12の精霊核

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28. eyes of ice & snow(氷雪の瞳)

「レルシア……。少し手間取りすぎたようです」
「……そのようですね。……先に行ったシリアくんは?」
 問題の街区に近づくと昼間なのに、薄暗くなって来ていた。空を見上げると、雲で日の光が遮られるなどの自然現象ではなさそうだった。とすると、残る可能性はただ一つ。魔法を実行する副産物として空が一時的にかき消しされている。
「あまり、良い兆候とは思えませんね」
 どこか怪しげな雰囲気を感じて、シェイラルは呟いた。
 シェイラルは街路の隙間から見える限りをひたすら眺め回した。人っ子一人いない。昼間にあって異様な静けさに包まれた街並みに気が付いた。時に地鳴りのようにも聞こえる雑踏がない。
「レルシア、気が付きましたか?」
「ええ、お父さん。街に人の気配がなくなってますね……」
「……これは……迷夢ですか? マリスの仕業ですか……?」
「……」レルシアは瞳を閉じて、そこにある魔力の流れを感じ取ろうとした。ここにあるのは六つの色の異なる魔力の流れ。その中でこの街に色濃く残されているのはゼフィの色だった。「ゼフィですね。フォワードスペルの広域エフェクトかしら」
 レルシアは悟った。シメオンの市民を迷夢の魔法から守るためにゼフィが避難させたのだと。
 と、道筋の彼方から小さな白い陰が息巻いて駆けてくるのがシェイラルの瞳に映った。一体、どこから駆けてきたのか、シリアがシェイラルたちの前に走り付いた時には肩で息をしていた。
「おじさん。今、こっちに来たらダメだよ。あ、危ないんだ。迷夢が……」
 シリアの伝える情報は断片的すぎて要領を得ない。
「――シリアくん。何が……言いたいんですか。落ち着いて最初から話してください」
 刹那、迷夢のマーカーに再び光が灯った。光が四つのマーカーを結び、光の柱が天頂を目指しのびていく。スプールフィールドからシメオンの雑多な魔力が解き放たれ、迷夢の魔法が再起動を果たしたのだ。シェイラルとレルシアのいる場所も淡い光に包まれようとしていた。
「……この中にいると良くないことが起きるようですね……?」
「もう、何でもいいから、早く戻ってっ」シリアは半分泣きそうになりながら躍起に怒鳴る。
「お父さん。シリアくんが泣き出す前に急ぎましょう」
 シェイラルはくたびれてそのままうずくまってしまいそうなシリアを抱えて、元来た方へと駆けだした。ノンビリしていたら、誰かが仕掛けた魔法に巻き込まれてしまうらしいのだ。
 しかし、どうやら遅すぎた。地面から約一メートルくらいの高さにロープのような光が走っていた。一見するとそれだけに見えるが、目を懲らすと薄い障壁のようなものが形成されている。
「これは厄介ですね」
 シェイラルは遙かな上空まで延びていく障壁のようなものを見上げた。それから、右手を伸ばしてそれに触れてみようとした。
「お父さん。やめた方がいいわ。それ、高エネルギーフィールドの境界面みたいだよ」
「触れると雷の直撃を受けたような感覚に襲われますか」
 さて、どうしたたものかとシェイラルは思う。その柔和な表情が少し崩れ、顔色は曇った。シェイラルの知らない魔法だ。全部を壊してしまうのは簡単そうだが、それでは困るのだろう。
「迷夢が……光が入ったら簡単には出られないって」とうとう涙がこぼれ落ちる。
「簡単には出られない……か」
 レルシアはシリアの言葉を繰り返し、フィールドの境界面を探り出した。それはレルシアたちの来た道と直交する道の隅の方に形成されていた。レルシアのいる場所からは道の続く限り、一緒にフィールドも続いているようで切れ目はなさそうだ。
「……このフィールドってものは透過するのかしら?」レルシアはシェイラルに振り返った。「透過しないんだったら、家を掠めてるところを探せば、何とかなるかも……」
「それはちょっと無理な相談のようですよ」
「どうして?」
「あれを見てください」シェイラルはその方向を指で指した。
 示された場所には街路樹が生えていて、門を形作るかのように枝が重なっていた。その場をほぼ横断するようにフィールドができあがっている。光のロープも木の幹をまるで何事もなかったかのように突き抜けてずっと遠くまで延びていた。
「……。ぽ〜っとしてるようで、その実は凄いのね、迷夢って。でも、このままでいたら、確実に巻き添えを食っちゃうし。何より、シェイラルと玲於那の娘、ハーフエンジェル・レルシアの名が泣くわ。協会のカーディナルがこんなことで絶命だなんてなったら、とんだお笑い種ですし」
 レルシアにはまだ幾分の余裕があるようだった。
「まあ、そうでしょうけど、御託を並べる余裕なんてないはずでは?」
「お父さんこそ、まだ余裕じゃない。目が笑ってるし……」
「これがフツウの顔ですっ。……フォワードスペルか、パーミネイトトランスファーはダメですか」
「魔力を使うのは何でも引っ掛かるんじゃないかしら……ね?」レルシアは困ってしまって顔色を曇らせた。「シリアくんは迷夢から何か聞いていませんか?」
「何も。……オレだって、迷夢が呪文を唱えたあとに……」
「そうか……」
 せめて、何の魔法かでも判れば対処の仕方もあるかもしれないが、ヒントすらもないのでは正直なところ手の打ちようがない。しかし、何も出来そうもないからとこの場で雁首そろえてフィールドの境界面を眺めていても始まらない。と、シェイラルがふと思いついたように言った。
「フィールドイレーズなら、もしかするかもしれませんね……。わたしたちが通れるくらいの穴だけを空ければ――全体への影響はほとんどでないのではと……」
「……うまくいくかしら?」レルシアは少し懐疑的に考えていた。
 険しい目つきで、淡い黄色の境界を見詰めていた。そう言ったピンホールショット的な魔法は狙いが多少甘くても何とかなる魔法よりも数段上の難しさがある。しかも、至近距離では遠距離を飛翔させるよりもずっと自分も傷つけてしまう可能性も高いので、出力の精度も求められた。
「問題はこのフィールドがどれだけの出力まで耐えられるかだけだと……」
「確かにそうかもしれないね。……壊れても、影響範囲外に逃げ出せればいいけど」
 レルシアは再び考え込んだ。スケールの大きな魔法はかえって脆く、蟻の巣穴のようなことからたやすく崩れてしまうこともある。レルシアが思うにはこの特殊なフィールドの内側、自分たちのいる方にはシメオンの持つ独特のエネルギーが充満しているようだった。そこから、発生する魔力をもって何をしようとするのかレルシアには判らない。
 すると、シェイラルがその様子を察して、レルシアに教えた。
「迷夢は異界とこの世界のボーダーを守ろうとしてるようですよ」
「……確か、古代魔法の研究をしてるって、迷夢、言っていたよね。あるものと引き替えにあるものを手に入れる……。それって、かなり危険な魔法かも……?」
 古代魔法の学は浅いので、レルシアは何とも言えなかったが、うろ覚えの古代魔法の中身を拾い上げていくとあまりに危なすぎて消えていったものが非常に多い。
「何をしたいかだけは察していたんですけど、こうするとは予想できませんでしたねぇ……」
「感心してる場合じゃないでしょ。お父さん。このままだと本当に大変なことになるのに」
 レルシアはほとほと呆れしまったかのように横目でシェイラルを見やった。

 タッ。タッ。タッ……。マリスは黒色の剣を下に垂らしたまま久須那にゆっくりと歩み寄った。それは久須那に対し、決して後れを取らない自信の現れだった。
「覚悟はいいんだろうな?」マリスは凄みをきかせた低い声で言った。
「そんな馬鹿げた問いを今更するのか?」
 久須那の背中は緊張の気持ちの良くない汗で濡れていた。一瞬の隙が命取りになる。今まではマリスも多少の手加減はしてくれていた。不本意だが、それは認めざるをえない。しかし、今度はそんな下らぬ甘い幻想を抱いていたのでは殺されてしまうのに違いない。
「聞きたくなるわたしの気持ちも察して欲しいな?」マリスはニヤリとした。
「決闘になっても負けない自信があるんだろう?」
「無論だ。左腕一本でも久須那には負けない」
 そこには慈悲のかけらもなかった。昨日までの、どこか優しげで悪戯っ子たちを温かい眼差しで見守るお姉さんの姿はない。そこに立つには憎悪に身を焦がす復讐の女。久須那はそれ以上発言することなく剣を正体で構える。大きく息を吸い、呼吸を整えた。
 短い時間に二度目の対決。今度は先ほどのように戦いをマリスから放棄することはないだろう。
 そして、二人は互いを見つめ合ったまま対峙した。
 二人は動かない。少なくとも、久須那から仕掛けるには危険すぎる。一撃を繰り出そうとする瞬間に出来る僅かな隙につけいられれば打つ手がない。マリスはそんな久須那の不安に気が付いたのか不意に動いた。
「――っ!」久須那は瞬間、たじろいだ。
 想像以上に動きが速い。先程までのマリスがどれだけ手加減してきたのかを痛いほどに感じた。マリスの刃はがその悪辣な冷たい微笑みと共に迫る。
 ぎぃぃいん。
 二本の剣が激しく交錯し、鈍い音を立てる。青白く燃える炎と黒く禍々しさを湛えた炎が入り交じる。聖と邪。色のイメージが反映されて、普段考えもしないことが久須那とマリスの頭をよぎっていく。白い翼と黒い翼。悪者はどちらなのか。
「往生際が悪い!」マリスは剣をぐいっと久須那の手首が捻られるように押しつけた。
「くあっ!」久須那は短く悲鳴を上げた。
 キンッ。久須那の剣が騒々しい音を立てて転がった。
「拾え……」マリスは凍てついた眼差しを久須那に向け、を久須那に差し向けた。
 久須那はマリスを無視した。肩で息をして、じっとマリスを睨み付けた。この隙に、少しでも魔力を回復し、体勢を出来る限りを整えたい。体力を回復して完全な状態でマリスに臨むのはもはや出来ない相談だった。ならば、時間稼ぎも重要な戦略の一つといえる。
「拾えと言ってるのが聞こえないのか」業を煮やしてマリスは怒鳴る。
「待つ理由などどこにもないだろ?」久須那は言った。
「……!」屈辱を受けた。マリスは剣の束をぎゅっと握りしめた。
「邪魔なら、さっさと殺せばいい。それが出来ないのなら未練があるのだろう?」
「ほざけ」マリスは努めて軽くあしらった。
「わたしを殺めたくないんだろっ?」久須那は虚勢を張った。
 ただ闇雲に剣を振るっていてもマリスに致命的な一撃を喰わせることは出来ない。心理的な側面からも攻撃を加え、何としても動揺を誘わなくてはと久須那は思う。
「お前、さっき面白いことをしたな?」
 マリスはふと久須那がイグニスの弓を剣に変化させたことを思い出した。元々、生まれでた時より持たされた得物を他のものに変化させることはない。授けられたものこそが天使には最高の武器だからだ。しかし、マリスは久須那を倒しただけで収まりが付かない。少なくとも久須那のプライドを粉々にし、屈辱を与えなくては。マリスは半ば悪意を込めて剣をあるものへと変化させた。
「――。マリス、それを使いこなせるのか?」久須那が言う。
 マリスが手にしていたのは久須那の弓に似せた長弓だった。
「さあ?」口元を歪めてマリスは言った。「使いこなせなくとも試し打ちは出来る」
 マリスは久須那を追いつめておきながら、飛翔し、弓を使うために必要な距離を開けた。
 弓の矢摺より、ごうごうと燃える黒き炎を身にまとう矢が浮かび上がる。マリスは冷淡な表情で久須那に狙いを定め、躊躇うことなく矢を射る。しかし、狙いが甘く、初速も遅い。久須那は身を軽く翻し剣を拾うと、矢を難なくたたき落とした。
「――。やはり、慣れぬものを使ってもダメか……。弓だけなら、わたしよりも上か?」
 それでも余裕を見せつけるかのようにマリスは微笑む。
「いいや、魔力以外、全て、お前より上だ」悲壮な笑顔。
「ふん……」マリスは瞳を閉じ、鼻で笑う。「そこまで言えればたいしたものだよ、久須那。……しかし、こんな下らぬ茶番劇などとっととお仕舞いにするぞ」
 マリスは弓を剣に転じていた。時間はないというのに、少々、お遊びが過ぎたようだ。マリスは左手で剣を持ち、右手をそっと添えた。これで終わりにする。
「さよなら、久須那」マリスは太刀を振るために一歩を踏み出す。
 一方、サスケとゼフィは壮絶な戦いと口論を繰り広げるマリスと久須那のとばっちりを食わない程度のごく至近距離で、マリスを封じるための下準備を始めていた。
「雪原を駆け抜ける凍てつく北風を氷雪のふるさとより揺り起こし、我が、望むる場所まで送り出せ。氷雪の女神・クリスタロスの氷の接吻、祝福をその身に受けよ」
 二人で呪文を重ね合わせ、発動させる魔法に大きな魔力を与える。と、ゼフィは詠唱に人一段落が付いた辺りで、屋根を破壊しながらせめぎ合うもう一組の二人組を見やった。
「サスケ、途中で止めてください。……あのままでは、久須那がやれてしまいます」
「判った……」二人は瞬間、互いに見合った。「ゼフィがそれでいいなら」
「えぇ。……あの娘が死んだら、未来にはあまりに希望がありませんよ……」
「そうだな。オレたちの息子だけじゃ、頼りなさすぎて死んでも死にきれないか」
「そこまでは言いませんよ。ただ、あの子、一人じゃ何も出来ないから。絶えず先を歩いてくれる道標のような人が必要です」
「……それは久須那なのかい?」
「さあ? でも、この中にいることは確かだと」少々自信なさげにゼフィは言う。
「なら、誰一人欠けてもらっては困るって訳だ」にやり。
「ええ――、……フォワードスペルっ」
 ゼフィは自らの前に魔法陣を描き出した。白い軌跡で描かれた背の丈ほどの魔法陣。二重円と六
芒星、そして、その内側に閉じられた瞳。ゼフィは準備が整うと深呼吸をした。もうすぐ、終わる。シリアが体調を崩してシメオンを大雪に閉ざした日から約三ヶ月。北リテールを旅立つ前に、サスケから予兆を聞いてから四ヶ月。
「……サスケの予兆は……事実に取って代わりますね」
「悪いな、ゼフィ。ここまで来たらオレの予言は外れないんだ」
「そうだったね」ゼフィの目はサスケを見ずに正面の魔法陣をじっと見詰めていた。「……さてと――、名残惜しいけど、行きますか……。久須那の前へ、キャリーアウトっ!」
 刹那、魔法陣の瞳がガッと開き、ゼフィを目映い光の中に飲み込んだ。
 その次には、魔法陣はくるんと横に四分の一回転し、真横から直線に見えるようになった時、線が縮まるように消失し、その逆の工程を経て久須那とマリスを結ぶ線上に現れた。
「何?」マリスはぴくりと右眉をつり上げた。
 白い軌跡の魔法陣が瞳を見開くと、黄褐色のマントを翻しゼフィが姿を現した。
「ゼフィ!」久須那が予想外のゼフィの登場に声を上げる。
 マリスとて、久須那に向けた切っ先を引っ込めることは叶わない。いや、むしろ、刃を止めるつもりはありはしない。この機に乗じてゼフィを消せれば、邪魔者が一人減る。マリスはギンと瞳を険しく煌めかせ、剣を握る左腕にあらん限りの力を込めた。

「フィールドイレイザー」
 と、優しく囁きかけながら握った手を開くと、そこからぽっと仄かな明かりを灯したソフトボール大の光の玉のようなものが姿を現した。
「うわ〜。綺麗だね。それ」
 シリアは忘れていた好奇心を思い出したて、パッと顔に明るくなり瞳をランランと輝かせた。
「でも、触れると危ないですよ」努めて何でもない風に言った。
「え……?」シリアは身を引いて、シェイラルの腕の中で丸くなる。
 レルシアはそんな可愛らしい仕草を見せるシリアを見てクスッとすると、改めてフィールドの境界面に向き直った。上手にやらなくては抜け穴を作るどころか、丸ごと吹き飛んでしまうかもしれない。デリケートな作業になるのは確実だった。
「……上手くいきますように……」
 手のひらをフィールド面にかざす。フィールド面に玉が触れると、シューッと気体が蒸発するような音が聞こえ、その部分だけぽっかりと穴があいた。
「上手くいきそうですね?」レルシアの斜め後ろから覗き込んでいたシェイラルが言う。
「ええ、でも、油断は出来ません」
 レルシアはより慎重になり、円を描くように最初の穴を大きくしていった。すると、安定していたはずのフィールド面が突如、前触れさえなく揺らいだ。
「――っ!」レルシアは思わず目を閉じて、身を震わせた。
「……? どうかしましたか?」
「このくらいが限界みたい……」
「ねぇ……、こんな大きさでレルシアのお尻は通れるの?」
「なっ! シリアくんだからって、幾ら何でも失礼です!」
 レルシアは真っ赤になって怒り出した。
「しっ! 呪文の詠唱が終わった……みたいです、ね?」
 不意に空気が変わった。先程まで微かに感じられた空気の脈動すら止まっていた。
「早く、早くしないと巻き込まれます。離れて、出来るだけ遠くに!」
 レルシアはシェイラルの手を取り、引っ張った。うかうかしているとロクでもないことになる。この一角が光に包まれた時とは違い、今は辺りにピリピリとした緊張感が充満している。それは何か途方もないことの始まる予兆に違いない。レルシアはそう判断し、行動を急いだ。
「レルシア?」シリアが半ばキョトンとしてレルシアの名を呼んだ。
「シリアくんは聞かなかったの? この魔法はとても危険です」レルシアはシェイラルの腕の中にいるシリアを見やった。「とある望みと引き替えに街を闇に沈めるのよ。お父さんも、察していたのならどうして、迷夢を止めなかったの?」
「他に方法がありませんよ。異界の崩壊を食い止めるのにはね」
「……マリスも迷夢も、わたしたちの周りにはどうしてこう忙しない人たちばかりなの?」
 レルシアはほとほと困り果てたかのように頭を抱える。そして、フィールド面に触れても多少は大丈夫なように自分の周りに簡易シールドを張り巡らせ、レルシアは抜け穴に頭から突っ込んだ。
「……あれ?」
「レルシア、早くでてください。後がつっかえてます」
「そんなことを言っても……」
「ほら、やっぱり……」シリアは穴から這い出そうとしてるレルシアをジトッと眺める。
「だから、シリアくんっ!」と言いながらも、足をばたつかせて、悪戦苦闘。
「オレ、まだ何も言ってないもんね〜〜」
「もお、いいですから!」
 シェイラルはシリアを石畳の降ろして、とうとうレルシアのお尻を押しだした。
「ちょっ! お父さん、それ、ちょっと、ヤっ! 幾らお父さんでも、だめっ!」
「だったら、早く通り抜けて。苦情はそれから聞きます」
 ジタバタするレルシアは足が滑った瞬間、シェイラルの顔をヒールで蹴り上げた。
「ぎゃっ!」シェイラルは尻餅をついた。
「うわぁっ」シリアも思わず目を伏せる。「バッチリ決まっちゃったけど、おじさん、大丈夫?」
「あまり大丈夫ではありません……」シェイラルは左手で顔面を押さえた。
「お父さん。今のおかげで外にでられたよ」
 フィールド面の向こう側から明るいレルシアの声が届いた。
「それは……良かったですね」シェイラルは疲れがどっと出たかのようにがっくり肩を落とした。顔が痛くて素直に喜ぶ気にすらならない。「でも、まあ、……わたしたちも早く外へ……」
「……おじさん。生きてれば、きっといいことがあるよ。だから、ね?」
 シリアは彼なりにシェイラルを慰めていた。

「死ねぇっ!」
 マリスの剣がゼフィの腹部を深くえぐり、勢いに乗った刀身は軽くゼフィの細い身体を突き抜た。
「ああぁぁあぁあぁっ!」
 ゼフィの耳をつんざくような絶叫が石造りの街にこだまする。剣は握りが貫き通す障害になるかのように止まっていた。束からは血が滴り、マリスの手から雫となってこぼれ落ち、水玉を形作る。やがて、止めどなく溢れ出るそれは鮮烈なイメージを植え付ける赤い水たまりになっていた。
「……お前、何のつもりだ。命を張って久須那を守ってどうするつもりだ」
 マリスは剣の束を握り、赤いものの滲むゼフィの白い服から目を離すことなく尋ねていた。
「判りきったことです……」息も切れ切れになりながら、ゼフィは気丈にも喋った。「わたしと……同じ立場なら、あなたも同じ事をするでしょう……」
「フン、偽善者め。わたしが聞きたいのはそんな見え透いた麗句ではない」
「――ゼフィ? ゼフィっ」
 と、そこへレルシアとシェイラルを捜しに行ったシリアが戻ってきた。辺りのただならない凍てつき、荒んだ雰囲気に当惑して、期せずにゼフィの名を連呼していた。
「ゼフィっ!」シリアが叫んだ。そして、うずくまる久須那とマリスを見比べた。「何があったの? ねぇ、オレがいない間に何があったんだよっ。――おじさん、レルシアっ」
 シリアは後ろから走ってくる、シェイラルとレルシアに勢いよく振り向いた。たった十数分の間に一体何があったのか、理解できない。訳が判らない。シリアに判ったことはただ一つ。もう、こんな無邪気で楽しい日々は戻ってこない事。
「――シリアくん、どこに行ったんですか?」シェイラルがシリアを呼ぶ声が聞こえる。
「ゼフィ……! 今――」レルシアはゼフィを助けようとした。
「来ないでください!」
 ゼフィはキッと激しい感情を込めた眼差しで、レルシアを睨め付けた。自分の最大のピンチを最大のチャンスに転じる。そうするつもりはなかった。しかし、今となってはこの状況を最大限に活かすほかない。
「どうしたかったのか……聞きたいですか……? サスケっ!」
 ゼフィがふり絞る呼び声に乗って、サスケが現れた。一気に屋根を駆け下り、マリスの背後を取った。マリスは未だゼフィの身体から剣を抜くことが出来ず、まともに身動きがとれない。剣をうち捨て、その場を離れようとした時にはすでに手遅れだった。
「……マリス、年貢の納め時だ。大人しく封印されろ」
 遠くから近づいてくるその声は怒りと哀しみにあふれていた。マリスはリテールに召喚された最強の天使。かつて、リテールの英雄とまで言われたイクシオンと東方はサラフィの退魔師・申の命を持って葬ったジングリッドを上回る戦士でもある。
 しかし、ここでマリスに屈服するわけにはいかない。
「ゼフィっ!」ゼフィとタイミングを合わせるためにサスケは叫んだ。
「フローズンビンディング、ダブルバインド」
 ゼフィの氷色の瞳に最後の煌めきが宿る。
「うあぁ。……またか。性懲りもなく二度も同じ手を」
「いいや、違うさ」サスケは首を横に振った。「久須那。来いっ! これで最後だ!」
「判った――」
 ここまで来て、久須那はもう何も問わない。サスケの気持ちは判っているなどと利いた風な口をきくつもりはない。ただ一つ確実なこと、マリスを何らかの形でも封じるためにはその魔力を可能な限りそぎ落とさなければならないのだ。
 そして、久須那は弓を選んだ。イグニスの矢をつがえ、一本の矢にあらん限りの魔力を込める。すでに連戦で魔力を消耗し、大した力も出せないが、それでもマリスの魔力を奪い去ることは十分可能だ。久須那は矢を放つ。
「マリス、もっと判り合うだけの時間が欲しかったよ……」
「くそぉぉ! 放せ、放せぇ」
 ドンっ! 久須那の放った矢はマリスの左肩に突き刺さった。同時に、サスケは封印魔法の詠唱を始めた。氷の精霊王にのみ伝えられる封印魔法の一つ。
「氷雪の王者、サスケの名において命ずる。星霜の彼方より続きし精霊王の死せる魂を呼び覚まし、血族に受け継がれる白き魔力を解き放て。さすれば、氷の風格を閉ざされし記憶の淵から呼び覚ません! お前とは長いつきあいになりそうだな……?」
 迷夢は戦いの剣呑な空気が僅かに和らいだ瞬間を狙って、最後の呪文を唱える。
「光に住まう闇の言霊。迷夢の名において我が望み……異界と現世を分かつ次元の壁、境界領域を修復、強化……。そして、何人の触れることなきよう封鎖せよ。願わくば……願わくば、再び、異界への扉が開くことのないように……」
 迷夢はどうにも自らの内側に封じられない望郷の思いを胸に最後の一フレーズを唱えた。
「キャ……キャリーアウト……」
 瞬間、シメオンに張られたマーカー内側から立ち上っていた光が下の方からす〜っと何かに掻き消されていくかのように見えなくなっていった。都市に秘められた魔力を異界との境界面の修復と強化に必要なエネルギーへと転じているのだ。都市はそれを維持する魔力を失うと、急速な勢いで廃墟へと変わる。人の気配、生活臭。街が街として存在するための魔力がなくなれば、そこはただの廃墟、廃屋に他ならない。空っぽになったその場は魔物、魑魅魍魎の徘徊する地へと変化し、やがて、魔都、闇の領域へと位相を移す。
「……千年だ。その時が来たら、再び、我を呼べ……」
 瞳は虚空にひょいと姿を消すとそのまま二度と姿を見せることはなかった。その様子を確認すると、サスケは封印に必要な最後の合図を送った。
「封魔結界っ!」
「貴様……わたしが悪魔だというのか」振り絞るかすれた声色だった。
「そうだ。周囲に散々仇なすものを“魔”と言わずに何という。お前は悪魔より悪魔的な天使だよ。かつて、異界にて災厄を呼ぶものの名を恣にしたことはある。迷夢の策略家と双璧をなしたとも聞き及んでいるぞ……」
「お前などに大人しく封印されるとでも思ってるのか。わたしはこんなところで」
 ピキ……。全くの不意に冷たい風が吹き出した。それはリテールに吹く木枯らしよりも冷たく張りつめたものだった。やがて、サスケとマリスと、その限られた周辺に異常に冷やされた空気に反応して、空中の水蒸気が凝結、水滴に状態変化を起こし始めた。
「サスケ! お前はここで死ね」
 マリスは言うことの聞かない身体を強引に捻り、サスケの首筋を掴まえた。体面など構っていられない。もはや、誰だって構わないのだ。自分の望みを妨害したものを一人でも多く道連れにする。
「ぐぁ。遅い……。ここまで来たら、オレを殺したところで、お前は封じられる」
「構うものか。封印はいずれ解ける。なら、続きはそのときにやるさ。今はお前を永遠に抹殺することで我慢してやる」
「いいや、お前にはもう何も出来ない。時間切れだよ、マリス姫」サスケは苦しげに顔をしかめ、右目を瞑った。「へへっ。封印が解けるその日まで仲良く頼むぜ? マリス……」
 さらに封印の度合いが進むと、水滴は氷になり。ある一点を超えた瞬間、一気にマリスの全身を包み込んだ。そこにはマリスとサスケを封じ込めた大きな氷の塊ができあがっていた。
「は、はは……。成功したよ。これでしばらく、静かな時が刻まれる……」
「ゼフィ、ゼフィ……、何でこんな」
 迷夢は全てを終えると、なりふり構わずの泣き面でゼフィに駆け寄り、屋根に座り込んでゼフィをその膝の上に抱きかかえた。
「そんなに哀しそうな顔をしないでよ。まだ、死んでいないよ?」
「うん、うん……でも、ゼフィ。――これを持って」
 迷夢は自分の左腕に付けた腕輪をはずしてゼフィに持たせた。
「ウロボロスの腕輪――。終わりのない、永遠、輪廻転生の象徴……。終わりは始まり」
 ゼフィは焦点の定まらないような眼差しで腕輪を眺めながら、囁くように呟いた。
「そうだよ。それがあれば、ゼフィは死んだりしないんだからね」
「サスケがいなかったら、わたしはダメなんだよ……」
 ゼフィは力無く迷夢の手を握りながら、儚い微笑みを浮かべていた。
「でも、サスケはまだ死んでない。絶対、死なせたりしないから。ね? だから、死なないでよ。キミがこんなことくらいで死ぬはずがないんだから、ね? キミは精霊なんでしょ。精霊なんだよ」
「迷夢の腕輪。ふふ……、ずっと欲しかったんだよ。どこで手に入れたのか知らないけど、キミ、妙に自慢げだったでしょう? ふふふ……」
「それ、あげるから。それでもいいから、ね?」
 ゼフィは迷夢の腕の中から少し身を起こして、首からペンダントを外した。そして、ウロボロスの腕輪の代わりにするかのようにそれを迷夢にぎゅっと握らせた。
「このペンダント、シリアに渡してくださいね。ちゃんと仲直りするんだよ。あの子はおびえてるだけだから、ちゃんと判ってくれるよ。迷夢は悪くないって」
「判ったよ。けど、あたしを一人にしないで、せっかく出来た友達だったの」
「もうダメだよ。今のサスケの魔力じゃ、わたしの身体を維持できない。特別なんだよ? わたしたち。サスケはわたしで、わたしはサスケなの。精霊核だけに依存してるんじゃないよ……、へへ」
「もう、喋らなくていいよっ!」迷夢はあまりのショックに耐えられずに目をぎゅっと閉じ叫ぶ。
「最後くらい、わがままを言わないで、聞いてくれてもいいのにね。迷夢? ……あぁっ!」
 ゼフィは苦痛に大きく身を震わせた。迷夢は慌ててゼフィの身体をぐっと抱き締める。
「……ホントのこというとね。わたしの精霊核はもうないの……」
「え……?」迷夢は驚きを隠せない。「そんな、だって、そんなことあるはずない……。ゼフィが……、サスケがあんな天使になんか負けるはずないっ!」
 ゼフィは迷夢の言葉を聞きもせずに先を続ける。
「そのアミュレットに残った欠けらの記憶とサスケの魔力で今日まで頑張ってきたよ……。だから、言ったじゃない。わたしはサスケなんだって。マリスに傷を負わされなくたって、行く先は一緒だった。うぁっ! あぐっっ」
 ゼフィは身もだえし、迷夢の手をきつく握りしめた。長い髪を振り乱し、最後に迷夢の顔を見ようと必死に足掻く。そして、二人の瞳が出会った。
「キミと会えて、楽しかったよ。……泣かないの、さよなら、めいむ……」
「ゼフィー!」
 迷夢は崩れていくゼフィの身体を抱き留めて泣き叫んだ。やがて、ゼフィの身体は氷が溶けて水滴になるかのようにこぼれ落ち、迷夢の渡した腕輪がキンと乾いた音をさせて屋根に落ちた。それはカラカラと淋しげな音色を立てて迷夢の膝元にまで転がった。
「そんなの、ないよ」迷夢は自失したように腕輪を拾い上げ、呟いた。
「……迷夢」そっと吹き抜ける優しい風がレルシアの元に迷夢の哀しみを運んだ。
「行ってあげなさい、レルシア――」
 レルシアは小さくコクンと頷くとどうしていいのか判らずに落ち着きなくチョロチョロしているシリアを見つけた。自分一人では屋根の上に上がることも出来ず、誰に助けを助けを乞うていいのかすらも判らない。自分だけではままならない悔しさと行き場のない怒りのような失意が胸を支配する。自分にもっと力があれば。
「……シリアくん。ゼフィのところへ」レルシアはシリアに手を差し伸べた。
 シリアは目頭に涙をいっぱい溜めて、湧き出る哀しさと悔しさを胸に封じようとしていた。そうでもないと自分が何かに押しつぶされてしまいそうだった。
「シリアくん?」レルシアに促され、シリアはレルシアに抱かれる。「じゃあ、行きますよ。しっかり捕まってて……。パーミネイトトランスファーっ!」
 二人の姿は掻き消され、次の瞬間には迷夢とゼフィ……みんなのいる屋根の上にいた。
 レルシアは座り込んだままうずくまる迷夢の肩にそっと手を置いた。迷夢はピクッと身を震わせ、涙に濡れた瞳でレルシアを見上げる。
「……レルシア……?」俯く。「こんなはずじゃなかったのに。誰も犠牲にならないはずだったのに。どうして……」迷夢は裏返った声色でレルシアに訴えかける。
 レルシアは暖かな眼差しで迷夢の哀しみでいっぱいの眼差しを受け止めた。
「ゼフィは関係なかったのに、久須那もあんな呪いなんかかけられないはずだったのに」
 どこかで、ボタンを掛け違えた。それに気が付いた時にはすでに手遅れで、掛け直すことも出来ずに最後までいってしまった。どうして、もっと早く気が付かなかったんだろう。どこかで、誰かがもっと素早く的確な判断をしていたら、こんな事にはならなかったはずなのに……。