな、二人とも」
「う〜ん。あたしとしてはあんまり良くないんだけどなぁあ?」
 迷夢はおどけたような様子でえへへと笑った。
「何で?」不機嫌そうにリボンが言った。
「何でって、あんな狭い入口からどうやってあんなのを連れ込むのよ。そんなのよりさぁあ? みんなの魔力を合体してここでマリスをやっつけちゃわない?」
 と言いながらも迷夢は十中八九無理だろうと考えていた。現時点では、千二百年前にマリスを氷に封じた時の戦力すらないのだ。仮にリボンが氷の精霊王にのみ伝えられる“封魔結界”を使うにしても、まずマリスの魔力を十数分の一までは抑えなければならない。同時に迷夢は異界と現世の境界面補強魔法を実行する離れ業を演じるとしても、最終的にはデュレ一人で暫くの間マリスと対峙しなければならない時機がある。久須那でさえ、マリスとの一対一では戦いきれないというのに、デュレではどうにもならない。
「――地下墓地に何を仕掛けたんですか?」デュレは問う。
「封魔結界の下準備。本来、下準備なしにやるものじゃないんだ。――だが、オレも正式に継承したワケじゃないからな……。所詮は我流、付け焼き刃さ……」
「ない頭を寄せ合って、何をこそこそとやっている」
 と、遙か頭上からマリスの声が聞こえたかと思うと、すぐ近くに下りてきた。態勢を立て直しにそのままアルケミスタに帰ってもよかったが、面白いものを見てしまった。百パーセント全てがデュレの魔力でないことも見抜いていたが、それでも大きな興味が頭をもたげた。
「誰がない頭ですか! 失敬な」恐怖心を抑えて、腹だしさが先に立った。
「ふん……。まだまだ、余裕がありそうじゃないか」マリスは舌なめずりしそうな勢いで、口元を微かに歪めていた。「……たかが小娘と思っていたが、思った以上にお前は出来るな? デュレ」
「……」デュレは無言のまま、歯を食いしばってマリスを睨んだ。
「思い切って、わたしと手を組まないか?」
「お断りします」
 デュレは間髪入れずにマリスの申し出を断った。ちょっと考えてみると、マリスの懐に飛び込むという意味では申し出を受けた方が良かったのかもしれない。防御する暇を与えずに攻撃を仕掛けられる。しかし、その為には……敵を欺くにはリボンや迷夢を欺かねばならい。と思えば、リボンはまだしも迷夢を欺くリスクを負う気にはならなかった。迷夢が感情的になって、自分自身が襲われてしまうかもしれない。それは冗談ではない。
「何だ、マリスと手を組まないの?」迷夢。
「な、何を言い出すんですか?」
「う〜ん、だってさぁあ、どう考えたって勝算はマリスにありそうなんだもの。君はまだ若いから、長生きしたいんじゃないかなぁって」
「リ、リボンちゃん、迷夢があんなことを言ってるけどいいんですか?」
 デュレは迷夢の思わぬ言葉に狼狽えた。
「……デュレがそうしたいなら、オレは止めない」瞳に真摯な煌めきを宿し、リボンは言う。
「あ〜ら、妙に物分かりがいいじゃない? この前までちいちゃな子犬ちゃんだったのに」
「茶々を入れるな。オレは至って真面目だぞ。それに狼」
「リボンちゃん……、あなたは本当にそれでいいと思うんですか?」
 リボンはじっと何かを訴えかけるかのようにデュレの少しだけ潤んだ瞳を見詰めていた。作戦行動? マリスに勝とうと思うなら、普通では足りない。けれど、全てを投げ捨ててマリスの側にくっついたとしたら、一体どうなるだろう。
 そして、それがもし、マリスに隙を作らせることになったら。しかし、デュレにはそれを見越してマリスは仕掛けてきたのではと思った。リボンと迷夢があからさまな態度をとり、それがどんな意味なのかデュレに通じたのだから、マリスが気が付いていないはずがない。けれど、例え、そんな状況下だとしても、起死回生の一撃に繋がる可能性を秘めている。
「罠だと思うか、それとも貴様がわたしを罠に陥れるのかな?」マリスはクスリと口元を微かに歪めた。「……別段、それでも構わないぞ。今、この時を切り抜ける最良の選択をするといい。取り入った振りをして、襲うもよし。わたしと共に世界を手中に収めるのもいい。選択権は貴様にある。ただし、貴様がイエスと言わなければ、まとめて地獄行きだ」
 それはドミニオンズの圧倒的なパワーを背景にした脅迫に他ならなかった。
「……再度、問い直します。あなたの真の目的は何なんですか? 何にそこまで固執して、どうして、わたしたちに戦いを挑むんですか? あなたに……戦う理由なんてないはず……」
 再度の辺りでは自信なく口篭もり気味にデュレは言った。
「手に入れたいものがある。失うものは何もない。その“もの”を手に入れ、発展、維持するためにかつての仲……いや……」マリスは首を横に振った。「敵は滅せねばならない。将来、邪魔になる存在はここで滅ぼし、昔、失ったものを取り返す」
「それは……」デュレは好機と見て、それとなく尋ねた。
「――そこまで答える義理はないな。しかし、“白紙”の貴様なら我が帝国に迎えてもいい。例え、わたしを討つという目的を孕んでいるにしろ、根元的に貴様の目的ではないだろ? それはシリアの目的であり、他の誰の目的にもなり得ない」
 険しい眼差しのうちにマリスは語る。デュレはマリスの瞳に吸い込まれそうになる。マリスは少なくとも間違ったことは言っていない。歴史、ジーゼのところへ帰るという命題を破棄したら、もはや、リボンたちに汲みする理由など綺麗さっぱりなくなってしまう。
「しかし、歴史は……」
「歴史などどうだろうと構わないだろう。貴様が今ここに居る以上に重要なものはない。貴様がどこから来たのか、貴様らが正しいと認める歴史が何なのかなどには興味はない。……もし、貴様がこれから先の道筋を知っているのなら、同じ轍を再び通るのはつまらないと思わないか?」
 何故、マリスの言葉が自分の胸を打つのかデュレは不思議でならなかった。レイヴンの肖像画。その仲間たちを取り返し、新しい仲間たちを守る戦いを始めたのではなかったか。けれど、それよりもマリスと共にあった方が自身の欲求、好奇心を満たせるような気がしてならない。
 もしかしたら、自分は崩壊の序曲を聴いているのかもしれない。迷夢とリボンの元から離れ、マ
リスの傍らに並んでその手を握れば、崩壊のメインテーマを聴いてしまうのかもしれない。
「さあ、どうする? チャンスは二度ない」
 迷うことのないはずの問いに、デュレは惑っていた。起死回生の一撃を探して、マリスと手を組む振りをするのか。それとも、本当に自分はマリスの言うことにほだされてしまっているのかも。ただ、一つだけはっきりしていたのは回答のチャンスは一度きり。
「――リボンちゃん、迷夢……。これでお別れです……。わたしはわたしの道を……」
 デュレは振り絞るような声色だった。
「――闇の力が手に入った。光と闇の領域を自在に操れれば、怖いものはない」
 その言葉は端的に多くのことを語っていた。現在までに知られている十二種の精霊の中で、光と闇はほぼ同率で最高位に属する。基本的に精霊間に上下関係はないのだが、それら光と闇の精霊力を行使できることは様々な面で優位に立てることを意味しているからだ。
 マリスはデュレを抱き抱えると、ふわりと軽い動作で舞い上がった。その間も、互いに険しい眼差しのままデュレとリボンは見つめ合っていた。そこには言葉では伝えられない思考の淵が見え隠れする。デュレの思惑はリボンには届いた。
「何でもかんでも、自分一人で背負い込みやがって――」
「決着はお預けだ」マリスは言った。「わたしも犬死にはしたくないからな」
 それだけを言い残し、マリスはどす黒い空の彼方に見えなくなった。
「ちょ、ちょっとぉ、どうするのよ。あれぇ」
 迷夢はリボンの前にしゃがみ込んで、その頭をポンポンと叩いた。
「なぁに、心配はいらないさ。あいつはあいつのやり方をする。――唯一の問題点はデュレの行動とオレたちの行動のタイミングを完璧に同調できるか否かにかかっている。どのみち、明日のお昼までには決着は付くんだよ。オレたちが勝っていようが、負けていようがね」
「そうなんだけどさぁあ。出来ることなら、勝ちたいじゃない?」
「まあな……。それより、お前の目的はどうなった?」
「うん? 多分、もう、放って置いても大丈夫。勝手にやって……。あ……。マリスとデュレが結界の外に出て行った……。そう! 万里眼よ。こういう時に使ってみたい!」
 迷夢の魔力と魔法陣の外周に張られる形になる結界はリンクしていた。だから、そこを触れようとするものや、通り抜けようと働きかけるものがあれば迷夢に伝わるのだ。その結界も破るのは容易ではないはずなのだが、マリスには結界も結界としての役割を果たせなかったらしい。
「恐らく、アルケミスタに戻ったんだろう。態勢を立て直して再び来る」
「どうして、そうだって判るのよ。シメオンに天候制御魔法にプラスαがかかってきてるのよ。……ホラ、サムが魔力をとられたって言ってたじゃない。本格的に魔界……魔都を作り上げる魔法を始動する気よ。そしたら、マリスは戻ってくる必要なんかないんじゃなくて?」
「それでも、マリスは来るよ。デュレと一緒に。何故なら」
「何故なら、何よ? すぐ、勿体ぶる癖はやめなさいよね」
「マリスの性格はお前の方がよく知ってるんじゃないのか?」リボンはつと瞳を迷夢に向けた。
「冷酷を絵に描いたような女。時と場合によるけど……?」
「将来にわたる邪魔者をのうのうと生かしておくはずがない。だろ?」
 リボンと迷夢はトボトボと地下墓地大回廊へと足を向けた。先程、サムと久須那に頼んだことがどこまで出来たか確認しなければならないし改めて作戦を検討しなくてはならない。全てのことに最終局面が近づいて、あれこれを無理なく、滞りなく遂行しなければならない。
 二人はさっき出てきた、物置小屋のような入口から地下墓地に戻った。出来ることなら、ここからマリスを逃がすことなく、そのまま仕留めたかった。が、全てに決着がつい付いてしまう前にどうしても、久須那の絵を1516年に運ばなければならなかった。
 リボンは墓石に寄りかかって佇む、サムと久須那を見つけるとすぐに声をかけた。
「――サム、あれの準備は出来たか?」
「出来たぜ、一応な。しかし、てめぇもよ、随分えげつないことを考えるよな」
 一瞥すると、さっきと変わらないただの墓地だ。けれど、サムと久須那の共同作業によって、仕掛けが施されていた。その仕掛けとはこの墓地にある協会の僧侶たちの残留魔力を使って、封印を施す足しにすること。かつて、ドローイングにて久須那を封じた方法とも似ている。圧倒的な魔力を有するものを封じるには、封じる側にも大きな魔力を必要とする。その足りない分を墓地に眠る聖職者たちから借り受けるのだ。
「……構わないだろ? と言うより、仕方がないだろ。そうでもないとマリスの動きは封じられない。そして、そもそもここはそう言うことをするために作られた場所なのさ」
 リボンは広い空間をぐるりと見渡した。
「誰にだ?」久須那のシルエットスキルがリボンに尋ねた。
「かつての主流派、シオーネ派の連中さ。マリスを封じるのに使うつもりはなかったと思うが、結局、こういう邪道とも言える使い方になってしまったな」
「ま、ただ朽ち果てるだけよりはいくらかはましに違いねぇさ。へっ、マリスの墓にゃぁちーとばかり立派すぎるような気がするがね」
「そんな軽口なんか叩いてたらさぁあ? あたしたちの墓場になるよ?」
 軽口の代名詞のような迷夢がサムにいちゃもんをつけた。
「一番の軽口たたきはてめぇだろうが」
「あら、あたしはいいのよ。あたしは喋らないと調子が出ないんだから」
「――ちょっと待て、マリスはどうした? デュレとセレスは?」久須那が口を挟んだ。
「セレスは向こうに返した。デュレは……デュレはマリスと一緒だ」
「どういう意味か、判りやすく説明してもらえるか?」
 久須那は落ち着いた口調の中にも、刺々しさがしっかりと埋め込んでいた。しかし、リボンにもそう簡単に説明できる類のことではなかった。もちろん、リボンはデュレのことを信用している。何よりも目と目で通じ合った最後の作戦なのだから、きっと、リボンが思った通りに事は運ぶだろう。けれど。そう、そこには“けれど”がつきまとっていた。