12の精霊核

←PREVIOUS  NEXT→

60. say word only once(一度しか言えない)

 全員が呆然とした虚脱状態でマリスが消えた辺りを見詰めていた。本当にこれで終わったのだろうか。あれだけの戦いを繰り広げて、こんなに簡単にお終いになったとは考えにくい。ひょっとしたら、バニッシュを使って隠れただけなのではないだろうか。と疑いたくなるくらいに信じがたいこと。あまりに呆気なさ過ぎるような気さえしてくる。
「これで本当に終わったんだよね……?」セレスは確認するかのように問う。
「……終わったと思いたいですね……」
 デュレはつとセレスの傍に歩み寄り共に同じ方向を見詰めた。
「……あのマリスちゃんの最後にしてはあっけなかったねぇ。最後の最後までもっとだだをこねると思っていたんだけど。流石のマリスちゃんもあの娘の魔力には敵わなかったのね。あ、そうそう、今から、キミはロミィだっ!」
 迷夢はセレスの手のひらの不死鳥に向かって言った。しかし、その不死鳥の雛は魔力を使い切って疲労しきってしまったのかスヤスヤと眠っていた。
「ねぇ、迷夢。それ、こんなにちびちゃっこいのにメスだって判るの?」
 セレスがロミィの羽をそっと撫でながら、感心したように言った。ロミィが生まれてからずっと持っているセレスにも性別なんか全然判らない。ただ元気一杯で、オスなら腕白小僧、メスならお転婆娘だろうかと想像を巡らせるにとどまっていた。
「うん? 知らない。でも、玲於那もマリスも女の子なんだから、この子も女の子でしょ?」
 あっけらかんと迷夢は言う。その根拠のない自信がどこから湧くのか不思議でならない。
「……万一、オスだったらどうするつもりなんですか?」
 デュレが言い、その横でセレスがうんうんと大きく頷いていた。
「ん? それでもやっぱり、ロミィに決まってるじゃない。オスでもメスでもロミィはロミィなの。今更、名前を変えるなんてダメよ。この娘が混乱するだけでしょ?」
 正論といえば正論でデュレは反論できなかった。迷夢は変なところで強情っ張りということが発覚した。これがよいと思えばひょいひょい大事な考えを変えるくせに、どうでもいいこととなるとどうしようもないほどにカチンコチンだ。
「それで……そのロミィはどうするんですか?」
「あ〜ん? さっき、決めたじゃない。この娘……ロミィはセレスに預けるって。もうすっかり懐いちゃってるみたいだから、引き離すのも可哀想でしょう?」
「ですけど、セレスに預けて、ちゃらんぽらんに育ったらどうするつもりですか!」
「あら? そんなつまんないことを気にしてるの? 大丈夫だって」迷夢は妙なテンションでデュレの背中をバシバシ叩きながら、返事をした。「その娘がいたら、逆にセレスのちゃらんぽらんさが矯正されるわよ。不死鳥のパワーをなめちゃダメよ」
「あの〜、あたし不在のままそっちで勝手に盛り上がらないで欲しいんだけど……?」
「細かいことよ、気にしない、気にしない」
「いや、『気にしない』って、あたしのことじゃん? 本人を目の前にしておいて、気にするなはないじゃないの。あたし、めちゃめちゃ気になる。ロミィがいたらあたしが何だって?」
「セレスの難儀な性格が“多少”は矯正されるんじゃないだろうかって」
「あ、あたしのどこが難儀だって言うのよ。ステキでしょ? フツーでしょ?」
 セレスは澄ました顔でのたまうデュレに食いついた。戦いの余韻などすっかり消し飛ばし、デュレをとっちめる方向に意識が向いた。となれば、黙っているデュレではない。矛先が自分に向いたのなら遠慮はしない。
「どうしようもないくらいに難儀でしょ。ちょっと突っついたくらいでいちいち、逆上するんですもの。それに――常識なしの単細胞だし……」
「にゃにお〜。も〜、我慢できない。キミなんか……知ら……」
「――でも、いいところもあるんです……」デュレは声のトーンを急に落とした。「短気ですぐカッと熱くなるけど、セレスはいつも同じ方向を向いています。――どんなことがあっても負けない強い心と強い意志……。それがあるから、わたしはあなたのことが大好きです」
「い……?」セレスは思いもかけないデュレの一言に顔を引きつらせた。
 それなりに長い付き合いの中で、ここまで言われたことはない。断片的に認められたり、褒められたりしたことはあるが、こんな事は初めてだ。セレスはあらぬ事態に驚きは隠せない。
「あ〜え〜、頭を強打したんじゃなくて?」
「言うに事欠いて何ですか!」デュレは激怒した。「セレスのことなんてもう知りませんっ! 迷夢さん、あっちに行きましょう。こんな分からず屋なんて、放っておけばいいんです」
 デュレはセレスに侮蔑の表情を向け、迷夢の腕を引っ張りながら行ってしまった。ただ一人、その場に取り残されたセレスには事態がさっぱり呑み込めずにポカーンとしてしまっていた。
「――こんな事があったばかりだというのに、あいつらはタフだな」リボンは微笑みを浮かべ、デュレやセレスたちのやりとりを見ていた。「――それとも淡泊なのか、物忘れが早いだけなのか……。だが、どちらにしても頼もしい奴らだ――。あいつらがいなかったらどうなっていたか……」
「決着はまた先に伸びていただろう。――或いは……違う結末を……」
「――考えたくないことだ……」
 リボンは行ってしまったデュレと迷夢の背中を追い掛けるセレスの背中を眺めていた。それを見ていると、ついさっきまでマリスと戦っていたことなど幻のように思えてきた。まるで、セレスと出会ってからずっと何事もなく、フツーにトレジャーハンティングに付き合ってこのシメオンに来ただけ。そして、闇の精霊と不死鳥を仲間にして帰途につくのだと。そう思いながら、リボンはただジッとマリスが逆召喚されたあとを見詰めた。余韻に浸りたいのではない。ただ、感慨深いのだ。長年の宿敵とも言えるマリスを倒したのだから。
「……終わったんだな……」リボンは水滴が零れ落ちるかのようにポツンと漏らした。
「――終わったよ。もう、夜の闇を恐れる必要もなくなったな……。うぐっ」
 久須那は地面に片膝をついた。少しは苦しいとはいえ、さっきまでは耐えられていたのに。僅かに息苦しい感じから、急に肺が鋭利なもので突き刺されえぐられたような痛烈な痛みが走った。久須那は胸を押さえただうずくまる。呪詛が進行しているのだ。マリスがいなくなっても、一度施された呪詛が消えてなくなることはない。対象を呪い殺してしまうまで止まることはない。
「久須那! 大丈夫かっ」
 リボンは慌てて、久須那を支えようとした。が、それよりも先に大きな手がヌッと現れて地面に倒れそうになる久須那を支えた。サムだ。久須那は優しく久須那を抱えるとそのまま地面に座った。毛布も何もない。それ故に、冷たい地面に直に寝かせることは出来ない。それならば、ごつごつしているかもしれないが、崩れた石畳の上よりは自分の膝の上の方がずっとましだと考えた。
「……まだ、耐えられそうか……?」
「――判らない。今日かもしれないし、明日かもしれない。呪詛なんてものをかけられたのも今度が初めてだからな。――これも……運命の織りなす物語の一ページ。呪詛を解けるヒトがいない限り、わたしも……これまでだな」
 久須那のどこか淡々とした口調の言葉はサムの胸をギュッと締め付けた。夢にまで見た因縁の女性と“本当”に出会えた。それなのに会ったばかりでもはや、別れの危機だとは哀しすぎる。
「――弱音を吐くんじゃねぇ」
「――バカ……。わたしは弱音など言っていない。事実を言っただけだ……。わたしだって、――まだ、死にたくはないんだ。やっと、お前と話せたんだぞ。……まだ、話したいことはたくさんあるんだ。こんな……呪詛になんか取り殺されてたまるか」
 久須那はサムの胸ぐらをギュッと掴んで泣き出しそうに潤んだ瞳でサムを見上げた。
「――判ってる。どんなことがあっても、絶対に俺がてめぇを死なせたりしねぇ」
「安請け合いなんかするな……。お前はいつもそうだ。出来もしないくせにそうやって、そうやって請け合って、期待をさせて……、哀しませるんだ」
 久須那の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
「……出来なくて哀しむのは俺さ……」
「サム――、わたしはお前にそんな思いをさせたくないんだ。お前には判らないかもしれないが、……あんな、打ちひしがれた思いなんてさせたくない。だから、わたしは死にたくない。――死ねないんだ。わたしはまだ、お前と別れたくない」
「――俺もだよ。てめぇは俺が夢にまで見るくれぇなんだぜ? てめぇは“特別”なんだ。ずっと焦がれたんだ。離さねぇ、てめぇはぜってぇに離さねぇ。死を司る神がてめぇを欲しいというのなら、俺がそいつをぶちのめしてやる」
「はうぅ……っ」
 久須那は胸を押さえて、呻いた。苦しい。千数百年ぶりに自分の足でこの地を踏みしめた時よりもずっと。自分でも判る。対マリスのために魔力を使いすぎ、呪詛の進行を鈍らせるだけの魔力も使い果たしたのに違いない。時間の問題だ。やっと、生きているサムと出会えて、これから、たくさんの未来が待ち受けているつもりになっていた。けれど、現実には……。
「久須那っ!」サムは久須那を抱き抱えて、出来るだけそっとなるように揺すった。
「はぁ、はぁ。マリスは……異界に帰ったんだ。もう、戦う必要なんてない……。だから、こんなところで……。はぁ、はぁ……。お前と二人で生きていたい……」
 久須那はサムの手を取って、握り締めた。
 と、セレスは和やかになった雰囲気ににわかに緊張が孕まれるのを敏感に察知した。それと同時にデュレは久須那の身に何が起きているのかまでハッキリと判った。
「――向こうで、サムと久須那が……」
「久須那さんにかけられた呪詛が進行してるみたいです。出来るだけ早急に解呪を試みないと……」
 切羽詰まった表情でデュレが言った。久須那の封印を解いてからずっと危惧していることだった。止まっていた時が動きだし、久須那の身体を蝕んでいるのに違いない。けれど、それを取り除く手立てがデュレの手の内にはないのだ。封印破壊魔法やスクリーミングハリケーンを使えても、久須那が辿り着こうとしている死の淵に手を伸ばすことすら出来ない。
 デュレはまるで何者かに引き付けられるかのようにサムと久須那の元に歩み寄ろうとしていた。そのあとを困り切ってしまったかのようなセレスがついていく。さらにその頭の上にはロミィが巧みにバランスをとりつつちょこんと収まっていた。
「……その解呪を出来る人はいるの?」セレスが不安げに問うた。
「……」デュレは静かに首を横に振った。「リテールにはいないそうです。呪詛なんてもともとずっと東方のものなんですよ? リテールの魔術師で呪詛を……しかも、解き方を知っている人なんか……一握りもいないんです。わたしが封印を解かなければ、こんな……」
 デュレは悔しさを滲ませて歯を食いしばった。
「お前は……正しいことをしたんだ。――悔やむことはない」
「いいえ……。間違ったことをしなかっただけで、正しいことはしていません……」
 久須那もどう返していいのか判らないかのような困惑した表情を見せた。デュレの気持ちを少しでも軽く重責から解放してやりたいのだが、デュレ自身がそれを拒んでいる。
「……デュレ」サムが口を開いた。「久須那の言う通りだ。てめぇに非はねぇ。だから、自分のそんな責めるんじゃねぇ。それにな。……てめぇはそうやって自分を責めていれば、いつか気持ちが楽になるかもしれねぇ。だが、それはただの歪んだ自己満足だ。……久須那の気持ちを第一に考えてみたら、どういう答えになるかよぉ〜く考えてみろ!」
「――サム、そこまで言ったら酷だろ……。デュレは一生懸命やっていたのだから」
 久須那は切れ切れの息で辛うじて言葉を繋いだ。辛い。だけれど、自分の抱いている思いだけはしっかりとデュレに伝えておかなければならないと久須那は考えていた。
「そこまでは否定しねぇ。けれどよ、てめぇの考えは間違ってるだろ? とそれだけ言いたいのさ。“わたしのしたことは間違いだった。正しいことではなかった”なんて言って欲しくねぇ。ヒトをまとめて引っ張っていくなら、例え、黒でも白だと言い切れるくらいの気概を持て」
 サムの発言にデュレは立ち尽くした。
「でも……、間違っていたことを間違っていたと素直に認めることは――」
「それもいいさ。だが、てめぇは真面目すぎるんだよ。それが時として、他人を傷つける」
「サム。デュレはまだ若いんだ。あまり追い詰めるな……」
 久須那はそっとサムをたしなめるようにように言った。

 ジーゼは水色の欠けらを首からさげ、シメオンへの旅路を急いだ。全てを終えて、みんなが帰ってくるのを待っていては間に合わない予感がする。久須那と会いたい。遠い昔のあの日に別れてから、二度と会うことの叶わなかった久須那と。
 ジーゼは水色の精霊核の欠けらを左手でギュッと握り締めた。
(……久須那……、どうか、無事でいてください……)
 千五百年の時を越えて再会できる。久須那は自分のことを覚えていてくれるだろうか。そんな不安がないではない。再会の約束をしていたとはいえ、共有した時間は僅かに過ぎないのだから。
 それだけの思いを抱えるジーゼの隣には旅のお供、サラフィからリテールを訪れた少年が一人。
「……ここが噂に名高いシメオン遺跡ですか……?」
 少年は初期協会の設立から現主流派のレルシア派形成を眺めていた都市の成れの果てを見澄ましていた。ロマンを感じる。自分の知らない遠い昔の出来事をこの廃墟になった街は知っているのだ。そう思えば、初めて来たこの場所にときめきを感じてしまう。
「この遺跡は東方でも知られているのですか……?」
「ええ。十三世紀末に天変地異のようなことが起こり、瓦礫の山になってしまったと」
 と言うことはつまり、申もことの真相は知らないのだろう。全ては伝説の向こう側に消えている。こんな異常な出来事もリテールを遙かに離れると街が滅んだという事実のみしか残らないのだろう。
「ここで何が起きたのですか……?」申は好奇心を露わにして尋ねた。
「……いずれ、語るべき時が来たら、語りますよ……。それまでは……ね……?」
 ジーゼは敢えて、自ら話そうとはしなかった。語るには哀しいことが多すぎる。ジーゼがエルフの森で生まれてから経験した数多くの出来事の中で最も切なく哀しい、そして、美しい思い出もここに集中している。
「――ジーゼ……?」淋しげなジーゼに申はそれ以上、問えなかった。
 瓦礫の積もる道筋をみんなの姿を手繰りながら、歩いていた。魔都と呼ばれたシメオンの中で、手掛かりもなく人を捜すのは容易ではない。けれど、ジーゼにはそれが出来る。滅んだ瓦礫の中で辛うじて小さく芽吹くことの出来た草の“ネットワーク”を通じて情報を得、その情報を頼りにしながら、尋ね人の所在を明らかにしていく。
 サワサワと風に揺れるささやかなネットワークで集められるだけの情報を集める。
 そして、見付けた。十人にも満たない小集団がいたのだ。人口はゼロのこの街に“今”いる集団など限られている。間違いなくセレスや迷夢たちのいる集団だろう。その予想を確信に変えたのは頭一つ低く見える人物の背に見える黒い翼、さらに地面に横たわっている白い翼の天使だった。
「久須那! 久須那なんですねっ?」
 ジーゼはほとばしる感情を抑えきれずに駆けだした。そして。
「――久しぶりだな、ジーゼ。何とな〜く、大人びた雰囲気になったかな?」
 サムは背中を向けたまま答え、それからくるりとジーゼの方を向いた。
「……イクシオン……。サムッ! あなたまで、還ってきてくれたんですね……」
 むせび泣きそうになってジーゼは両手で口元を押さえた。エルフの森は輪廻に通じる。遠い昔、この地に鐘楼のある屋敷があった頃から。そこは何かが“特別”だったのに違いない。草原が森になり、そこに残った強い思念がジーゼを生んだ。
「ああ、本当なら向こうのてめぇにも会っておくべきだったのかもしれねぇが……。何か、行きにくくてよ。てめぇには世話になったし、あれなんだが……」
 サムの告白にジーゼは首を左右に振っていた。サムが再び、自分の前に現れただけでも十分に嬉しくてそれ以上のことは気にもならなかった。ジーゼはいつの日か、サムや申が還ってくると信じて、長い間、捜し求めて続けている間には全く消息、気配さえ掴めなかったのに。サムが今、自分の目の前で久須那を膝枕しているなんて。
「そんなことない。でも、どうして。あなたがこの時代に生きている気配はなかったのに……」
「十三世紀末から時を越えて、ここに来た。……クロニアスがお目こぼししてくれた……んだと思う。まだ、来たばかりだからな。それで判らなかっただけだろう?」
「でも、来たばっかりだとしても、必ず見付けられるはずなのに……」
 ジーゼにはそれくらいの自信はあった。ドライアードや精霊の持つ独自のネットワークは感度も高いし、情報を集めるスピードも人間の持つそれを遙かに凌駕している。けれど、サムの言うように高位精霊とも言えるクロニアスが関与していたなら、そう言うこともあり得るかもしれない。
「詮索するのはあとにしねぇか? 今は……久須那が先だ……」
 サムはジーゼの心中を思いはかって遠慮がちに言った。そのサムのささやかな心遣いとは裏腹にジーゼは特に気に留める様子もなくフツーにしていた。千年以上の時を経て、今更ゴタゴタと抜かすほど狭量ではない。それよりも、サムが生きていただけで十分すぎるくらいに満足なのだ。
 ジーゼは暖かな眼差しをサムと久須那に向けると、少し所在なさげに佇んでいた申に声をかけた。
「……申、こっちへ……」
「はい……」その時が来たのだと、ジーゼの険しい視線で申は悟った。
 申は少しばかりおっかなびっくりに前に進み出た。すると、居合わせた面々の眼差しが一斉に申を見た。注目度百パーセント。山のお寺で修行していた時にはこんなにまでマジマジと見られたことはない。周りは修行僧ばかり。客もほとんどなく、己の鍛錬に忙しい彼らは必要以上に人を見ることはない。
「――申、久須那を頼む。……久須那を助けられるのはてめぇしかいねぇんだ」
 申は頷くと、薬箱を地面に置いた。それから、久須那の額にそっと手を置いた。瞳を閉じて、精神を集中する。呪詛は術者のパワーが被術者に乗り移るようなところがあるので、その身体に触れることによりどのくらいのレベルの呪いがかけられているかおおよその見当がつけられる。
「……この呪詛はかなり高度なものです。ぼくに解けるかどうか……。……でも、サラフィのお師匠さまなら、間違いなく解けると思います」
 申はスッと顔を上げ、真摯な眼差しで一同をぐるりと見渡した。
「サラフィまで行っている時間はありません。寸刻を争うんですっ!」
 デュレは噛みつきそうな勢いで申に言った。そんなことを言っては申を萎縮させるだけだと心のどこかでは思っていても、自分の心を抑制することが出来ないでいた。
「でも……、ぼくには自信がありません……」
「申なら大丈夫……。きっと、できます」
 ジーゼは申の肩を優しく抱き留めた。
「ジーゼさん……」
 解呪の知識を持っているのがこの場に自分一人だけなら、やはり期待に応えるべきなのだろう。他に助けを求めても手遅れになってしまうと言うのなら、自分がやるしかない。
 申は意を決した。修行では、数え切れないほどの解呪を試みたが、実際にヒト……しかも、天使にかけられているのを解くのも、これ程までに強力な呪詛を解くのも初めての試みだった。申の師匠でさえここまでのことは出来なかったし、何より、常人が“これ”をまともに喰らっていたら、即死なのは疑いようのない事実だった。
 申は薬箱の引き出しを開いて、お札を取り出した。解呪を試みる。その時、申は自分でも経験したことのない重圧に押し潰されそうになっていた。自分が解呪に失敗してしまったら死んでしまうかもしれない被術者。そして、申に大きな期待をかけるギャラリーたち。
「し、失礼しますっ」裏返った声が出てしまう。
 申は緊張に震える手でお札を久須那の額に貼り付けた。それは闇魔法の闇護符に似ていなくもないが、小さなところでかなり異なっていた。お札には闇護符の魔法陣の代わりに経文のようなものが書かれていた。
「いいですか、どんなことがあっても出来るだけ、心を平穏に保ってください……。焦りや不安を感じていては上手くいきません。それこそ、呪詛の進行を早めることになってしまいます。信じてください……。必ず成功すると……」
 とも申は言いつつ、確固たる自信はなかった。しかし、術者の自分から信頼を築けないようではこの試みは成功しない。申は心中にある大きな不安を何とかそこだけに押しとどめようとした。
「――申、お前こそ、……緊張しすぎだろう? もっと、リラックスを……」
 見透かされている。申は久須那の指摘にビクッとホンの僅かにだが、身を震わせた。確かに、度の越えた緊張でカチコチの上、指先は微かに震えたまま止まらないでいた。
(お師匠さま――。ぼくに力を貸してください――)
 自分自身で手を握り締め、スッと開いた。自分自身の能力を自分が信じなくて誰が信じるのだ。
(大丈夫、必ず出来る。今この時のために厳しい修行を積んだと思えば……)
 申は再び、お札の上から久須那の額に手をかざした。自分を信じることからしか、始まらない。こういったものは精神力の深く依存するので、例え根拠のない自信でもないよりあった方がいい。その思い込みが本来の自分以上の能力を発揮させることがある。
 神経を集中し、持てる力の全てを注げば必ず成功する。
「気を楽に持ってください」
 誰の気を楽にするのか判りはしない。そんな中で解呪は始められた。解呪に詠唱すべき呪文はない。呪術も幾つかの系統に分かれ、書物も著されているが、呪いとは魔法よりもより曖昧であり、確実に体系化されたものではない。そう言う世界では精神力がものを言う。呪詛の元となっているものを探り当て、封じ取り除く。高度な技術が要求されるだけに経験不足の申には難しい。となれば、心の中に不安が頭をもたげ出す。
 それでも、申は久須那のアドバイスに従ってなんとか平静さを装った。
 自分のパワーが術者のそれに及ばなければ、呪詛を打ち払うことは出来ない。申の額から汗が流れ落ちた。派手さのない静かな戦いが繰り広げられているのだ。ゆっくりと呪詛を支える魔力をそぐことでしか、解呪は出来ない。ひとかけらの魔力が残っているだけでも長い目で見ると呪詛は進行してしまうほどに厄介なのものだ。全てが上手くいったと思った後も、申は念入りに呪詛の痕跡をチェックした。
「――もう大丈夫です。――呪詛は無事に解くことが出来ました」
 成功が判った瞬間、全身の力が抜けていくのを申は感じた。
「申……、お前が来てくれて本当によかったよ……」久須那はしみじみと言う。
 身体が楽になった。胸の刺すような痛みも収まり、苦しかった息がウソのようになり深呼吸も出来ぼる。誰にも出来なかった解呪が東方は退魔師の申によってなされた。この少年の退魔師としての実力はかなり高いのは疑いようのない事実だろう。
「――ああ、俺はまさか、てめぇと会うことになるとは思いも寄らなかったぜ。……久須那からはよく聞いていたからな。てめぇがいたから森は残った。――しかしよぉ、てめぇ、東方はサラフィから……遙々、遙か西方、リテールの地まで来るたぁいい根性してるぜ」
 サムは久須那を抱き抱えたまま、しゃがみ込んだ申の肩をポンポンと優しく叩いた。
「……ぼくもそう思います……」
「ははっ、てめぇもなかなか言うじゃねぇか!」
 ようやく、色々なものが戻ってきた。サムや申、呪詛を解くことの出来た久須那を遠巻きに眺めながら素直にリボンは思っていた。無論、全てが戻ってくることはない。けれど、取り戻せた日常が愛おしいことには変わりはなかった。
「――ロミィはすっかりそこが定位置なんですね?」
 デュレの声が聞こえて、リボンはゆっくりとそちらを向いた。すると、セレスの頭上に不死鳥のロミィが居心地良さそうにちょこんと収まっていた。セレスの手のひらに乗ってスヤスヤと眠っていたロミィは目覚めると自分の居をセレスの頭上と決め込んだようだ。
「……そうなのよぉ」セレスは困り果てたかのように言う。「何度言ってもきかなくて。――どうしてそんなにまで、頭の上にとまりたいのかしら?」
「セレスのことが好きなんですよ。そうでなければ、お母さんだと思っているんです」
「お母さん? 何で? ……と言うかさ。もし、お母さんだったとしてもよ、何故に頭よ?」
「あはは! キミの頭が巣みたいで居心地がいいんでない?」迷夢が笑いながら言った。
「……キミってやっぱり、ヤなやつよね」
「それって、褒め言葉よね? もちろん」
「いやぁ……違うと思うんだけどぉ……?」セレスは怖ず怖ずと言った。
「あら? キミはエルフの子猫ちゃんその二の分際であたしをけなすつもりなのかしら?」
 迷夢はセレスの首根っこを掴まえると絞めあげにかかった。右腕を後ろから回し、全く遠慮がない。流石にセレスも戯れといえど迷夢に絞められたのではとてもじゃないが敵わない。
「ちょ、ちょ〜、ロープ、ロープ。い、息が……、デュ、デュレ? 助けて……」
「自分でどーにかしてください」セレスは腕を組んでプイとあっちを向いてしまった。
「そ、そんなぁ……」
 セレスはがっくりと項垂れた。デュレが助けてくれないのなら、今の面々で救いの手を差し伸べてくれそうなのは誰もいない。そうしたら、迷夢とロミィの一人と一羽のおもちゃにされてしまう。冗談ではないが、迂闊に盾突いて迷夢に弄ばれるのはもっとごめんだ。
「迷夢、その辺にしておいてやれよ。セレスが可哀想だろ。そんなにいじめたら」
「ウィズ! あはっ! ウィズ、いてくれたんだ」
 迷夢は唐突にセレスを放すと、ウィズに駆け寄った。
「いるも何も、迷夢がいろって……。イヤだと言ったら、張り倒しそうな勢いだったから」
「そうだっけ?」迷夢はアッケラカンとした様子で微笑んだ。「いやさぁ、そうでも言わないと、逃げ帰っちゃいそうだったし。折角、知り合いになれたんだから、お互いを深ぁ〜く知る前にさよならだなんて、野暮ったいでしょ?」
「――何がどう野暮ったいんだか……」ウィズはほとほと困り果てたように呟いた。
「……ウィズ。キミって迷夢に随分と気に入られているみたいだけど、何かあったの?」
 セレスがウィズの背後からすり寄って耳元でこしょこしょと囁いた。セレスの分析ではシメオンに来るまでの間に迷夢とウィズに交流するような暇はなかったはずなのだが。謎だ。
「あたしのウィズにくっつかないでもらえるかしら?」
 迷夢はズンズンとセレスに近づくと、ゴチンとゲンコツを一つお見舞いした。魔法が炸裂しなかっただけ十分すぎるくらいにましだったと言えるが、セレスにとっては冗談ではない。
「いったぁ〜い! 何、すんのよ!」セレスは目尻に涙を一滴ためて迷夢に抗議した。
「あははっ、ごめんごめん。つい、いつもの癖で」
「いつもの癖ってどんな癖よ!」セレスは憤慨して迷夢に突っ掛かった。
「あらぁ? あたしにそんな口を利いても大丈夫なのぉ?」
 迷夢はニマニマしながら、とても嬉しそうにしていた。
「だ、大丈夫で……あ、ある訳がないでしょう?」セレスは思わず後ずさりをしてしまった。
 流石のセレスも迷夢には弱い。
 そんな様子をリボンは微笑ましく思いながら眺めていた。神経を磨り減らし、擦り切れるような戦いを続けてきたのだから、ことさら心地のよいものに思えた。厳しさの中に忘れかけた笑顔が戻ってきた。役目は終えた。遠い昔にレルシアから仰せつかった役目は終わった。封印の絵を守り、封印を破るに足るものを見つけ出すために色んなことをしてきたつもりだ。なくしたものも多い。けれど、それなりに充実した日々を過ごすことが出来た。
 リボンは慈しみの眼差しをみんなに送りつつ、ゆらゆらとフサフサの尻尾を振っていた。
「――オレは……行くよ」トタトタとリボンは歩き出した。
 誰にも悟られることなく、そっと静かに姿を消すつもりでいた。それでいい。別れを言いに行き、わざわざにわかに存在を際立たせる必要はないだろう。けれど、そんなリボンの心の内を察していたものが一人だけいた。
「――もう、行くのか……? みんなに挨拶をしなくても……?」
 サワサワと揺れる小さな芽吹きの傍に久須那が佇んでいた。
「湿っぽいのは嫌いなんだよ。――それにオレがいなくなってもサスケは残る。あいつは封印の絵に住み着いてるようなもんだからな。大丈夫、あいつはオレだ。オレがいなくなっても、オレはお前たちと一緒にいつまでもいられる……。お前の呪詛も無事に解けたことだし、この時代に思い残すようなことは――何もない」
「そうか……」久須那はリボンの背中に向かい、一際淋しうな一言を放つ。
 リボンは足を止めた。別れはすっぱりと済ませたい。それぞれに別れの言葉、挨拶を言い、涙にむせぶ別れは嫌いだ。もっとスマートにいなくなる。出会いも突然であったように、別れも突然に。今、顔を合わせたら別れられない気がするのだ。
「――ホントにそうなのか、親父どの……?」
 サスケがひょこりと姿を現した。
「……確かにな、あの絵には未だレイヴンの魔力が残っているから、オレは今後かなりの間、ここにはいられるだろう。でも、それで親父どのは、本当にここにいることになるのか?」
 サスケに言われるまでもなくリボンは判っていた。ここに残るのはあくまでシルエットスキルのサスケだけ。意識を共有していてもサスケは本物のリボンではないのだ。そして、サスケはもう一つの事実を知っていた。二百二十四年前、シメオンが壊滅した日の出来事を。
「……親父どのは気が付いているんだろう? このまま……別れてもいいのか?」
「ああ……。出会いは仕組んだものだったからな。別れは気ままにいくさ」
「哀しむぞ。特にセレスは。あいつはお前を慕っているから。何も言わずに姿を消したらショックで落ち込むだろう。――バッシュと親父どのを一度に失う……」
「……それも、人生だろうさ。それにあいつにはロミィがいる。哀しんでいる暇はない。――いいだろ? オレは思い出の向こう側に消えるんだ。後は任せたぜ、サスケ」
「……親父どの!」サスケはリボンを止めようと前に飛び出た。
「――気持ちは変わらない。オレが強情なのはお前がよく知ってるだろう? ……それにオレもメッセージを受け取っているからな。クロニアスに面倒をかけるようなことはあまりしたくない。フフ……、あいつらに別れを告げに行ったら、オレはどこにも行けなくなる――」
 リボンは淋しげであり、儚げな、そして、どこか誇らしげな柔らかな笑みを浮かべた。
「……」そうまで言われてしまうとサスケも返す言葉がない。「判ったよ。……勝手に……どこへでも行ったらいい。でも、死なないで欲しい……」
「それは無理な相談だな……。お前も知っているだろう……?」
「シリア……。クロニアスは時の道筋が一つではないことを教えてくれたんじゃないか?」
 サスケとリボンのやりとりに久須那がそっと口を挟み込んだ。
「――ひょっとしたらな。だが、それはここじゃないどこか別の世界のことだ。……もしかしたら、どこかには久須那も呪詛に犯されずピンピンしていた世界もあるのかもしれない……」
 再び、リボンは歩き出した。淋しそうに躊躇うことも、立ち止まる素振りも見せずに。リボンにはしなければならないことが残っていた。それを完遂しなければ、この“勝利”はあり得ない。デュレとセレスが訪れたあの時代へ。“初めての出会い”をするためにあの街並みをバッシュと共に歩いていなければならない。“封印の絵”を守らなくてはならない。
「――バッシュともう一度、あの街並みを歩くんだ……」
 リボンはスッと煌めきの中に姿を消した。今一度、始まる物語のために。